7
彼女と最初に言葉を交わした日のことを思い出していた。
俺にとって、あまりに都合が良すぎる出来事。
あの日からの俺は、毎日彼女と肩を並べて、他愛もない話をしている。とても幸せな時間を過ごしている。
他方、言いようのない不安を抱えている。これでよかったのか。彼女の側にいるのは俺でいいのか。
我ながら見苦しいというか、みっともないというか、醜い思考をしていると思うけれど、こういう考えは、頭に浮かべないようにしていても、気付いたら考えてしまっているものだ。
何度も、何度も考えている。
俺は今、たまらなく幸せだが、果たしてこれでいいのだろうか。そして、幸せだったとしても、このままでいいのか。
この時間は、いつまでも続くわけじゃない。
「ね、何考えてるの?」
右隣から、彼女の声がした。いたずらっ子のようでいて、無邪気な明るい声。少し離れて座っていたはずなのに、気付けば俺と彼女の距感はゼロになっていた。彼女の肩と俺の肩はくっついていた。この肌寒い冷気の中、しっとりと湿って温かい彼女の肌が、俺の肌に触れている。
思わず肩が跳ねて、身を逸らす。彼女と触れ合っていた部分が、離れる。
すると彼女は、少しだけ悲しそうに笑った。
「私とくっつくの、イヤかな?」
「あ、別に、イヤじゃない。ただ、ごめん、びっくりして」
「びっくりしただけ?」
「うん」
「じゃあ、くっついてもいいかな、ほら、ちょっと肌寒いし。このままじゃ風邪ひいちゃうかも」
そう言って、彼女はわざとらしく腕をさすった。「あー、寒い寒い」
彼女には敵わないと思った。
「いいよ」
できる限りの平静を装って、俺は言った。内心は、これ以上ないくらい緊張しながら。
左の方へ逸らしていた体を元に戻すと、彼女は俺に寄りかかるように身を寄せてきた。
俺の右側の部分と、彼女の左側の部分が、触れ合っている。湿気をたっぷり含んだ空気の中、しめった肌同士が密着している。
「君ってさ、体温、高いよね。あったかい」
「そうかな」
「うん、そう」
それはたぶん、彼女と触れ合う時の俺がとても緊張していて、毎回熱くなっているだけだと思ったが、何も言わなかった。
少しの沈黙が落ちる。シンと空気が冷え、セミの声は聞こえない。ただ、ザァザァと激しい雨音だけが響いていた。
「なかなか、やまないね」
彼女がぽつりと言った。
俺と彼女は、高架下で雨宿りをしていた。
「そうだな。早く、やむといいけど」
「やんでほしいの?」
「え?」
「私はもう少し、このままでもいいんだけどな」
いたずらっ子ように微笑んで、彼女が言う。俺に顔を向けている。まぶたは閉じているけれど、彼女は今、俺を見ていた。
「君は、違うの?」
少しの沈黙があった。
「俺、は」
「うん」
「ずっとこのままでもいいかな」
「なにそれ」と彼女は吹き出すように笑った。「うーん、ずっとはいやかな」
また少しの沈黙があった。雨音がやけに大きく聞こえた。
「私は小説家にならなくちゃいけないし、それに、君と色んな所にも行ってみたいから」
「そっか」
「うん」
「なれるといいな、小説家」
「うん、ありがと」
そう言う彼女は、少しだけ不満そうだった。
そこでふと、俺は違和感を覚えた。
俺が彼女と最初に言葉を交わしたのは、本当に今年の夏が初めてなのだろうか、と。
こめかみの傷跡に、鈍い痛みが走った。
〇
彼女には、不思議な特技があった。
俺がそれを最初に見たのは小学四年生の夏休みの終わり、彼女へのストーカー行為が板に付いてきた頃だ。
俺は芝生の斜面に腰を降ろして膝を抱える彼女を、少し離れた位置から、同じように膝を抱えて眺めていた。
彼女は昼過ぎから夕方まで、イヤホンで何かを聴いていた。俺は何をするでもなく、それを見ていた。
少し曇った空が茜色に染まり始め、セミの鳴き声が段々静かになってきて、冷たい強い風が吹いた気がするような、そんな瞬間だったと思う。
彼女はイヤホンを取り外して、急に立ち上がった。
今日はもう帰るのだろうかと、そんな風に俺は思ったが、彼女は帰る訳ではないようだった。
彼女はそのまま荷物をまとめて、白杖を手に持つと、すぐ近くにあった高架下へと向かった。一体何をやっているのだろうと、俺がその場に腰を降ろしたまま彼女のことを観察していると、雨が降った。
ポツポツと雨粒が降ってきて、俺が高架下に避難しようかと悩んでいる内に、激しく降り始めた。ザァっと叩きつけるように大量の雨が降り注いで、俺を濡らした。
夕立だった。
そして気付いた。彼女は、夕立が来ることを分かっていたのだ、と。
それ以降、毎年の夏休み、俺が彼女を眺めている間に夕立が来たことは何度もあったのだけど、彼女はいつも夕立が来るのを事前に察知して、高架下に避難していた。
そして雨が止むと、濡れた地面の上を、いつもより慎重に歩いて、ゆっくり帰宅するのだった。
夕立が降る時、俺もまた彼女と同じように高架下に避難していた。
橋の下、彼女と限界まで離れた位置で息を潜めて、雨が止むのを待っている彼女を見ていた。
聞こえるのは雨音と、時折響く彼女の鼻歌だけで、それ以外の余計なものは何もなくて、いつもより彼女との距離が近くなっていると俺は勝手に思っていた。
〇
それは、今日も同じだった。
今日はとても蒸し暑くて、日差しの強い日だった。
彼女と芝生の斜面に並んで腰を降ろして、他愛もない話をしている途中、日が暮れ始め、彼女と言葉を交わしていられる時間が今日はもう終わってしまうのだなと俺が考えていると、急に冷たい風が吹いた気がした。
すると、彼女がこう言ったのだった。
「夕立が来そう」
「え?」
「橋の下、行こ」
彼女は手早く荷物をまとめると、俺の腕を引きながら立ち上がった。
「ほらほら、誘導して。あっちに雨宿りできる橋あるでしょ?」
彼女にせかされるまま、俺は彼女を導いた。右の肘の少し上あたりを彼女が左手で掴んで、そんな彼女の半歩前を行き、彼女を橋の下へ誘導する。その筈なのに、なぜか俺が彼女に先導されているような気分だった。
橋の下に着いて、さっきまでと同じように地面に腰を降ろしてすぐ、夕立が来た。叩きつけるような激しい雨で、蒸し暑かった気温が一気に下がったようだった。しっとりとした冷気が体を包み、肌寒くなる。
俺は、ずっと不思議に思っていたことを彼女に聞いた。
「どうして分かったんだ? 夕立が来るって」
「なんとなくね、分かるんだ。すごいでしょ?」
得意げに笑って、彼女は言った。
〇
日が暮れたあとも、雨はやまなかった。空は暗くなり、冷え込みは増々酷くなる。
夕立というのは、急に降り始めて、すぐやむことがほとんどなのに、今日は全くやむ気配がなかった。
「家の人、心配したりしない?」
俺がそう聞くと、彼女は「うん、大丈夫」と頷いた。
「家にはおじいちゃんとおばあちゃんしかいないし、二人は私のこと、信用してくれてるから。さっき、遅くなるかもって連絡もしたしね」
二人は、という言い方が、やけに気にかかった。
すると、そんな俺の心を見透かしたように、彼女はこう続けた。
「お父さんは、私のこと、すごく心配してるけど。……過保護なんだ」彼女は苦笑する。「ま、仕方ないよね。私は、こんなんだし」
それは、なんというか、俺が初めて見た彼女の彼女らしくない姿だった。
俺は、自分をなんて独りよがりな人間だろうと思う。
彼女だって人間なのに、不安で悩むこともあるのに、弱ってしまうこともあるのに、彼女はそういったものに無縁であると、例えそうなったとしても、彼女はすぐにそんなもの吹き飛ばしてしまうと、俺は思っているのだ。
だって彼女は、夏だから。輝かしくて、目が眩むほど明るい、夏のような女の子だと。
彼女らしくない、だなんて、俺が一体彼女の何を知っているというのか。
ただ俺は、自分の幻想を押し付けているだけだ。自分の為に、自分が彼女に縋るために、都合の良い彼女の在り方を身勝手に望んでいるだけだ。
「あ、ごめんね。君にこの目のこと気にしないでって言ってるくせにね、私」
取り繕うように彼女は笑う。無理のある笑い方だった。
俺は身勝手に、ただ独りよがりに、彼女にそんな顔はして欲しくないと思った。
彼女ために、俺が出来ることが何かあるだろか。傲慢に、そんなことを考えた。
「君のお父さんのことさ、聞いてもいい?」
「あ、それ聞いちゃう?」
「うん」
「ま、あれだよね。変な風に匂わせちゃった私も悪いね。これじゃ聞いてくださいって言ってるようなもんか」
「しまったなー」と彼女は頭を掻いた。その恥ずかしがるような、気まずいような複雑な笑みは、さっきよりは自然なものだった。
「じゃあ、せっかくだし、聞いてもらおうかな。聞いてくれるんだよね?」
「聞くよ」
「私さ、お母さんがいないんだ。死んじゃったの。ずっと昔に、事故で」
「うん」
「この前さ、私のこの目、事故にあって見えなくなったって言ったでしょ? 覚えてる?」
「うん」
「その事故の時にさ、お母さんも一緒にいたの。それでお母さんは死んじゃって、私は目が見えなくなったの。お父さんは、それから私のことほとんど一人で育ててくれてさ、本当に、大変だったと思うの。男手ひとりで、私は目が見えなくて。だから、凄く感謝はしてる」
「うん」
「お父さんは私のことをすごく大事にしてくれて、心配してくれてるの。実はさ、こんな風に私が一人で出歩くのも、お父さんは許してくれてないんだよ。でもさ、私は、そんなのはイヤなの。目が見えないってだけでもやれることが少ないのに、その上、自由まで制限されたくないじゃん?」
俺は、頷くことができなかった。彼女の父親がどんなに彼女を心配しているか、理解できる気がしたから。
「お父さん、すっごく仕事が忙しくてさ、私は普段、目が良くない人たち用の寄宿舎……、あ、寮みたいなとこで生活してるのね。でも、長期休暇中は家に帰らなきゃいけなくて、春休みとか冬休みは一人暮らしの練習みたいな感じでひとりで家にいるんだけど、夏休みは長いし、おじいちゃんとおばあちゃんも私に会いたがるから、こっちにいるの。で、お父さんは仕事。だから私、こっちにいる間はさ、おじいちゃんとおばあちゃんしかいないのをいいことに、二人を言いくるめたり、勝手に抜け出したりして、昔からひとりでこの河川敷にまで来てたりしてたの」
「うん」
「そんなことやってるのをさ、あとからお父さんに知られてさ、昔、何回も怒られたんだよね。もうね、めちゃくちゃ怒られた。まぁ、全然こりてないんだけど」
「うん」
「ほんとに、過保護なんだよね。目が見えない私のことを、信用してくれてない、の。まぁ私が勝手に外に出たりしてるのも悪いと思うんだけどさ、でもさ、お父さんの言うこと全部聞いてると、私は何にもできない。すごく、すごく心配してくれてるのは、分かるんだけど、お父さんは、私を見てくれてない。私の目が、見えないから」
彼女にかける言葉が見つからなかった。俺はただ、「うん」と声に出して、相槌を打つ。彼女が吐き出し続ける限りは、話を聞こうと思った。彼女の隣にいる俺が、彼女にしてあげられることが、それだと思った。
例えそれで、俺の中にある彼女という彼女が崩れてしまっても。
彼女には、俺が知っている彼女でいて欲しいけれど。彼女には、変わらないままでいてほしいけれど。身勝手に、そう思っていたけれど。
俺は、恐れていた。俺が隣にいることで、彼女が変わってしまうことを。
でも、違うのだ。思い上がっていた。俺が隣にいることで、彼女は変わってしまわない。俺程度のちっぽけな存在が、彼女を変えることはない。
彼女は元々、こういう女の子なのだ。
弱音だって吐くし、ついつい愚痴だって漏らす。弱気にもなる。
なにもおかしいことはない。普通の女の子だ。だから、その上で、明るく元気に、気ままに振舞う彼女は、眩しいのだ。俺にはできないことを、やっているから。
思えば、初めからそうだった。河川敷にいる彼女はひとりなのに、まるでひとりじゃないように見えたから、俺と同じひとりだったのに、孤独を感じさせず、まるで夏の自然の一部になったみたいに気楽そうに過ごしていたから、そんな風に俺にはできないことをやっている彼女に、俺は救われていた。
そんな彼女に、俺は憧れている。
「私のお父さん、すっごく仕事が忙しいって言ったでしょ?」
「うん」
「小説のね、編集者なんだ」
「そう、なんだ」
「それでね、死んじゃったお母さんが、小説を書く人だったの。私が小さい頃、お母さんが自分でつくったいろんな話を私に聞かせてくれたのを、よく覚えてる。そのお話がさ、すっごく面白くて、ワクワクしたんだよね。私もそんなお母さんみたいに、素敵なお話で誰かを楽しませてあげたいから、小説家になりたいんだけどさ」
「……うん」
「お父さんは、私が小説家なんてやれる訳がないって言うんだよね。お父さんは小説の編集者で、小説家がどんなに大変で厳しい職業なのかよく知ってるから、ただでさえ目が見えなくて、他の人より経験が少ない私が、作家として、やっていける訳がない、って。もっと他の、目が見えない人でもできる、安定した職に就くべきだって」
彼女は、悲しそうに笑った。
「やっぱり、無理なのかな? ちゃんと現実を見た方が、いいのかな。なりたいんだけどなぁ、小説家」
俺は、何も言うことができなかった。
俺が憧れている彼女は、俺にはできないことをできる女の子で、俺は、彼女が逆境に立ち向かって、夏みたいに輝かしく立ち上がって、夢を叶えることを望んでいる。
彼女はきっとそうなのだと、思ってしまっている。そうであって欲しい、と。
そのあと、彼女は「はいこの話おしまい。聞いてくれてありがとね」と明るく言った。「大丈夫だって。私は、小説家になるよ。そのために今、色々頑張ってるんだから」
そんな風に、さっぱり切り替えることができて、ちゃんとお礼を言える彼女も、俺が憧れる彼女であることに違いはないのだけど、やっぱり、それでも。
俺が彼女のためにしてやれることは、本当に話を聞くことだけなのだろうか。
いや、それしかないだろ、と自分に言う。自嘲気味な笑みがこぼれる。
俺程度のちっぽけな存在が、彼女を変えることはないと気付いたばかりじゃないか。
俺が隣にいようが、遠くにいようが、彼女は変わらない。
〇
彼女の父親の話を聞いたあと、すぐに雨はやんだ。暗く濡れた夜道を、俺は彼女と一緒に歩いていた。静寂が、その場に満ちていた。俺と彼女の足音と水音、俺と彼女の息遣いだけがひっそりと響いていた。
俺は彼女を誘導するために半歩前を行き、点々と並ぶ街灯の光を頼りに、大きな水たまりを避けるようにして進む。彼女は俺の右ひじの少し上あたりを左手で掴んでいる。不意に、彼女が指に力を込めた。
「ね、歩きにくいからさ、もうちょっとくっついてもいい?」
そう言って、俺が返事をする前に、彼女は俺に寄りかかる。体重を預けるように、俺の右腕を抱え込むように身を寄せた。
心臓が跳ね、動揺し、躓きそうになったのをどうにか堪える。彼女の熱とやわらかさを、肌で感じた。
「いいよね、こっちの方が誘導してもらいやすいし。君は、私のこと好きなんだもんね」
「えっと、いや、それは」
「違うの?」
「違わない、けど」
「私もさ、君が好きだよ」
あっさりと彼女は言った。
「……それは、さ」
「うん」
「どうして」
「……どうして?」
「なんというか、君が俺を好きになる、理由は。……どうしてなのか、って」
「言わなきゃダメ?」
俺は口をつぐむ。
そうじゃない。そうじゃ、ないだろ。そうじゃないだろ。バカだ俺は。
「君と一緒にいると楽しいからじゃ、ダメかな」と、少し困ったように彼女は笑った。
俺は何も言うことができなかった。言葉が、出せなかった。
流れに身を任せて、ここで黙って彼女を抱き寄せることはできた。そうすれば、きっと上手く収まって、俺と彼女は明日からも一緒に過ごして、もしかしたら夏休みが終わってからも連絡を取り合ったりして、そして――。
そんな風に幸せな日々を送ることができるかもしれないのに、それで済ませていい話じゃない気がした。
生憎、バカで臆病で面倒くさくて冷めた俺は、もっと具体的な何かを手元に置いておかないと安心できないし、彼女の側に自分がいていいのかという疑問を解消しきれていないし、そして、何より、とても大切な何かを見逃しているような気がしてならないから。
彼女のストーカーであった気持ち悪い自分のことすら話さないまま、こんな気持ちで流される訳にはいかないと、言い訳をする。俺はバカだ。
じゃあ、全部話せばいいじゃないか。
でも俺は何も言わない。結局、言い訳でしかない。怖がってるだけだ。彼女の気持ちに応えることも、彼女に自分を曝け出すことも、怖がっている。
「そっか、分かった」
やけにハッキリとした彼女の声がその場に響いた。
「今のなし。なしにしよう」
俺の腕を抱え込んでいた彼女が、俺から離れる。俺はただ、戸惑っていた。
「今の告白じゃ、君は満足できない訳だ。なら、もっとちゃんと告白する」彼女は「うん」と大きく頷いた。「そういうことだ」
彼女は白杖をついて、俺から一歩、二歩と離れる。
「送ってくれてありがと。もうすぐそこだし、ここまででいいよ」
そう言ってから、「またね」と彼女は手を振った。
俺は情けなく戸惑ったまま「あぁ、また」と、覇気のない声で答えた。
〇
彼女に好きだと言われ、訳の分からないまま彼女と別れたあと、俺はただぼんやりとその場に突っ立ていた。暗がりの中、ただ立っていた。自分を情けなく思う気持ちと、困惑する気持ちが入り混ざって、俺をその場に縫い付けていた。
「まったく、君ってやつは」
俺の嫌いな彼の声がした。鬱陶しい。夏の酷い湿気のように、まとわりついてくる。
「自分を情けないとは思わないのかい?」
「思うに決まってるだろ」
「なに怒ってるんだよ。全部君のせいだろ? 彼女に恥をかかせたのも、彼女に何も気の利いたことが言えないのも、情けなくうじうじしながら、言い訳を並べて、ただ怖がって、変わらないままでいられないのを分かっていながら変わるのを恐れて、嫌われるのを恐れて、ここから動けないのは、君のせいじゃないか」
「分かってるよ。分かってるから、黙れよ」
「黙らない。僕はそういうヤツさ。それは君が一番よく知ってるんじゃないのか? いやなら逃げればいい。ここから動いてみせろよ」
「頼むから、放っておいてくれ」
「いいじゃないか。気楽にいこうぜ。楽しくやれよ。君と彼女は相性がよくて、君は彼女が好きで、彼女も君が好きなんだ。一緒にいると楽しいって、言ってたじゃないか。君が彼女のストーカーだったとして、それが何なんだよ。後ろめたい秘密なんて、人間なら誰でも抱えてるもんさ。その上で、みんな取り繕って、上手くやってるんだよ。考え過ぎるなよ。理由を求めすぎるなよ。昔の君はそうじゃなかっただろ。もっと楽しいことだけを見てた。素直だった」
「でも、周りも見てなかった。配慮ができなかった。そのせいで、こうなってるんだ。俺は昔の俺じゃない。変わったんだよ」
「じゃあ、今ここで、もう一度変わってみせろよ」
「簡単に言うな、それができたら誰も苦労なんてしないんだよ」
「まぁ君には無理か、無理だよね。ま、みんなはその上で苦労してるんだけどね。はぁまったく、そんなに理由が欲しいのかい?」
「なにが」
「なら、言ってあげよう」
「だから、何なんだよ」
「ほんとは気付いてるんだろ。君と彼女が話をするのは、今年の夏が初めてじゃない」
俺の左側に張り付くようにして立っている彼が、俺の右側のこめかみにある傷跡をなぞった。鈍い痛みが走る。
「この傷、小学二年生の夏休みの終わり、注意散漫でバカだった君が、視界が悪くなった日没後に、車に轢かれてつくった傷だ」
「なんでお前がそんなことまで知ってんだよ」
「まぁ僕は君のストーカーみたいなものだしね」
「だとしても、限度があるだろ。その時はまだ、俺はお前と知り合ってない」
「まぁ細かいことは気にするな。そして、君が車に轢かれたその日、君は彼女と一緒に遊んでいる。目が見えなくなったばかりで、母親を亡くして、自由に動けず、絶望の底にいた彼女を、明るい日の下に連れ出してるんだ。それが、彼女が君に惚れている理由だと言えば、君は満足するんじゃないか? でも君は、それを忘れている。彼女とまたきっと会おうと約束して別れたあと、車に轢かれて、その日の記憶が曖昧になった。全部忘れた」
「ふざけんなよ。そんなことが」
ある訳ない、と続けようとして、俺は言葉に詰まる。喉から言葉が出てこない。ある訳がないと思いつつも、そうであって欲しいと俺は思っている。でも、認められない。そんな都合のいいことが。
「ただ、その事故はキッカケでしかない。思い出そうとすれば、いつでも思い出せたはずなんだ。なにせ君は、彼女と遊んだ記憶を失ったあと、その来年の夏も、その次の夏も、彼女の側にいた。ただ、話をしなかっただけで、側にいた。君のことを待っている彼女の側に、ずっと君は居たんだ。だから、いつでも思い出せた。でも思い出さなかった。なんでだと思う?」
「知るかよ」
「君が、昔の自分を嫌っているからさ。彼女を日の下に連れ出した頃の、天真爛漫で、絶望的に空気が読めない向こう見ずな自分を、君はどうしようもなく嫌っている。そのせいで、君は周りから爪弾きにされたんだからね。孤独になってしまったんだからね。だから昔の自分のことは、あまり思い出さないように封じ込めてる。昔の自分を、見たくないから。そうだろ?」
「俺は」
「うん」
「お前が嫌いだ」
「奇遇だね」と、彼は鬱陶しく笑った。「僕も君のことは大嫌いだよ」
〇
毎年、夏になると、不思議な夢を見る。
夢の中での俺は、白いワンピースを着た小さな女の子と手を繋ぎ、どこまでも広がる草原の上を走り回っている。
太陽が眩しくて、風が涼しくて、朝顔や向日葵が咲いていて、頭上には群青と白い雲、綺麗な星空が広がっている。キラキラした夏の素敵なものが、全部そこにある。
耳を澄ませると、色んな音が聞こえる。セミの鳴き声、風鈴の音、打ち上げ花火の破裂音、祭囃子、川のせせらぎ、波の音、そこに、俺たちの無邪気な笑い声が重なる。
たくさんの匂いもする。瑞々しい草の香りと、潮の香り、蚊取り線香の匂いがして、ラムネやわたあめの甘い匂いもどこからかやって来る。そこに、俺たちの汗の匂いが混ざる。
俺と彼女は、疲れ切ってくたくたになるまで、夏の中で遊ぶ。
また来年も遊ぼうねと、彼女と約束した所で、夢は終わる。
目を覚ました時には、俺は夢の内容を全て忘れている。
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