第九話

 夜刀の家に入った和人はあからさまにきょろきょろと周囲を見回していた。先を歩く夜刀の後ろ、和人と並んで話しながら廊下を歩く。

「何か珍しいことでもありますか?」

「妙に明るくなったと思ってね。特に廊下や階段あたりの空気が澄んでる。以前は暗くて近づきたくなかった場所だ」

 和人の指摘は私が先日感じたものと同じだった。

「私も同じことを感じていました。何故ですか?」

「陰のある場所というのは、文字通り陰気が溜まりやすい場所でね。陰の気を持つ人の霊だけでなく、動物霊や植物霊等々いろんなものを引き寄せる。部屋の隅とか特定の場所で妙にたくさん綿ボコリが溜まるのは、空気の流れが原因だと言われているが、実は陰の気が穢れを呼び寄せて汚れを連れてくるからなんだ」

 和人の話を聞きながらシェアハウスはどうだったかと考える。私の部屋は洋裁で布を扱うものの、毎日掃除をしていたからか綿ボコリは防げていた。共用部分もみんなで分担して曜日を決めて掃除していたので綺麗だった。仲が良くて笑い声の絶えない楽しい場所だったから陰の気を寄せ付けなかったのだろうかと考えていると、友人たちの顔が浮かんできた。友人たちからのメッセージやメールは溜まる一方で、まだ一つも読んでいない。何が書いてあるのか気になっても、心が重くて確認しようとは思えなかった。

 居間に入ると、夜刀は和人と私にソファを勧め、自分は座ることなくあちこちの窓を開け放つ。手持ち無沙汰な私はお茶を淹れることを思いついて立ち上がった。

「夜刀、お茶淹れてくるね。緑茶でいい?」

「ああ、頼む」

 台所へと向かいながら警察署と比べると、古民家の中に流れる空気はとても清々しく感じる。和人が聖域と表現していたのを聞いて成程と思った。やかんでお湯を沸かしつつ、急須と茶碗、茶托を用意する。この白磁の急須と茶碗のセットは、二階の部屋を夜刀と一緒に掃除している時に見つけた。

 玉露の茶葉の香りがふわりと辺りに漂うと心が落ち着いていく。深呼吸をすると、もう完全に慣れてしまった甘い花の香りを感じて心が痛む。呪いの主に対して、私は恐怖よりも憐れみを感じている。憐れんではいけない、共感してはいけないと思っても、彼女の境遇は余りにも悲惨。

「……私が呪われたのは、彼女より幸せだから?」

 幸と不幸を比べることに意味はないとわかってはいても、彼女の身に起きたことを考えると、普通に生きている私のことが彼女にとっては幸せに見えたのかもしれない。公家の姫君は新婚の夫婦をうらやんでオトメユリを手折った妻を呪っていた。私は何も持ち去っていないし、結婚も婚約もしていないのに。

「可哀そうと思われるのが腹立つ……とか?」

「悪霊の心理分析しても無駄だぞ。理由も理屈も通じない。あいつらは大抵理性を失ってるから、死んだ時に強く残った感情に忠実に従ってるだけだ」

 背後からの夜刀の声が突然過ぎて、飛び上がりそうなほど驚いた。振り向くと台所の入り口で苦笑いを浮かべる夜刀。

「ちょ。驚かさないでよ。あー、びっくりしたー。わざわざ迎えに来てくれなくても大丈夫なのに」

 ちょうど沸いた熱湯を茶碗に注ぎ、温度を下げてから茶葉の入った急須へお湯を移す。

「……腕、見せてくれないか。痣を確認したい」

 請われるまま、ブラウスの袖を肩までまくりあげて夜刀に示す。落ち着いてくると自分の二の腕のぷにぷに感が気になってきた。後でストレッチ動画を探すべきかと悩むうちに、真剣な眼差しで痣を数えていた夜刀が安堵の息を吐いた。

「良かった……痣は減ってない」

「それって、夜刀の封印結界が悪霊に勝ってるってこと?」

「一応な」

「成程ね。夜刀の封印結界が強すぎるから、お嬢さんを直接異界へ連れて行こうとしたんじゃないかな。結界ごと取り込んだら、そのうち無効になるからね」

「うわっ!」

 唐突に割り込んできたのは和人の声。夜刀と二人で派手に驚いて、変な声が出てしまった。そもそも絹を裂くような甲高い悲鳴なんて難しいと思う。

「無効になるってどういうことですか?」

「結界で護られてても、水の中とか土の中とかに放り込まれて時間が経てば、中の人が死ぬだろう? 霊にとっては百年もあっという間だ」

 水の中に百年と言われれば、ぞっとする。とはいえ、このまま夜刀の家でお世話になるのも忍びない。早く呪いを解かないと。 


 私が淹れたお茶を夜刀が運び、居間のソファに三人で座りなおした。私の隣には夜刀、向かい合う位置に和人。まずは私が警察署の廊下で経験したことを話すようにと和人に求められ、私は見たまま全てを二人に話した。

「……名前はわからずじまいか。もしかすると愛流の憐れみを誘う為に記憶を都合良くつぎはぎ編集してるのかもしれないぞ」

 夜刀が口を引き結んで黙り込む。夢の中、女性も男性も名前は一度も出てこなかった。それは意図的なものだったのだろうか。

「戦時中に赤紙が届いた場所は日本各地にあるから、それだけで調べるのは難しそうだ。病み上がりで結婚半年という条件を付けて探してもらうが、時間が掛かりそうだね」

 どうやら和人は人手を使って探そうとしているようだ。

「そちらは数が多そうなので女性の連続殺人事件で調べた方が早いのではないでしょうか。水に沈められていた女性は十人以上……いえ、二十人以上いたと思います」

 水底で揺れる白い女たちを思い出すと、体が恐怖で震える。

「それはどうだろうな。終戦前後の混乱期だったとしても、死蝋しろう化した二十名以上の女性の死体が見つかっていたら話題になっていただろ。もちろん閉鎖的な土地で揉み消された可能性もあるが、まだ死体が隠されていて事件として発覚していない可能性もある」

 夜刀の表情は硬く、意味が分からなかった言葉を聞くかどうか迷って、結局聞くことにした。

「……ごめん、夜刀。『しろう』って何?」

「冷たい水とか湿った土の中、死体が腐敗しない状態で保たれている間に体がロウソクやチーズみたいに変化することがあるんだ。それを死蝋って言う。最近は石けん死体とも言うらしいけど」

 私の問いに答えてくれたのは和人。ゆらゆらと揺れていた体がロウソクやチーズ、ましてや石けんと言われると気持ち悪くなってきた。

「若い女性の死蝋化死体が多数っていう事件が発覚していたら、世間の好事家たちが騒ぐだろうからね。やはり、まだ発見されていないかもしれない」

 それは確かにそうだと思う。今回の呪いの話がない状況で、腐敗することのない綺麗なままの遺体とだけ聞けば、死体に関心の無い私も怖い物見たさの気持ちはあっただろう。

「それなら、あの女性の願いは自分や他の女性の遺体を見つけて欲しいということでしょうか」

「それはどうかな……もしも見つけてほしいというのなら、もっと手掛かりになる情報を出してきたはずだよ。私としては『我慢できない』という言葉が気になるな。……何が我慢できないというのか」

 和人は私が聞いた最初の言葉に引っ掛かりを感じているらしい。

「人殺しが我慢できないってことじゃないですか? 誰でもいいから自分より苦しんで死ねばスッキリするから連続で人を殺す。……迷惑極まりないな」

 溜息を吐きつつ夜刀がお茶を口にする。


「今度はこちらの話をしようか。血を吐いて死んだ男の御遺体を見たが、乾燥してミイラになっていた」

 妙に明るい口調の和人のにこにこ顔が怖い。

「え? 警察署の遺体安置所って、御遺体を干物にしちゃうんですか?」

 和人の言葉に驚いて聞くと、隣の夜刀が肩を落として脱力する。

「ちーがーう。……お前、緊張感を粉々にするなよなー。遺体の腐敗が進まないように温度管理がされた部屋で、普通はミイラになる訳ないぞ」

「でも、ミイラになったんでしょ?」

 警察署の廊下を思い出してみても、冷やりとしているだけで特別乾燥しているようには感じなかった。

「あの警察署の安置所は引き出し式の冷蔵庫になっていてね。念の為に確認したけど、他の御遺体は普通だったよ。藤内さんも間違ったかと慌ててた。今回の呪いの主は、水を自在に操るらしいね。体中の水分が抜けているから、検死をしても死因が特定できないかもしれないのが厄介だ」

「あの女性は、土岐川さんの水分を奪っていったということでしょうか。そういえば搾り取られるって言っていましたし」

 血を吐く前の土岐川は『無理だと言っても搾り取られる』と言っていた。体中の水分を取られるという意味だったのか。

「土岐川? ああ、そんな名前だったね。男の水分をカラカラになるまで全て奪って満足したのか、呪いの香りは消えていた。もう関心もないとばかりに、呪いの痕跡すら残っていないというのは珍しいよ。普通は多少なりとも痕跡は残っているものなんだ」

「綺麗さっぱり呪いを消し去ったのは辿られないようにする為かもしれません。実際、当主も俺も全く掴めなかった」

 夜刀は相当悔しかったのか、膝の上で手を握る。こんなに頑張ってくれているのにと思いながらも、私は呪われている当事者という意識が薄いというか、危機感が無くなってしまっていた。これが悪霊に取り込まれそうになっている心理状態なのか。


「そうそう。この件に関係あると思うから、藤内さんが見て欲しいと言っていた御遺体の話をしようか。警官たちが変死体と言って怖がっていたのは、道を歩いていて水死したという男性で二十になったばかりの専門学校生。こちらの遺体は真逆で全く乾かない。服も髪も水から上がった直後というような濡れ具合だ」

「乾かない? 油ではありませんか?」

「それは流石に調べたらしい。間違いなく水だそうだよ。タオルで拭っても、吸水シートを使っても、どこからともなく水が沸いてきて使い物にならないくらいに濡れてしまう。それでいて、皮膚がふやけたりはしない。……実は同じ状態の御遺体が、他の警察署にも保管されてるらしくてね。どうしたらいいのかと相談を受けた」

 路上で水死。あの見えない水に全身を包まれていたら、私も同じようになっていたのだろうか。

「その御遺体は、どうするんですか?」

「検死が終わった後、私がお祓いをすることにした。あのままでは焼いても焼けないからね」

 和人の言葉につられ、水濡れして焼けない遺体を想像してしまいそうになって慌てて取り消す。

「その水死も〝闇香の呪い〟ですか?」

「いいや。恨みも残留思念も残っていないし、全く性質の違うものだった。お嬢さんの件と繋がりがあると知っていなければ、きっと関係のない霊障として片付けていた。……現状で確認されているのは男女含めて十一体。夜刀が見た新聞記事では犠牲者九名と発表されていたようだけれど、それから増えた。一人暮らしの部屋で亡くなっている者もいるかもしれないね」

「愛流、男が血を吐いているのをスマホで撮影していたのは何人ぐらいだ?」

「えーっと。そうね……二十人はいなかったと思うから、十数人くらい。……水死したのは、撮影していた人なのかな……?」

 カジュアル服やスーツ姿、通りすがりの十数名の男女だった。二十代から三十代が多い印象がある。二十歳の専門学校生と聞いても、写真も無いし誰とは特定できなかった。

「おそらくそうだろうね。後で雅に調べてもらうけど、動画をネットにアップした人物とも一致するだろう。呪いや霊障を撮影してしまったのなら、それで霊と縁が出来てしまったことになる。本物の心霊写真をポケットに入れて常に持ち歩いているのと同じ状態だ」

 和人はさらりと言っていても、スマホで撮影した動画のせいで悪霊に殺されてしまうなんて怖い。

「それじゃあ、アップされた動画を見た人はどうなりますか? 何十万回も再生されてると友人が言っていました」

「実際の動画を見てみないとわからないけど、霊の姿が映っている物があればかなりマズい。その動画が霊の通り道を作ってしまうからね。映っていなくても、敏感な人間なら体調不良程度は起こすだろう」

 撮影された動画を見たいとは思えない。血を吐いて苦しむ土岐川の姿は、映画やドラマではなく現実だった。

「……愛流には黙っていたが、雅さんに電話する前に動画の何本かは確認した。どれも霊の姿は無かったが、消された動画に白いワンピースの女が映っていたという話がある」

 そういえば、シェアハウスの友人が再生回数が百万回超えの動画が消されたと言っていた。

「動画って簡単にコピーできるでしょ? コピーは残ってないの?」

「その動画だけ、コピーしてもスクリーンショットを撮っても真っ黒になるだけだったらしい。高熱が出たとか、吐いたとかいうのもいたな」

「……いろんな意味で危ないから消されたってこと?」

「それはわからんが、一番ヤバいのが消されてるだけでもマシだと思うしかないな。できれば、全部消してくれたら面倒が減って良かったのにな」

 夜刀と一緒に深い溜息を吐く。冷めきったお茶を口にしていると、微笑む和人と目が合った。

「今回の呪いとは関係ないけど〝浄化の巫女〟の話をしておこうか。夜刀が話すかと思ったけど、このままだとのらりくらりとしそうだからね」

 和人の言葉を聞いて、何故か夜刀が口を引き結んだ。

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