3

「ね、一緒に音楽聞こうよ」

 俺が、昨年までの夏休み、彼女のことをただ眺めていた頃のことを思い返していると、不意に隣からそんな声が聞こえた。

 右隣を見ると、彼女がイヤホン片方を俺に手渡そうとしていた。その白いイヤホンの根元は彼女のスマホに取り付けられていて、もう片方の部分は、既に彼女の左耳にはめこまれている。ふっくらとまるみを帯びた彼女の耳たぶに、視線を取られる。

「ほら、はい」

 俺が少し困惑して、固まっていると、彼女は片手に持っていたスマホを膝の上に置いて、両手をこちらに伸ばした。

 さぐり当てるように肩に触れられ、頬に触れられ、耳に触れられた。彼女の手は思ったよりひんやりとしていた。だというのに、彼女に触れた部分は、彼女の手が離れたあとも、じんじんと強く熱を持った。

 彼女は少し腰を浮かせて、さらに俺と距離を詰める。彼女のむき出しになったほっそりとした肩が、俺の肩に触れそうになって、心臓が跳ね上がるのを自覚した。

 彼女は左手で俺の右耳をつまんで、右手で持ったイヤホンを、俺の右耳の穴にぐりぐりと押し付けるようにはめこんだ。

「これでよし」

 彼女は満足げに頷くと、スマホを手に取って器用に操作し始めた。

 最近の機械というのはとても優秀なようで、目が見えなくてもスマホを操作できるようになっているらしい。自分が画面のどの部分に触れているのかを読み上げてくれたり、画面に映っている文字を読み上げてくれたりと、そういった音声を手掛かりに、目が見えなくてもスマホを扱うことは可能なのだと彼女は言っていた。

傍から見ていると、読み上げられる音声が早すぎて、何が何だかよく分からないのだが、彼女は「私は慣れてるからねー」と言いながら、スムーズにスマホを扱う。

 すぐに、イヤホンからメロディが流れ始めた。

 俺と彼女は無言のまま肩を並べて、曲を聴く。

 夏の主張が激しい太陽みたいに、明るく、快活な曲。

 夏のやかましいセミみたいに、激しく、アップテンポの曲。

 夏の快晴の日の、青い空と白い雲みたいに、さわやかで、清々しい曲。

 夏の夜の澄んだ空に広がる星々みたいに、透き通っていて、綺麗な曲。

 夏の終わり、沈んでいく夕日を見る時みたいに、儚く、切ない曲。

 彼女が今流しているプレイリストの曲は、どこか夏を感じさせるような曲ばかりだった。

知っている曲も、どこかで聞いたことがあるような曲も、全く知らない初めて聞く曲も、目を閉じて聴き入れば、夏の情景が自然とまぶたの裏に浮かんだ。

 彼女はそんな曲たちを聴きながら、ゆるやかに体を揺らしていた。曲のリズムに合わせ、夏の風に吹かれて揺れる緑の枝葉や波打つ芝生のように、夏という季節の一部に溶け込んだように、揺れていた。

 そして、五、六曲ほど聞き終えたあたりで、次に『夏色』が流れ始めた。

 すると、彼女は傍目にも分かるほど楽しげになった。元々音楽を聴いている時は楽しげで気分良さそうだったのだけど、さらに楽しげに、気分良さそうになって、ハミングをはじめた。

 その声音は、綺麗で、どこか儚くて、透き通っていて、彼女は俺の隣にいるのに、俺の手には届かない場所にある尊い何かみたいに思えた。 

 それは、俺が今までの夏に、少し遠くから離れて見ていた彼女と何も変わらなくて、やっぱり、彼女は隣に俺みたいなヤツがいても、ひとりの時と変わらないのだな、と思った。

その事実に、俺はほっと安堵した。

 たぶんそれは、俺が彼女の隣にいることで、彼女が変わってしまうかもしれないことを、俺が酷く恐れているからだろう。

 これはあまりに独りよがりな考えなのだが、俺は、夏の中にいる彼女は、どんな時でも彼女であって欲しかった。そういう彼女に、夏の太陽みたいな彼女に、俺はずっと縋っていたのだから。

これこそ傲慢な考えだとも思うけれど、もし俺が隣にいるせいで、彼女が変わってしまうのなら、俺はそっと彼女から距離を置こうとしたかもしれない。そうしなくて済むことに、俺は安堵したともいえる。

 そんな彼女を、今まで離れた位置から眺めることしかできなかった彼女を、すぐ側で肩を並べて感じているという今を実感して、俺は胸が熱くなった。

 俺は、こんなに幸せでいいのだろうか。

 こんな俺が、卑屈で、卑怯で、しょうもないこじらせ方をしているような、夏という季節からもっともかけ離れたような冷めた人間である俺が、彼女の側にいてもいいのだろうか?


 〇

 

 夕刻、日が落ち始めてから、俺と彼女は帰宅した。盲目の彼女は、白杖をついてゆっくりと帰路に着く。目が見えていないというのに、意外にも危なげなく、彼女は道を行く。俺が今失明したとして、とてもこんな風にスムーズに歩くことはできないだろう。

「やっぱり慣れだよね。十年以上、こういう生活をしている訳ですから」と彼女は言っていた。でも、そう言ってから、「まぁ、それでも知らない道はけっこう大変だけど」と苦笑もした。

そんな彼女のことが心配だったから、俺はいつも彼女を家まで送っていった。

実を言うと、今までの夏休み、彼女のストーカーをやっていた時にも、彼女が安全に帰宅するのを見届けたことが何度もあった。もちろん、彼女にそんなことは言えないのだけど。

 俺が「送ってくよ」と言うと、彼女は「いいよいいよ、君に悪いし」と遠慮しながらも、あくまでそれは形だけで、俺が帰路に同行することにはあっさりと了承していた。それがここ最近の、いつもの流れだった。

「送り狼って言うんだっけ? こういうの」

 夕焼け色の空の下、ひと気のない道を彼女と一緒に歩いていると、不意に彼女がそう言った。

彼女は右手で白杖を持ち、左手で俺のひじの少し上あたりを軽く掴んでいる。彼女の指が触れている部分が、ジンジンと痺れているように感じた。

「別に変なことするつもりはないよ」

だから別に、俺は送り狼ではない。まぁ、変なことをするつもりはないといっても、それが変なことをしたくない、という意味にはならないのだけど。

「ほんとー?」彼女は俺をからかうように言って、口元をゆるませた。そしてそのあと、小さな声で「まぁ、別にいいんだけどね、君なら」とこぼしたのを俺は聞いた。

 俺はそれを聞かなかったことにして、平静を装いながら、話題を変えた。

 彼女と何気ない会話をしながら、俺は首を捻っていた。

 あまりに都合が良すぎやしないだろうか、と。

 俺がひょんなことをきっかけにして、こんな風に彼女と会話をするようになってから、まだ十日ほどしか経っていない。その間の毎日、日が出ている間はずっと彼女と過ごしていたにしても、俺は不自然に彼女から好かれ過ぎているような気がした。それが俺の自惚れでなければ、の話だが。

 今まで、この夏休みという時期にずっと、ストーカーのように彼女を眺め続けていた俺と違って、彼女は俺と出会ったばかりだと思っているはずなのに、彼女が俺に向ける好意は、とても大きいもののように思える。

 夏のように眩しくて明るく快活で、さわやかで、物怖じしない彼女が、誰に対してもそんな風に接することのできる人間なのだと言ってしまえば、それまでなのだけれど。

 やっぱり、俺の自惚れなのかもしれない。彼女に対する俺の願望が、強すぎるのかもしれない。人と関わるのを異様に恐れて、他人の顔色ばかりうかがっているようなひねくれた人間である俺だから、そんな彼女に違和感を覚えてしまうのかもしれない。好かれていると勘違いしてしまうのかもしれない。

俺と彼女は、住む世界が違う。こんな風に、俺と彼女が隣り合っていること自体、奇跡に近しいことなのだ。

「まぁ、別にいいんだけどね、君なら」と彼女がこぼしたことにも、俺が思っているような意味はなくて、ただ深い意図もなく彼女が俺をからかおうとしただけなのかもしれない。でも俺がそれを無視してしまったから、変な感じになってしまった、とか。

考え過ぎだろうか。

どうにも俺は、理屈っぽい。己が孤立し始めたあの時から、段々と俺はそういう人間になっていった。信じられるのが、理屈しかなかった。

 人の感情の機微を、感覚的に読み取って、取り違えてしまうことを恐れて、その全てに具体的な理由を求めようとしているのだ。行動に理由を求めないと、安心できなくなっている。落ち着かないのだ。

 だから、俺と話している彼女が楽しそうにしていて、彼女がどう考えても俺のことを好いているような気がしても、それを受け入れないことが、彼女に対して失礼になるとしても、どうにも理屈っぽい思考が邪魔をする。

 彼女が俺を好きになる理由はなんだ?

 仮に彼女が俺を好きだとして、俺みたいなヤツが、彼女の側にいる資格はあるのか?

 そんなことを考えてしまうと、こんなにも暑い夏の中にいるのに、隣に夏の太陽みたいに眩しい彼女がいるのに、俺の体の内側は、夏という季節から乖離するように冷え、暗くなる。

 

 〇


 ふと、隣で笑う彼女を見て、何か、致命的な何かを、見逃しているような気がした。

 その時、頭の傷跡に鈍い痛みが走った。

 気付いた時にはあったのだけど、俺の頭の右側のこめかみあたりには、大きな傷跡がある。大怪我をして、そこを縫った傷跡だ。母親はこの傷を、俺が小学二年生の頃、交通事故にあってつくった傷だと言っていた。俺はその時のことを、よく覚えていない。

 昔の俺は手の付けられない子供だったと母は言っていた。

 常に元気でうるさくて、自分の好きなことばかりしていて、周りを巻き込んで、周りをよく見ていなくて、そんな子供だったから、車に轢かれたのだと母は言っていた。

 また傷跡に痛みが走る。致命的な何かを、見逃しているような気がした。


 〇

 

 河川敷から、ゆっくりと、一歩ずつ確かめるように彼女と歩いて、二十分ほどすると、立派な家屋が見えた。古めいた味のある建物だ。

 その家の前まで辿り着いて、俺が「着いたよ」と言うと、彼女は「ありがとう」と丁寧に頭を下げてから微笑んだ。

 彼女は、毎年夏休みの間は祖父母の家に遊びに来ているらしい。つまりここは、彼女の祖父母の家、ということになる。

 彼女からそのことを聞いて、ようやく俺は彼女が夏休みの間にだけこのあたりに姿を見せる理由を知ったのだ。

 彼女は俺と別れる時、「また明日」と手を振った。俺は、「うん、じゃあ、また明日」と言って、彼女に背を向ける。 

 少し歩いて、ふと背後に視線を向けると、彼女はまだ手を振っていた。


 〇


 彼女の家から自分の家に帰る途中、俺は左肩を叩かれ、隣を見た。隣を見る前から嫌な予感はしていて、そこにソイツがいるということを、俺は半ば確信していた。

「や、なんだか、幸せそうだね。君は今日も彼女と楽しく過ごしたって訳だ」

 そこには、片手を上げ、鬱陶しいほど満面の笑みを浮かべた彼がいた。

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