第八話

 逃げ出したくても、甘い花の香りに脳がしびれていくようで指一本すら動かない。口を塞がれたまま、華奢な腕に背中から抱きしめられて、ただ震える体から温度が奪われていくのを感じているだけ。見ている景色は暗い廊下のままなのに、足元からせりあがってくる水の感触は怖すぎてたまらない。

 足首から脛、膝までが見えない水に浸かるのはあっという間。路上を歩いていて水死したという事件を思い出し、死への恐怖が体を縛る。太ももを這いあがる冷たい水面の揺らめきが、背筋にぞくりと悪寒を走らせて一瞬だけ恐怖が解けた。

 ――助けて!

 叫びたくても冷え切った口は凍ったように動かない。心の底での絶叫と同時に白い光が煌めいて、冷たい手がはじかれたように離れ水が引いていく。甘い花の香りも薄れて、頭の中にかかっていた霧が綺麗に晴れた。

 逃げるなら今しかないと歯を食いしばって壁に手を付き、力の入らない脚を動かす。足先はすでに冷たさで感覚が失われていて、転んでしまいそうになる。

 曲がり角の先から、薄暗い廊下に明るい光が差し込んできた。あの場所まで行けば、あとは夜刀がきっと何とかしてくれる。そう信じながら、ずるずると壁に縋りつき足をひきずって前を目指す。

 前へ進むと甘い花の香りも冷気も遠ざかっていく。足先に力が戻り始め、壁から手を放してのろのろと歩き出す。光に、もうすぐ手が届く。助かりたい一心で小走りに曲がり角に入ると周囲の景色がまばゆい光に変化して、私の体は飲み込まれた。


 光が和らいだことを感じて目を開くと、最初に目に入ってきたのは綺麗な青空。周囲を山に囲まれた丘で、私は青々とした広大な水田を誰かと見下ろしていた。隣に立っているのは、カーキ色のシャツとズボンを着た細身で背が高い男性。顔は逆光になって良く見えない。雰囲気は二十代前半。

『ついに僕にも赤紙が来た。君と夫婦として過ごした半年を僕は忘れることはないだろう』

 優しい声が耳に心地良く響く。赤紙というのは召集令状のことだろうか。カーキ色の上下は第二次世界大戦中の国民服かと思い出した。

『まだ病が完治しておられませんのに、徴兵なんて……』

 私の口から勝手に言葉が出て行く。男性の服装から見ても、私ではない誰かの思い出の中に私はいるのか。

『それだけ、厳しい戦況だということだ。新聞は大勝だ連勝だと威勢よく報じているが、おそらく真実を伝えてはいない』

 学生の時に日本史で習ったことを思い出すと、軍部は新聞を使って連勝だと国民に嘘を付き扇動していたと教科書には書いてあったように思う。教師は何故か明治以降の現代日本史を詳しく扱うようなことはなく、定期試験用に詰め込むように教科書を読んだだけで、はっきりとは覚えていない。

『……行かないで……お願い……』

 か細く絞り出すような言葉を聞いて、男性が驚き困惑している様子が伝わってくる。

『君が初めて口にした願いを叶えてあげられないのが本当に残念だ。……今の僕の一番の願いは、君が住むこの国を護ることだ。君が生き延びることが、僕の幸せなんだ。これからつらいこともあるとは思うが、どうか生きて欲しい。どんな形でも、君の元に帰ってこられるように僕は最大限努力する』

 どんな形でも。その言葉に秘めた悲壮な決意が胸に痛い。病弱でも聡明な男性は、絶望的な戦況と理解していながら妻を護るために戦地へと赴くのだろう。

『貴方の無事の帰還をお待ちしております。いつまでも』

 それは決意に応える誓いの言葉。溢れる涙が頬を伝い落ちるのを感じながら、私の意識は闇に飲まれた。


 次に目を開くと、私は暗い水の中でたゆたっていた。長い黒髪と白い長襦袢の袖が揺れている。どちらが上なのか下なのかわからない完全な冷たい闇の中。

 突然丸い光が現れて、水面が光で煌めく。私がいるのは深い深い水底。目が光に慣れると丸く切り取られた小さな青空が見えた。その青は、あの日見た空の青に似ている。

『――何故、私は独りなのか。何故、あの方は帰ってこないのか』

 疑問で心がいっぱいになった時、丸い空から何か黒い塊が降ってきた。派手な水音を立てて透明だった水が白く泡立つ。

 泡は徐々に潰れて消えて、濁っていた水が透明感を取り戻す。私と同じ水底に落ちてきたのは、長い黒髪と白い長襦袢の華奢な女性。手首と足首には縄が巻かれ、大きな重石が付けられている。女性は目を見開き、後ろ手に縛られて水の中で揺れるだけ。

 小さな光で薄暗く照らされた水底を、よくよく見れば同じように沈められた女性たちが周囲で揺れていた。長い黒髪と白い長襦袢。その虚ろな黒い瞳は、一様に丸い青空を見上げている。

 やがて青い空は閉じられて、ゆらゆらと揺れる白い女たちだけが水底に取り残された。


 ゆらゆらとした緩やかな揺れが、強く揺さぶるような揺れへと変化していく。冷たいと感じていた水の感触は消え、暖かな温度が体を包み込んだ。

「愛流!」

 目を開くと夜刀の必死な顔。ぼんやりとした頭で視線を巡らすと私は廊下の床に座り、傍らで跪いた夜刀に上半身を抱き締められていた。

「何が起きたの?」

「すまん…俺の力が足りなかった」

 悔しげに歯噛みした夜刀は、ますます私を抱き締めるだけ。

「相手は相当な力を持っているな。雅をおびき寄せてお嬢さんを異界へ連れて行こうとするとは思わなかった」

 和人の声に驚いて、体に力が戻ってきた。夜刀の胸を手で押して少々の距離を取る。『みやび』とは誰のことかと思い出すまでたっぷり十五秒。周囲を見回しても雅の姿は無かった。

「あ、あの、雅さんは?」

「護送中に逃亡しようとした男を取り押さえて、事情を聞かれているよ。藤内さんが同席しているから、すぐに解放されるだろう。お嬢さんの護衛を頼んでいたのに離れるなんて、役に立たなくて申し訳なかったね」

「いえ。雅さんは警察に任せた方がいいっておっしゃっていたのに、女性を助けに行ってほしいと言ったのは私です」

 私の言葉を聞いて、夜刀と和人が顔を見合わせる。逃亡犯は凶悪事件を引き起こした男で女性は遠ざけられていて、二人は廊下での逃亡未遂に関係する叫び声や騒音は聞いたのに、女性の叫び声を聞いてはいなかった。

「愛流、体に異常はないか?」

 夜刀があちこちを触るのを押し留め、自分の体を確かめつつ服についた埃を払い、手を借りて立ち上がる。

「ありがと。体は平気なんだけど、変な夢見ちゃった」

「変な夢? どんな夢か覚えてるか?」

 夜刀の問いに素直に頷く。覚えているというレベルではなく、自分自身が体験したような生々しい記憶として残っている。

「記憶が残っているのなら、場所を変えて話を聞こうか。私たちが見た御遺体の話もしよう」

 和人の提案に同意して、私は夜刀に支えられながら警察署を後にした。


 雅の車に乗ってきたという和人を車の後部座席に乗せてシートベルトを着けると、これからどこへ行って話すかという話になった。

「私の行きつけの料亭かレストランの個室ではどうでしょうかねえ」

 和人の行きつけの店の名前を聞いて恐れおののく。グルメに疎い私でも聞いたことのある老舗有名店ばかりで、高そうという印象しか頭に浮かばなかった。

「待ってください、当主。一般人を巻き込んだ場合、どう責任を取るつもりですか。ただでさえ、死人が続出しているというのに」

 夜刀がいつになく真剣な口調で和人に言い放つ。私としては夜刀を全力で応援したい。どう考えても私と夜刀のカジュアルな服装では場違いに決まっている。

「警察署に溜まった陰の気によって夜刀の結界が弱められたけど、料亭やレストランなら陽の気で結界を強められるだろう?」

「あ、あのっ。警察署って陰の気が溜まっているんですか?」

 穏やかに笑う和人の言葉を聞いて思わず口から疑問が飛び出た。子供がたくさんいて陽の気を発しているという小学校や保育園とは全く逆なのか。

「そうだよ。日々、犯罪者や被害者が訪れる場所だからね。署長室や道場に神棚を設置して御札を貼って、定期的にお祓いで浄化していても追いつかないというのは、全国どこの警察署でも同じだと思うよ」

 私が和人と話している間に、夜刀は無言で車を走らせ始めた。

「夜刀、どこいくの?」

「俺の家。他人を巻き込む可能性を心配しながら茶を飲むくらいなら、俺の家で水飲む方が百倍マシだ」

 ぎりぎりと歯噛みしながらも、夜刀の運転は丁寧で優しい。信号で停止する時は体に圧が掛からないし、曲がり角も滑らかに進む。 

「夜刀の運転技術は随分上がったね。免許取り立ての頃はいろいろ酷かった」

「……雅さんの指導のおかげです。あの人には感謝しかありません」

 この丁寧な運転方法は雅から習ったのか。教える側だった雅がどんな運転をするのかちょっぴり興味が出てきた。

「ということは、雅がブチ切れた時の運転方法も習った?」

「……誤解を招く発言を愛流の前でしないでください。愛流、雅さんがブチ切れるっていうのは、怒るとか乱暴になるとかそういうのじゃないからな。冷静さが極まってプロのレースドライバー並みの運転になるだけだ」

 そう聞くとさらに興味が沸いてくる。雅がどんな車に乗っているのか見てみたい。


 夜刀の車はいつもとは違う道を走っていた。小川が流れる公園がある閑静な住宅街を抜け、中途半端に開発されて荒れ放題の土地を過ぎ、ようやく遥か彼方に夜刀の家が見えてきた。

「いつもと道が違うのね。どうして遠回りするの?」

「霊が家まで付いて来ないように、途中で霊が好きそうな場所を通ってる」

「それって、私を呪った霊のこと?」

「いや、違う。俺たちが遺体安置所から引き連れてるヤツらだ」

「は?」

 さらりと流された言葉が怖すぎる。血の気が引くのを感じつつ車の後ろをサイドミラーで見ても何も映ってはいない。

「今、私、霊とか見えなくて幸せだなって思った!」

「……お前は俺が護るから見る必要ないぞ。お前、悪霊に連れ去られそうになったのに随分余裕あるな」

 そう言われれば、そうかもしれない。連れ去られることなく、無事に戻ってこれたからというのが大きいとは思う。後は……。

「何て言ったらいいのかな……。さっき、たぶん私を呪った女性の記憶の一部を見せられたんだけど、愛する人を失った上に誰かに殺されちゃったみたいなの。ものすごく可哀そうな人だったんだなって。誰かを呪ってしまうのも仕方ないかも…………どうしたの? 何か私、悪いこと言った?」

 私が何気なく口にした言葉で夜刀と和人の二人が息をのみ、空気が尖ったものへと変わったのがわかる。にこにことした笑顔の和人も目が笑っていない。

「愛流、それはマジでヤバい状況だ。お前が悪霊の意識に取り込まれようとしてたんだぞ。どんなに憐れみを感じても同調したら負けだ。記憶といっても都合の良い場面だけを切り取って見せてきたり、改ざんするヤツもいる。悪霊に善悪を判断する心なんてないからな。恨みの念だけで行動してるだけだ。…………こんなことになるなら、お前と離れるんじゃなかった……」

 歯噛みしながら夜刀はハンドルを切る。まっすぐ家へと向かわないのは、まだ霊が付いてきているのかもしれない。

「夜刀の言いたいことはわかるが、お嬢さんがあの御遺体の近くに行ったら、もっと厄介なことになったかもしれない。加工されていたとしても何らかの記憶を見せられたのなら、相手の正体を探る手掛かりにもなるじゃないか」

「もっと厄介なことって何ですか?」

「それは後で説明しよう。一番面倒な霊がその窓から離れてからかな」

「ひっ!」

 笑う和人が指さしたのは、助手席に乗る私のすぐ近くの窓。咄嗟に可愛らしい悲鳴なんて無理無理無理。体を小さくして運転席に寄せてみても、シートベルトは外せないから気休めにもならない。

「愛流をからかうのはやめてください。当主」

「……夜刀」

 和人は私をからかっているだけかとほっとしたのに、夜刀の言葉は続いた。

「一番面倒なのは先ほど離れました。残ってるのは二番目に面倒なヤツです」

「本当に私、見えなくて良かった!」

 手を握りしめて断言しつつ、視線は夜刀の方へと固定する。霊がいると言われると何だか気配を感じるような気がするから怖すぎる。何もいないと言って欲しいのに、見える二人はそう言ってはくれない。

 しばらくして和菓子屋の前を通った後、やっと夜刀が口を開いた。

「よし。離れた。どうも和菓子好きだったらしい」

「も、もしかしたら、今後あの和菓子屋に幽霊が出るっていうことになるの?」

「それはわからないな。和菓子を見ることで満足して、いわゆる成仏をすることもあるし、未練で周囲をうろつくこともある。供え物を期待して自分の体に戻るかもしれない。……正直に言うと、ずーっと和菓子の蘊蓄うんちくを窓越しにお前へ語ってた。和菓子屋の幽霊になったとしても見えない人間には害はない。もしかしたら和菓子が食べたくなったりするかもしれないが……どうだ?」

「全然」

 和菓子のことを語り続ける幽霊。怖くはないかもしれないけれど、それはそれでうざい。


 ようやく夜刀の家へとたどり着き、車を降りて家を見上げた和人が呆れた声を上げた。

「これはこれは。夜刀はエグい仕掛けしてるなあ」

「エグい仕掛けって何ですか?」

「霊がこの家に近づくと問答無用で強制浄化するようになってる。これは誰も近づきたくないだろうね」

 だから先ほど、霊を振り払うために遠回りをしていたのか。

「無差別にはしてないです。守護霊は承認制にしています」

 夜刀と和人、この二人の目にはこの古民家周りに何が見えているのか知りたいような知りたくないような複雑な気分。

「これだけの仕掛けをした上で夜刀得意の結界。内部に〝浄化の巫女〟のがいれば完璧に聖域だな」

 また〝浄化の巫女〟。夜刀の方をちらりと見ると、夜刀が視線を揺らして慌てているのがわかった。

「おや。これはまだ、お嬢さんに説明していないということか。いろいろと話すことが多そうだね」

 和人は菩薩のような柔らかな微笑みを浮かべ、夜刀は口を引き結んでいた。

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