5
その日の空は、いつもより厚い雲が多い気がした。白い雲の隙間から、群青が覗いている。
普段通り、太陽は飽きもせず燦々と元気いっぱいだった。代わりに、今日は普段より湿度が高かった。じっとりとまとわりつくような、日本の夏らしい暑さが、俺と彼女に大量の汗をかかせていた。
湿度が高いと、セミの鳴き声もいつもより鬱陶しくまとわりつくようだった。相も変わらず、やかましい。
時折、強い風が吹いて、汗が浮いた肌を冷やしていくが、結局気休めでしかなく、暑いものは暑かった。
「暑いねぇ」と、カバンから取り出したタオルで汗を拭きながら、彼女が言った。
「暑いな」と、俺が返すと、彼女が可笑しそうに吹き出した。
「私たち、何やってるんだろうね」
「な」
「こんなめちゃくちゃ暑い日に、日当たりのいい場所で、ただ座ってるだけ」
「勉強もせずにな」と俺が言うと、彼女はからからと清々しく笑った。
「でもね、楽しいよ私。君も、そうなんだよね」
「そうなんだよ」
「だって、毎日来てくれるもんね」
「暇だからな」
「ね、君ってほんとに友達いないの? ちょっと信じられない」
「ほんとにいない」
「なんでいないの?」
「そういうの、普通に聞いてくるんだな」
「そりゃ、君が聞いて欲しくないんだったら、聞かないけどさ」
「なんというか」
「うん」
「人と接するのが、苦手なんだよ」
「うそだ」
「うそじゃない」
「私とはこんなに普通に話してるのに?」
「それは」と、続けようとして、言葉に詰まる。
『君と彼女の相性がいいから、それでいいんじゃないかな』という彼の台詞を思い出して、俺は思いっきり顔をしかめた。
「もしかしたら、お似合いなのかもね、私たち」
彼女が少し照れたように微笑んで、言った。
俺は、そんな彼女になんと返せばいいのか分からなかった。
俺が返事に悩んでいると、彼女は今の自分の発言を誤魔化すように「そろそろお昼にしよっか」と言って、カバンから弁当箱を二つ取り出した。その内の片方を、俺は受け取る。
「ほんとにありがとう、毎回」
「うん、どういたしまして」
彼女は、俺と河川敷を過ごすようになってから、毎回こんな風に弁当をつくってきてくれる。最初に弁当を持って来た時、彼女はこう言っていた。
「こっちにいる間は、おばあちゃんにご飯の作り方とか教えてもらってるの。私、その内ひとり暮らししたいと思ってるから、その練習。君は、試食係ね」
そう言ったあと、彼女が冗談めかしてこうも言った。
「というのは建前で、ほんとは、やってみたかったんだよね。こんな風に、男の子に手作りのお弁当をつくってあげるっていうの。なんか、青春っぽい」
それを聞いて、あぁ確かに青春っぽいと、俺は自嘲気味に思った。
至極単純に、純粋に、これ以上ないほどの幸福を感じて、噛み締めて、俺は自分を嘲った。
〇
今年の夏休みが始まる前のことについて、つまり、俺が彼女と河川敷で並んで会話をするようになる前のことについて、少し話そう。
春休みが明け、高校三年生になった俺は、なんというか、あやふやな人間だった。
いや、前々から俺はそういうヤツだったのだけど、高校三年生になって、周りが進路というものを段々と真剣に考え始める中、俺だけがぼうっとしていたものだから、俺という存在のどうしようもなさと、あやふやさがより浮き彫りになったという表現の方が正しいかもしれない。
置いて行かれているなぁと、焦りもせず、ぼんやりとそんなことを考えていた。
残念なことに、俺の周りには、俺のことを急かしてくれるような、焚きつけてくれるような、優秀な進路を目指して競い合えるような仲間がいなかった。だから危機感が湧かなった。まぁ、人と深く関わろうとしてこなかった俺が悪いのだけど。
担任の先生から進路調査の紙を配られた時も、俺はそこに書くべき内容が見つからなかった。
結局、名前を書いた以外は白紙のまま提出して、そのあと先生に呼び出されても、お前はどうしたいんだ? と言われても、俺は自分がどうしたいのか、どういう未来を歩みたいのか、分からなかった。
どうやら周りの奴らは、大学に進学するヤツらがほとんどであるようだった。
俺も、中学生からてきとうに受験勉強を頑張って高校生になった時みたいに、それなりに、てきとうに勉強して、大学生を目指すという選択をしてもよかったのだけど、おそらくきっと、周りの奴らの大半は、そういう感じで大学生になろうとしているのだろうと分かっていたのだけど、どうにも、その気にはなれなかった。
なぜだろうか。
この漠然とした『その気になれない感じ』を抱えている自分を、客観的に見てみると、たぶん次のようなことが枷になっているんじゃないかと思う。
周りと同じになりたくない、という考え。
仲の良い友達をつくらないまま成長してしまった俺ってヤツは、どうも変にこじらせてしまったようで、プライドとも呼べない程度の低い意地みたいなものに縋っているところがあった。
要するに、俺は他のヤツらとは違う、という考えである。
周りから仲間外れにされた小学三年生のあの時以降、特に仲の良い奴らをつくらず、学校にいる時以外は基本的にひとりで過ごし、青春らしい青春を送ってこなかった俺は、『青春』ってヤツを心のどこかでバカにしていたのだと思う。
友達と遊んで、バカ騒ぎしたり、気になるあの子に勇気を出して話しかけたり、恋人をつくって甘酸っぱい思い出をつくったり、部活に打ち込んで汗と涙を流して、仲間と勝利を分かち合ったり、体育祭や文化祭で一致団結して熱狂したり、修学旅行を皆と全力で楽しんだり、などなど。
そういう青春を送っているヤツらを、ろくに勉強もせず一時の快楽や流れに身を任せている愚か者たち、と評価しないことには、俺は俺を保っていられなかった。
だって、そう考えでもしなきゃ、やってられない。
俺は、かつては自分も『そっち側』の人間であったことを棚に上げ、むしろ、その場の空気を無視するほどのバカ騒ぎを率先してやっていた子供であったことを忘れ、そういうヤツらを下に見て、心の安定をはかっていた。
特にやることがなくて、惰性のように続けていた勉強のおかげで得た『平均より少し上』という成績に縋って、ヤツらをバカだと断じていた。
そんなヤツらが、特に考えも無しに、ただただ、まだ社会に出たくないから、青春を延長したいから、大人にならず遊んでいたいから、というような理由で大学に行こうとしていることを知っていたから、そんなヤツらと同じにはなりたくなかったから、そして、俺が大学に行ったところで、そんなヤツらと同じように大学生活を楽しめるとは思えなかったから、俺は大学生になろうとは、思えないのだ。
じゃあ、勉強するために、大学に行けばいいのではないのか?
そもそも、大学とはそういう場所であるはずだ。
勉強こそ学生の本分というのであれば、勉強して、立派な大人になるために、大学に行けばいいのではないか?
そういう風に、『本当に頑張っているヤツ』は確かにいる。そして、俺が下に見ている『青春』しているヤツらの中にも、そういうヤツはいる。青春の中に居ながら本当に頑張っているヤツだっているのだ。
そのことを、俺は知っている。
こんなどうしようもないことを考えている間にも、青春を楽しんだヤツらは、しっかりと切り替えて、受験のために勉強に励んで、俺を追い越していく。
俺は、俺が本気で頑張っていれば、あんなヤツらに追い越されることはなかったのだ、と思っている。
でも、俺は本気で頑張っていないし、本気になれないし、そもそも本気というのが何かよく分からないし、そして、本気になったつもりで頑張っていたとしても、たぶん追い越されていた。
だから俺は逃げているんだろうなぁ、と思う。
だって、本気で頑張って、そういう青春と勉強を両立しているヤツらに負けた事実をこの目で見てしまったら、俺はどうすればいい?
認めたくない。そういうヤツらを下から下に見ている自分を理解しているのに、ただ、認めたくない。認めたくないから、その事実をこの目で見て確認したくないから、『もし頑張っていたら上手くいったのになぁ』という、心の安定をはかるためだけの、縋るためだけの可能性を残しておきたいから、頑張らない。頑張れない。
俺は、他のヤツらとは違う。違っていて欲しい。違うから、俺はこうなんだ。仕方ないんだ。俺は他とは違うから、こんなどうしようもない人間でも、仕方ない。
そうやって他人の努力を、自分の視界に入れようとしていない。自分と同じ年齢の、自分と同じ人間が、頑張っているのを見たくないから、認めたくないから、このまぶたを閉じる。
本気で頑張ろうとする気概もなく、こんなことを考えて、見ない振りして、誰に対して言っているのかも分からない言い訳を繰り返して、日々をあやふやに過ごしているのが、俺だ。
少なくとも、この夏休み、彼女と言葉を交わすようになるまで、俺はそうだった。
〇
一般的に、夏休みが始まるのはいつだろう。
たぶん、学生たちは、一学期が終わった瞬間、つまり、校長先生のつまらない話を聞くだけの終業式が終わり、担任の先生の注意喚起を聞き流すHRが終わり、自由になった瞬間と認識していることだろう。
高校三年生の七月、そんな風にして一般的な夏休みが始まり、しかしまだ俺の夏は始まっていない時、俺は彼と出会い、こんな会話をした。
学校からひとりで家に帰る途中の話である。
「やぁ久しぶり、一年ぶりだね」
「なんでお前は夏休みになると毎回俺の前に現れるんだ?」
「君がそれを望んでいるような気がしてさ」
「消えろ」
「どうした? 機嫌が悪いみたいだね」
「ウザいんだよお前は」
「またまたぁ、本当は僕と話せるのが嬉しいくせに。ツンデレだな君は」
「はぁ……」
「しかし本当に調子が悪いようだね。どうしたんだよ、夏休みだぜ。いつも君は夏休みになると機嫌が良いじゃないか。だって、彼女が河川敷に来てくれるもんね。彼女を、眺めていられるもんね」
「今年も彼女があの河川敷に来るとは限らないだろ」
「またまたぁ、絶対に来ると思ってるくせに。それを待ち望んでるくせにぃ」
「少し黙れよお前」
「悪いね、僕は黙ると死んじゃうタチなんだ。おいおい君が黙ってどうするよ。無視するなって。あ、はっはーん、分かったぜ、さては勉強が上手くいってないな? もう受験生だもんな。高校三年生かぁ、本当に早いもんだ」
「はっ、受験生、ね」
「受験生だろ?」
「なんで受験するのが前提なんだよ。俺が受験するとは限らないだろ」
「しないのかい? 意外だな。今時、大学に行くのは珍しくもないだろ? 特に君が通ってる高校では普通のことだ。あ、専門学校とかに行く人もいるか」
「就職するヤツだっているよ」
「君は就職するのかい?」
「いや、しない」
「じゃあ結局、受験生だろ。それともあれかい? 高校卒業後はフリーターとしてお金を稼いで自分探しの旅に出るとか。インドとか行っちゃう? 行っちゃうっ?」
「よく喋るなお前は」
「よく言われるよ。それが僕の取り柄でもある。で、結局君は、高校卒業後はどうするんだ?」
「分からん」
「分からない? おいおい大丈夫かよ、もう七月だぜ。卒業まで一年を切ってるんだ。あっという間だぜこの一年は。ほら、先生がよく言ってるだろ?」
「そういうお前はどうなんだよ」
「まぁ僕のことはいいじゃないか。あ、そうだ、夢、夢はないのか? 夢を追いかけようとすれば、自然と進路も決まるだろ」
「夢、か。俺らの歳で本気で夢を追いかけてるヤツらが何人いるんだろうな」
「他の人のことはどうでもいいだろ。今は君の話さ」
「ねえよ、んなもん」
「はーっ、まったくつまんないね。何かあるだろ、やりたいことの一つや二つ」
「ない」
「本当に?」
「あぁ」
「ウソだね、何かあるはずだ。大金を稼いで楽に生きたい、とかでもいい」
「それを言ったところでどうなるんだよ」
「大金を稼いで楽に生きるために、頑張るんだよ。そういう道を進もう」
「頑張りたくなかったら?」
「頑張らずにそれを達成する方法を考えるしかない」
「そんな都合のいい道、ある訳ないだろ」
「決めつけるなよ、進もうとすらしてないくせに」
「第一、 俺は別に金が欲しい訳じゃない」
「いやいや、今のは例え話だろ。それくらい分かれよ。全く、君もめんどくさい人間になってしまったね。どこでそんなにこじらせたのかな」
「知るかよ。勝手にこうなったんだ」
「まぁそれはとりあえず置いておこう、君がめんどくさいのは今に始まったことじゃない。それよりも、夢の話さ。あぁ、ここでいう夢というのは、君がやりたいことの話ね。本当に何もないのかい? 何も? 本当に? もう一度聞く。やりたいことの一つや二つ、君にだってあるだろう? 何でもいい。それが君の生きる指針になる。君がやりたいことは、なんだ?」
そのあと、俺が黙り込んでいると、いつの間にか彼は消えていた。
〇
彼との会話のあと、自分がやりたいことについて考えながら歩いていた俺の足は、いつのまにか河川敷に向かっていた。
彼女の姿がそこにあることを、どうしようもなく期待していた。
もう面倒くさいことを考えず、ただ彼女の姿を見ていたかった。
でも、その日の内に、彼女が河川敷にやって来ることはなかった。俺は酷く落胆した。自分がどれだけ、彼女の存在に救いを求めているのかを自覚した。
そして翌朝、俺が河川敷に行くと、彼女はそこにいた。白いワンピースと艶やかな黒髪をなびかせて、例年の夏休みと何も変わらない様子で、そこにいた。
夏が始まった。
そして、ふと、こう予感した。俺がこんな風にして、夏休みに彼女の姿を眺めていられるのは、今年で最後かもしれない、と。
いつまでも、このままじゃいられない。何も変わらないままでは、いられない。
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