第四話
梅雨明けの夏の日差しが容赦なく都会のビルの谷間に降り注ぐ。就職活動用の黒いスーツが熱を帯び、額から汗が流れていく。
駅から五分の好立地。商業ビルが立ち並ぶ中、とある企業の中途採用の面接会場へと私は向かっていた。
「夏の就活って、ホントに地獄よね……」
これから面接という状況では、いつも使っている愛用の日傘は使えない。髪をきっちり一つに結び、シャツは半袖、スーツは夏用。最高に最悪なのがストッキング。冷感タイプと表示してあっても、ぴったりとした一枚が不快感を煽る。就活用のナチュラルメイクは『自然に見える』というだけで、しっかりと顔表面を汗で流れない化粧品の膜で覆っているから熱が籠る。要するに暑い。暑過ぎる。
「よし。受付四十五分前に到着っと」
面接会場周辺にある商業ビルで涼んでから向かう予定で早めに来た。受付を確認しに行くと入り口手前で数名のスーツ姿の女性がスマホを見ながら佇んでいる。おそらくは同じ面接を受けるのだろう。中途採用二名の募集に何名応募しているのかと考えるとうんざりしてきた。それでも稀にみる好条件だから何とか受かりたい。
女性たちからちらちらと視線を受けつつ、踵を返して商業ビルへと向かう。化粧品や衣類、おしゃれな雑貨店が並ぶ中、やはり就活スーツの女性の姿が散見される。
条件の良い募集は一名に対して数百名、時には千名を超える応募があると聞いた。そんな超難関を何度も突破してきたのに、毎回その会社が潰れてしまうのは何故なのか。新入社員の私のせいではないと思いつつ、無意味な職歴だけが増えていくのは地味につらいから今回で終わらせたい。
軽く化粧直しをしようとトイレに向かうと、手洗い場の鏡の前で同じくスーツ姿の女性たちが陣取ってメイクをしていた。中には一からメイクをしている女性もいて、全く動きそうにない。
あきらめて店内に戻って歩いていると、ふわりと良い匂いが鼻を掠めた。花の香りだと思っても、何の花なのかはさっぱりわからなくて興味が沸く。香水にしては不自然さも不快感も一切なくてただただ良い匂いとしか感想が出てこなかった。どこかで売っているのかと匂いを辿る。
花の香りに引き寄せられるように歩いていくと、とうとうビルの外に出てしまった。受付開始まであと三十分あると確認して、香りの元を探すと決めた。ビルの外に出るとますます香りは強くなっているのに、周囲の人々は何の反応も示していない。これはおかしいと思いながらも、匂いの正体が知りたくて足を進める。
商業ビルとビルの間には、小さな公園が作られていて、生い茂る木々の下、あちこちにベンチが設置されている。地面は黒っぽい石のタイルが敷き詰められ、砂場や滑り台といった遊具がない代わりに水遊び用の噴水が設置されていた。きっと休日には小さな子供の遊び場になるのだろう。
どこかで花が咲いているのかと見まわしてみても、青々とした緑ばかりで花は無い。ビルとビルとの通り道として歩いている人々も香りに一切関心の様子はない。
あきらめた方がいい。誰かが私にささやいた気がした時、緑の生垣の中央に置かれたベンチに項垂れながら座る男が視界に入った。茶色の短髪はぼさぼさで、夏だというのに長袖の灰色のパーカー。黒いジーンズと汚れたスニーカー。ホームレスではないとは思っても、そこだけが墨絵の別世界のような異様な雰囲気を醸し出している。
通り過ぎて見なかったふりをしようと思っても、男から匂う花の香りが心をつかむ。香りの正体を知りたいと、話題のきっかけを探すのは何故なのか。
「あ、あの、気分でも悪いんですか? ……救急車を呼びましょうか?」
「……無駄だ……」
顔を上げた男の目の下には、真っ黒なクマができていた。三十代の男の目は異様なまでにギラギラとしていて頬はこけ、まるで骨と皮。男の足元に散らばるゴミは、カフェインドリンクの瓶や缶。空になった錠剤の包装シートがいくつも目に入った。まさかとは思うけれど、危ないクスリでもやっているのではないだろうか。これは救急車ではなく警察案件かもしれないと、すぐに走って逃げられるように肩にかけたカバンの持ち手をしっかりと握りしめる。
「病院に行っても無駄だった。一度出演したら、もう逃げられない」
「出演?」
男の話す意味が分からなくて問いかける。
「動画だよ。俺は誘われてライブ配信に参加しただけなのに……眠ったら、あの女が来るんだ。……もう無理だと言っても搾り取られる。だから起きているしかない。俺を誘ったヤツはどこかに消えた。友達だと思っていたのに、俺を残して逃げた!」
自嘲する男の目はますますギラギラと輝き、異常な精神状態であることを示している。言っている意味もわからないし、これは本当に関わり合いになってはいけないとようやく危機感を覚えた。
「えーっと、その……す、すいません。私ではお役に立てないようですから……」
失礼しますと続けようとした時、男は座ったままの姿勢で唐突に大量の血を吐いた。真っ赤な鮮血が飛び散って、私の足元にも飛沫が掛かる。
「ひっ! きっ、救急車っ!」
カバンの中のスマホを取り出そうと私が慌てていると、男はベンチからよろめくように離れて、私の足にしがみついてきた。
「う、嘘っ! 嘘っ! 嘘っ!」
男は再び血を吐いて、私は足を滑らせて地面に座り込んだ。男は荒い息の中、呻きながら足にしがみつく。とにかく恐ろしくて手が震えるから、カバンの中からスマホを取り出せなかった。誰かに助けを求めようと周囲を見た私は、さらに恐怖した。
「うわ、ヤバーい」
「いやー、これはすげーな」
口々につぶやくスーツ姿の男女や、カジュアルな服の男女、十数名がスマホのカメラをこちらに向けて撮影していた。血を吐き倒れて苦しんでいる人間がいるのに、誰も通報しようともしていない。
「あ、あのっ、誰か、救急車! 救急車呼んでください!」
私が叫んでも誰も撮影をやめない。スマホ越しにニヤニヤと半笑いで撮影する人々の光景は、血を吐いている男よりも怖かった。誰にも頼れないと掴んだスマホを何度も落とし、震える指で一一九番へと電話を掛ける。
「も、もしもしっ! 人が血を吐いてるんです!」
『救急車が向かう場所はどこですか?』
人生で初めて掛けた一一九番で気が動転しながらも、何とか救急車の出動要請ができた。血を吐いている理由がわからないので、到着まで何もせずに待っていてほしいと指示を受け、通話が切れた。
「……今、救急車が来ますから! が、頑張ってください!」
何を頑張れと言っているのか、自分でもよくわからない。それでも何か声を掛けなければならない気がしていた。私のスカートを掴む男の指は力を込めすぎているのか白くなっていく。縋りつく男のぜえぜえという荒い息遣いが耳障りで、誰か助けてと心の中で叫びながら震える。
「うあああああ! あいつだ! どうして……! 俺は起きてる! 起きてるんだ!」
私の背後を見て目を見開いた男が叫び、しがみついていた手が離れた。何かから逃げるように血の跡を残しつつ地面を這っていく。男が驚いた方へ振り向くと、水遊び用の噴水から水が噴きあがっているだけで、スマホで撮影している人々も何故かそこだけはいない。
地面を這う男を、撮影している人々が避けていく。誰も助けないのかと歯がゆくても、私自身も逃げたくて仕方ない。私のスーツは血だらけで、スカートは男が強く握ったシワが残っている。とにかく立ち上がろうとすると、花の香りが一層濃くなった。
「……何?」
花の香りを漂わせていた男は地面を這い、私から三メートルは離れている。それなのに、何故香りが強くなったのか。
――耳元で鈴が鳴った。
背筋がぞくりと寒くなり、背後から花の香りが漂ってくる。絶対に見るなと私の心の中で誰かが叫んでいるのに、私は振り返ってしまった。
その場に立っていたのは、私と同年代の髪の長い華奢な女性。黒髪に結ばれた白いリボンと白いノースリーブのワンピースの裾が風もないのに揺らめいている。儚げな美人は悲しげに首をかしげて微笑んだ。
「ぎゃああああああ!」
凄まじい咆哮のような悲鳴の方を見ると、男が喉をかきむしりながら地面を転げまわっていた。その恐ろしい光景を見て、一人、二人と撮影していた人々が逃げていく。暴れる男を落ち着かせなければと思っても、女の力で止めることはできそうにない。
「うわ、やべー」
転がってきた男を避けながら、まだしつこく撮影を続けている者がいることに驚きは隠せなかった。派手な柄のTシャツにジーンズ姿の二十代半ばの男の顔は、禍々しいとしかいいようのない歪んだ笑顔を浮かべている。
本物の地獄というのは、この光景なのかもしれない。咄嗟に私はそう思った。もがき苦しむ人間を、助けようともせずに笑いながら撮影する人間。
「撮影なんてやめて!」
ようやく口から出た私の叫びを聞いても、撮影者はやめようとはしない。他の撮影者はすでに逃げて、別の野次馬が私たちを遠巻きに取り囲んでいる。
救急車のサイレンが響き渡って安堵した時、転げまわっていた男がびくびくと体を大きく痙攣させて、ぴたりと動きを止めた。
「え? 何?」
自らが吐いた血の海の中に倒れこみ、極限まで見開いた男の瞳には青い空だけが映り込んでいた。
救急車が到着した時、男は完全に死んでいた。警察が呼ばれることになり、私は何故か関係者として取り調べを受け、解放されたのは夜の八時。白いワンピースの女性と、最後までスマホ撮影していた男は逃げたのか姿は見えなかった。もちろん面接には不参加だし、そもそも連絡するということも思いつかなかったので、無断欠席になってしまった。
血にまみれた黒いスーツはかぴかぴに乾燥していて、ストッキングを脱ぐことは出来ても、着替えも何もない状況ではそのままいるしかない。
迎えに来てもらえる親族が近くにいないと告げると、警察がパトカーで送ってくれ
るというので、とっさに夜刀の家を指定した。もしもシェアハウスにパトカーで乗り付けたなんてことになったら、どんな噂になるか想像するだけでも怖かった。教えた住所と違う住所へ送ってもらうことで何か揉めるかと身構えたのに、警官はあっさりと私を夜刀の家に送り届けた。
勝手知ったる夜刀の家とは言っても、事前に電話をして夜刀の許可は得ている。玄関のインターホンを鳴らそうとする前にドアが開いた。
「夜刀、ちょっと愚痴聞いて!」
紺色の作務衣姿の夜刀の顔を見てほっとすると同時に、怒りが込み上げてきた。どうして見ず知らずの男の為に警察で取り調べを受けなければならなかったのかという理不尽さが突然爆発した。
「愚痴? ああそれは構わな……い……お前、何だその匂い……」
私の顔を見た夜刀の顔色が変わった。匂いというのは、血の匂いなのかそれともまとわりつく花の匂いか。
「あー、やっぱ匂う? ……何するのよっ!」
「お前、服、早く脱げ!」
真剣な表情の夜刀が私の肩を強く掴んで玄関の中へと入れた。スーツの襟を引っ張るので、ボタンを留める糸が嫌な音を立てた。
「はっ? 何言ってんのよっ? ちょ、やめてよっ!」
血まみれとはいえ、いきなり服を脱げなんて意味が分からない。抵抗しようと手を振り上げると、夜刀が叫んだ。
「それは死臭だ! ヤバいんだよ!」
「し、刺繍?」
いきなり刺繍と言われて思考が停止した。
「何でもいいから脱げ!」
「ちょ、引っ張らないで! 脱げないでしょ!」
上着のボタンを外し半そでブラウスが露になると、夜刀が左の袖をめくりあげた。
「……これは……」
夜刀の視線の先、私の左の二の腕には、丸く小さな赤い痣がぽつぽつと広がっていた。
「何……これ……」
痒くも痛くもない、ただの赤い痣。今朝、出かけるときには何もなかったことを確認している。まさかあの男は人に伝染する病気持ちだったのかと血の気が引いた。
「くそっ! 愛流、動くなよ!」
口元に人差し指と中指を当て、夜刀は何か呪文のような言葉をつぶやいた。白い光を発した右手で痣に触れた途端、破裂音が響く。
「……ちっ!」
「ちょっと! 夜刀! 何でっ?」
夜刀の右手の平が、赤い血に染まっていた。状況からみると私に触れたからケガをしたらしいのに、理由がさっぱりわからない。顔色の悪い夜刀は、深呼吸を繰り返して口を開いた。
「……心配しなくていい。俺のは大したケガじゃない。……服とカバン、全部新しいの買ってやるから、今すぐ捨ててくれ。とりあえず俺の服を貸す。服が届くまで、ここにいてくれないか?」
「……よくわかんないけど……わかった」
私のせいで血を流している夜刀の要求を拒否するのはためらわれる。真剣な表情の夜刀に、私はうなずくしかなかった。
日本酒一升と粗塩一キロが入ったお風呂に入った後、私は夜刀の浴衣を借りて居間に置かれたソファに座りながらスマホで通販サイトを見ていた。
「服と下着の注文終了っと。ギリギリ明日届くみたいねー。よかったー」
いくら信用しているとは言っても、流石に男の前で下着なしというのは居心地が悪すぎる。夜刀は私が座るソファではなく、少々離れた別の椅子に座っていた。
「で。理由を説明してもらえる? この痣、何なの?」
夜刀の右手には、鋭い刃物で浅く切られたような傷が無数に残っていた。紙や草で切れた傷のようで、見ているだけでも痛そう。
「……その前に、お前が何故、その死臭を漂わせてるのか聞いていいか?」
そう聞かれて、血を吐いて絶命した男の一部始終を話すと夜刀は頭を抱えてしまった。
「女の顔を見たのか……」
「見たらダメだったの? もったいぶらないで、早く教えて。私、何かヤバいの?」
夜刀が死臭と呼ぶ甘い花の香りは、お風呂に入っても取れなかった。むしろ私が使っている整髪料や化粧が落ちたことで、さらに匂いは強まっている気がしている。
「……気をしっかり持って聞いてくれ。……お前は呪いを受けてる」
「呪い? どういうこと?」
夜刀の職業が拝み屋だと理解はしていても、私が呪われるなんて本気で意味が分からない。
「それは〝
「アンコウ? 鍋にしたら美味しいヤツ?」
単語のアクセントは違っても、頭に浮かんだそのままを口にすると夜刀はがっくりと肩を落とした。
「ちーがーう。……お前、緊張感を粉々にするなよなー。闇の香りって書いて闇香だ。この呪いはマジでヤバい。お前の二の腕にある痣が残り日数を示してる」
「残り日数って?」
「生存日数。その痣が消えると死ぬ」
「ちょ。何なの、それ」
突然過ぎる話で思考が真っ白になった。余命宣告なんて小説や映画のタイトルでしか見たことがない。
「呪われたのが今日だったら、残り四十八日だろうな。数えていいか?」
「嘘でしょ……何とかならないの?」
私の腕の痣を数える夜刀の切羽詰まった表情で、ようやく私にも危機感が芽生えてきた。
「……俺ができることはやる」
「えっと……依頼料はいくら?」
血の気が引いて指先が冷えていく。拝み屋への依頼料は、一体幾らになるのだろう。呪いに保険は降りないだろうし、口座に入っている金額で賄えるものなのか。
「お前から取る訳ねーだろ。…………絶対に助けると約束する。だから心配するな」
震え始めた私の体を夜刀が強く抱きしめた。恋人でもないのに近すぎると思っても、死のカウントダウンが始まっているという恐怖で体が動かない。
「解呪できるまで、就活は中止。ここに住んでもらうぞ」
「どうして?」
「呪いの進行を少しでも遅らせる為だ。空き部屋はあるから、明日服が届いたら荷物を取りにお前の部屋に行く」
「ちょっと。勝手に決めないで」
夜刀の胸を手で押して、顔を上げて抗議する。私にも予定はある。三日後には別の会社の面接もある。
「……俺はお前を死なせない為に言ってるんだ。不安なら、半年でも一年でも俺が雇って給料払ってもいい」
「そんなの……受け取れるわけないじゃない」
無言になった夜刀の腕の力が強まって、速すぎる胸の鼓動に包まれながら私は途方に暮れるしかなかった。
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