サマー・ドライブ

秋月榎莫『犯罪者レストラン』連載開始!

サマー・ドライブ

 

 すばるはもう、この海にはいない。


 走る車はいつものカーブに入る。大きな岩陰から見えてくるのは毎日見ている景色だというのに、助手席の美樹は楽しそうに叫ぶ。

「海だー!」

 開けた窓から潮風が運んでくる、きらめく波を携えた青く果ての見えない海。


「出勤前だっていうのにその元気はどこから来るんだよ」

「何事も楽しまないと人生損するよ? 海人かいと


 ……楽しめないよ。

 そう心の中でぽつりと呟いた。そう、死んだ人間には勝てないこともあるから。


 俺は複雑な心境で車の後部座席にある蛍光色のサーフボードを一瞥し、再び運転に集中する。


 人は身勝手なもので、死んだ人間の面影を「消えないで」と願って大切に抱え込んでいたクセに、時が経って心の傷が癒えていくうちにその面影にどこか足を引っ張られるようになっていく。まるで影を過去に縫い付けられたようだ。……いや、身勝手なのは俺だけかな。


 やがて車は海沿いのパーキングに入る。

 そのガードレールから見える朝の浜辺に人は居ない。すると美樹は車から降りて後部座席のサーフボードを慣れた手つきで取り出し、ガードレール脇の木の階段から浜辺へと降り立った。俺もそれに続く。


「ここら辺かなぁ?」

 美樹はサーフボードを砂浜にぐりぐりと押し付けながら俺に問う。

「うん、ここなら波に流されないかも」

「昴は波に乗りたかっただろうに、可哀そうだよね。海人が代わりに乗ってあげればいいじゃん?」

「俺はもうサーフィンやらないよ」

「ふーん……」


 そうして砂浜に立てられたサーフボードは今日も海を見つめる。これが俺たちの毎日の日課。

 昴が死んだときに、自分たちで「昴を忘れないために」と始めたものだ。


「俺、死ぬなら海で死にたいなー」

 そう言って夏の日差しのようにキラキラと笑った昴の願いは叶わなかったから。

『せめて海が見渡せるように』そう思って毎日、毎日。

 あの頃は純粋にその思いしかなかったというのに、今はどうだろう。……少し、最近はその面影に嫉妬している俺がいる。


「ほら、そろそろ行くぞ。仕事に遅れる」

「はーい」


 俺と美樹が住んでいるのは小さな港町で、毎日隣街の職場へ行く際に美樹をついでだからと乗せていく。

 そしてその途中、毎日美樹が主導で昴のサーフボードを浜辺に差していく。


 これが俺の日常。少しの甘さとほろ苦さが漂う、悶々とした俺の心情。


 *


 昴は大学の同じサークル仲間で、親友だった。

 美樹ともこのサークルで知り合ったが彼女はマネージャー、俺たちはサーファーとして海に繰り出していた。


 思えばいつも三人一緒にいた。


 テスト前には俺の家に集まって勉強して、結局どうでもいいことを喋りだし、終いにはゲームを始めて。あの時は結局美樹がすぐに寝落ちて、俺と昴が朝までゲームで白熱したんだっけ。そして肝心のテスト中に二人して爆睡。美樹だって寝落ちてたくせに「ばっかじゃないの!」と笑われる始末。


 成人を迎えた後は三人で「はしご酒」というものをやってみようとなって、結局全員一軒目の店ですぐつぶれたり。昴が酔っぱらって俺に抱き着いてくるのを面倒そうに阻止しながら、でもってへべれけの状態で一度美樹にこう聞いたことがある。

「美樹はさぁ……こいつのこと好きなの?」

 美樹はすでにテーブルに頬をつけて寝る直前だったが、むにゃむにゃ何か言ってから、

「……ひみつ」

 とだけ返した。俺はグラスに残っていた最後のアルコールに呑まれ、そこで意識がぷつりと途絶えた。

 アルコールのお陰だろうか。心はあまり傷つかなかった。


 そんな馬鹿なことばかりやっていたけれどそれでもその時間はまさに「青春」というもので、キラキラしていた。そしてその中心はいつも昴だったのだ。


 そんな昴が死んだのは大学四年の秋のこと。就職も決まっていた彼は、バイト帰りの交通事故であっけなくってしまった。


 すると、いつからか美樹を好きになっていた俺には二つの問いが残る。


 美樹は昴を好きだっただろうか。

 昴は、美樹を好きだっただろうか。


 いや、美樹は確実に昴のことが好きだ。でなければ毎日、一日も欠かすことなくサーフボードを海に立てることはないはずだ。


 でも、後者の問いは。


 その問いに答えは出ぬまま、燻ぶった想いは薄い煙を出すだけで焼けきれず。

 残された俺たちは大学を卒業して、もう三年経った。


 *


「じゃあ、また帰りにいつもの場所で」

「うん、ありがとねー。あ、帰りウチ寄ってきなよ! おいしいコーヒーもらったんだー」

「おう」


 隣街に着いて、美樹の会社の前に車を付けてお互い別れた。

 会社へと駆けていくその後ろ姿を見つめて、俺はそろそろ決意を固めなきゃと、ひとつ息を吐いて車を発進させた。


 *


 金曜の午後、しかも夕方になってくると人は多くなってくる。


 俺は一つの店の前で心臓の高鳴りを感じていた。たぶん、人生の中で一番でかい買い物。そして人生がかかった一大決心。


 意を決して店の中に入ると黒の清潔感のあるスーツの女性がひとつ礼をした。

「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます。本日は何をお探しでしょうか?」

「え……と、プロポーズするので、指輪を」

 すると女性は華やかに微笑んだ。

「そうでしたか。相手の方の指のサイズはどれでしょうか?」


 ……あ。


 すっかりそれを調べておくのを忘れてた。しかし、後には引き下がれない。

「えっと……このくらい?」

 俺が指でOKの形を作って再現すると、思わず女性は噴出ふきだして笑った。


 *


「ねー、何かあったの? なんかいつもと違うよ、海人」

「いや……、気にするな。なんでもない」


 大きな買い物をすると、とてつもない高揚感で目がくらむ。

 それを実感しつつ帰りの道を車は走る。気を付けて運転しなければ、うん。


 しかし、いつ指輪これを渡そう。


 最初はサーフボードを回収するいつものパーキングにしようとも思った。でも、美樹に気持ちを向けていたかもしれない昴のことを思うと後ろめたい気持ちになって、結局できなかった。それどころか、いつもはきちんと回収するはずのサーフボードを置いてきてしまった。


「ね、ねぇちょっと! パーキング越えちゃったよ!? 昴のサーフボードは!?」


 慌てる美樹から、『昴』という単語を今は聞きたくなかった。

「一日くらい大丈夫だろ。明日の朝イチで取りに行くから」

「今日の海人、やっぱり変。サーフボード、大丈夫かな……」

 過ぎていくパーキングを見つめる美樹を一瞥して、思う。


 ……やっぱり、死んだやつには敵わないのかな。


 *


 そんなこんなで、美樹の家に着いてしまった。


「まぁ、いつものように適当にくつろいで」

「おう」


 週に三日か四日のペースで来ている美樹の家だが、右ポケットの中にある存在ただひとつだけで意識が変わる。


 今、渡すべきなのだろうか? いや、でもなんだかそんな雰囲気でもない気がする。美樹はいつも通りに接してくれているが、サーフボードを置いてきたことで俺の中では何かがギクシャクとしていた。


「コーヒー淹れたよー」

「サンキュ」


 そうしてテーブル越しに向かい合って座る。テーブルの向こうにいるのはいつもの美樹なはずなのに、意識しだすと心臓がドクドクと音を立てた。

 いつもは心地よいはずの沈黙が、今は重い。

 美樹がコーヒーカップの半分ほどコーヒーを飲んだところで立ち上がる。


「どうした?」

「ちょっとトイレ。……ねぇ、あの頃は、楽しかったよね」


 そうして廊下に美樹が行く手前、ひとつの写真立てを持ち上げて言った。

 俺は何も答えられず、美樹はその返答を待たずに廊下へ消える。


 その写真立てには昴が真ん中で俺たち二人と肩を組む姿が写っていた。三人全員が笑っていて、いつ見ても、きっと誰が見てもキラキラしている青春を切り取った一枚だった。


 昴、頼む。お前が誰を好きだったか俺にはわからない。でも、それが美樹だったとしても、今だけは邪魔しないでくれないか。


 写真を見つめてそう思っていると、美樹が戻ってくる。

 再び俺が座るテーブルの向かいに座ってコーヒーを飲み始めた時、俺は切り出した。


「あのさ」


 そのとき。


 ――――ガタガタガタガタッ!


 突然窓が激しく揺れた。肩をすくませた美樹が硬直し、俺の言葉を遮った。

「ねぇ、ちょっと……風強すぎない?」

「確かに……な」

 そして美樹はすぐに立ち上がり、テレビをつけて天気予報が入っている局を探す。

 やがて見つけたチャンネルで情報を見た美樹は形相を変えてこちらを振り向いた。


「ねぇ海人、大変! 台風が向きを変えてこっちに来てる! 昴が……、サーフボードが!」

「落ち着け、こんな時に海なんか行ったら危険だろ!」

 美樹はすぐにコートを手に取り、駆けだした。

「だめ! 海人が行かないなら私一人でも行く!」

「馬鹿……っ待てよ!」


 *


 真夜中の、しかも台風の来ている道路は視界が悪く、車のワイパーでいくら雨を振り払ってもすぐ雨に塗りつぶされる。俺の隣で美樹は両手の指を絡ませ、祈る姿勢のまま動かなかった。

 俺はまたもや複雑な気持ちになる。


 昴はかけがえのない親友で。俺の青春でもあって。

 でも、あのサーフボードがある限り、美樹はきっと俺を見てはくれない。


 やがて車はなんとかいつものパーキングに入る。

 風雨で視界が悪いのはもちろんのこと、何より暗い。俺は美樹に、車に常備していた懐中電灯を渡した。

「これ持っていこう」

「ありがと!」


 ……あれ、なんでだろう。あのサーフボードが流れてしまえばいいと思っていたのに、今は流されまいと必死になっている自分がいる。


 俺の心もまた、波のように揺れていた。サーフィンなら喜べる波も、今はまったく喜べなかった。


 そうこう思考を巡らせている間に美樹の叫び声が聞こえた気がしてすぐさま車から飛び出す。


 *


 美樹は流されてしまいそうな波間に身を置き、必死に昴のサーフボードを砂浜の方へと引っ張っていた。

「美樹!」

「海人っ……私だけじゃダメなの! 力が足りなくて……わっ!」

 その瞬間、波が美樹に覆いかぶさる。俺は血の気が引いて、急いで波間に駆けつけると想像以上に波の力は強くて簡単に足が引っ張られる。

「けほっ……けほっ」

 途端、波から顔を出した美樹が咳き込んだ。

「美樹、大丈夫か!?」

「うん……サーフボードも、なんとか……」

 俺は腕を伸ばし、美樹を引き寄せながら二人で力を合わせてサーフボードを引っ張る。


 だが、このままでは死ぬかもしれない、とも思った。実際、美樹の力はだんだん弱くなっている。

 昴、お願いだ。美樹まで連れて行かないでくれ。頼む……、助けてくれ!


 そのとき。


 不思議な現象が起こった。俺はガッツリ昴のサーフボードを掴んでいたのに、その瞬間意図もせずにふわっと力が抜けて。


「えっ……?」


 美樹にも同じ現象が起きたらしい。目を見開いて、俺たちの手から離れていくサーフボードを追いかけようとするが、サーフボードはまるで人が乗ってるかのような勢いで俺たちから離れ、遥か沖の方へと旅立っていった。


 いや、一瞬見えた人影のようなものは、きっと昴だ。


 呆然と立ち尽くしていると、ふと、腰まであった波が引いていることに気づく。それだけではない。風雨もいつの間にか止んでいた。もしかしたら、昴が助けてくれたのかもしれない。美樹は力が抜けたようにその場にぺたんと座り込む。


 ありがとう、昴。……美樹を助けてくれて。


 そして俺たちは白みがかった向こうの空とゆったり漂う蛍光色のサーフボードを眺めていた。

 しばらくして美樹はひとりでにつぶやく。


「……私、もう乗り越えなきゃいけないのかな」


 *


 美樹が歩けるようになってから二人で車に戻ったとき、自分の右ポケットに違和感を感じてあの存在感を思い出す。


 渡すなら、きっと今だ。


「美樹、あのさ。……渡したいものがあるんだ」

「なに?」


 俺はポケットから指輪のケースを取り出して、中の指輪を見せた。美樹は驚いて、目を見開く。

「ずっと、好きだった。……結婚してくれないか?」

 すると美樹は、バシッと俺の胸のあたりを叩いてきた。予想もしなかった反応に、今度は俺が目を見開く。

「ばっかじゃないの! ……そういうのはさ、段階ってもんがあるでしょ。まだ『付き合って』も言われてないのに」


 ……あ。そうだった。いつも一緒にいるのが当たり前で、俺はすごく大事な一歩を跳ね飛ばしていた。


「え、あ、じゃあ、俺と付き合ってください」

「じゃあってなによ、じゃあって! 別に……いいけど。でも指輪を受け取るのはもうちょっと待って。もう少しこのままでいたい」

「……わかった」


 白んでいく空が海の色を浮かばせていくのを俺はしばらく見つめていた。何か音楽でもかければよかったのかもしれなかったが、今は波の音に耳を澄ませていたかった。


 そして思い出す。昴のサーフボードが流れていったあの瞬間、俺たちはたぶん、大きな波を乗り越えられたのだと。


「私ね、……昴の好きだった人知ってるんだー」


 意外な美樹の言葉に俺は目を見開きその方を見る。


「……だれ?」

「海人のよく知ってる人」

「だから誰だよ。まさか……美樹?」

 すると美樹は首を残念そうに横に振った。

「違う。私じゃとても敵わない人。だから指輪、すぐ受け取れなかったんだ。でももう、乗り越えたんだもんね」


 そうして美樹は俺に右手を差し出した。


「指輪、右の薬指なら空いてるよ。左手はー……おあずけ」


 そう言って笑う美樹は幸せそうだった。


 *


 一年後。


 車はいつもの海岸線を走る。

 昴はもう、この海にはいない。


「家具ってさー、なんであんなに高いんだろ」

 美樹は助手席で家具のカタログを見ながら不満を言った。俺はそれを聞いて笑う。

「何事も楽しまないと人生損する、じゃなかったっけ?」

「なんかそれ聞いたことあるー……、ってそれ私のセリフじゃん!?」


 今日も快晴。海からは心地よい波の音。


 そんな海をリアガラスに写しながら車は走る。

「新居ってワクワクするよねー」

「そうだな」


 夏の日差しは暑く降り注ぎ、左手の指輪をキラリと輝かせた。



 -終-


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