第15話 涙味の――

 ……帰るのが、思っていたより、遅くなってしまった。


 後一時間もすると、夕食の準備で嫌でもきー姉と顔を合わせる事になるので、出来ればその前に関係を修復しておきたいのだが……。


 というわけで、俺は家に帰るなり、自室に鞄を置き、そのままきー姉の部屋に直行した。


 扉の前で、二度三度と深呼吸を繰り返す。


 よし。


 腹をくくり、俺は扉をコンコンと二度ノックした。


「……はい」


 室内からあまり元気のない声が返ってくる。

 思わず、心が折れそうになるが、何とか持ちこたえ、言葉を続ける。


「雅秋だけど、今いいかな?」

「……どうぞ」


 拒絶される可能性も考えていただけに、すんなりOKが出て、少し安堵あんどする。

 しかし、本番はこれからだ。ここで気を抜くわけにはいかない。


 扉を開け、中に入る。


 きー姉は白色のクッションを抱きかかえ、壁に背中を預け、ベッドの上に体育座りをしていた。その雰囲気はやはり暗い。


「話、あるんでしょ?」

 視線をクッションに落としたまま、きー姉がそう促してくる。

「え? あ、うん……」


 そうだ。何しているんだ、俺。早く謝れ。謝って……もし許してもらえなかったら、その時は、その時は……。


「あの、すみませんでした」


 全身全霊、額を床に擦り付ける勢いで土下座をする。


「えっ!? 何? どうしたの?」


 きー姉がこちらに身を乗り出してきたのが、頭を上げずとも気配で分かった。


「こんな事で許してもらえるとは思ってないけど、他に思い付かなくて」

「だから、何!? 許すも何も、私、別にまーくんの事怒ってないし」

「へ……」


 思わぬ言葉を耳にし、顔を上げる。

 目が合う。互いの目から目が離せず、そのまま停止する。


 先に動いたのは、きー姉の方だった。慌てたように、乗り出していた体をベッドの中央付近まで戻すと、その場になぜか正座した。


「怒ってない? でも、明らかに避けられてたし」

「あれは! ……恥ずかしかったから」

「恥ずかしい? 何が?」

「だって、まーくんは、私に熱がないか見てくれようとしただけだったのに、私、勝手に勘違いして身構えちゃって」

「それのどこが恥ずかしいの?」


 全く訳が分からない。それとも、俺の頭が悪いんだろうか?


「それは――」

「それは?」


 そこできー姉は、顔を赤くして言いづらそうに俯く。


「なんか、期待してたみたいで……」

「なっ!」


 おそらく、顔から火が出るとは、今の俺の状態の事を言うのだろう。

 熱い。顔が、体が、全部が。


「ううん。今のは嘘」


 言いながら顔を上げたきー姉は、困ったような表情をしていた。


「そう、だよな……」


 そりゃ、そうだ。きー姉が俺と、その、キ、キスなんて期待するはずが――


「本当は期待してた」

「なっ!」


 もうダメだ。死ぬ。萌え死ぬ。


「それで気付いたんだ、自分の気持ちに。というか、再確認? 確信を持ったっていうのが、一番しっくりくるかな。私はまーくんの事が好き。一人の男性としてだーい好き」


 そう言って、恥ずかしげに笑うきー姉。でも、その表情は同時に真剣そのもので……。


 好きな相手に、そんな事を言われて、そんな表情を見せられて、我満出来る奴は男じゃない。


 気が付くと、俺はきー姉をベッドの上に押し倒していた。そのまま、顔を近付ける。今度は躊躇ちゅうちょしない。一気に――


「待って」


 しかし、その行動は、俺の顔の前に付き出された両の手に寄ってさえぎられた。


「え? あ、ごめん……」


 どうやら、俺の勇み足だったようだ。完全にそういう流れだと思ったのだが……。


「違くて。私、ほら、初めてだし。出来れば、先にお答えを頂きたいなと」

「答え?」

「一応、私、告白したんだけど」


 あー。答え。答えね。やっぱ、必要だよな。うん。


 意を決して、俺は自分の思いを告げるべく口を開いた。


「俺も好きだよ。もちろん、一人の女性として」

「――ッ!」


 その瞬間、きー姉の体が震え、瞳から大粒の涙が溢れ出した。


「ごめん。違うの。嬉しくて。まーくんが私の事好きって言ってくれた事が、本当に嬉しくて」

「きー姉」

「まーくん」


 お互いの顔を見つめ合い、今度こそ唇を重ねる。初めてのキスは、涙の味がした。




「あ、そう言えば」


 きー姉のベッドの上に、二人で仰向けに寝転びくつろいでいると、ふいにきー姉が何か思い出したようにそう言った。


「ん? 何?」

「手紙。見つけたの、本当は私だったの。ごめんね」

「……へー」


 どう反応するべきか一瞬迷ったせいで、不自然な間が声を出すまでに出来てしまった。


「なんか、気まずくて。柚希が見つけた事にしてもらっちゃった」

「そう、なんだ……」

「怒ってる?」

「いや、というより、考えてる」


 全部説明するべきか否かを。


「きー姉は今回の事、どこまで知ってるの?」

「どこまでって……。親衛隊がまーくんに目を付け始めた事と、以前にも似たような紙をもらった事、くらいかな?」

「なるほど……」


 柚希さんに話した情報のほぼ全部といったところか。


「まぁ、手紙の方は犯人も見つかり、第三者立ち合いの元で話も付けたから、一応、解決したかな」

「第三者?」

「親衛隊の先輩。実は、親衛隊の事で相談に乗ってもらってたんだ」


 きー姉が引っ掛かりを持たないように、えて軽い口調でさらりと告げる。


「……女の子?」


 しかし、そうは問屋がおろさなかった。


「……」


 無言は肯定と同じと分かりながらも、どうしても言葉が口を付いて出なかった。


「……」

「……」


 きー姉が体をこちらに向けたのが、見ずとも雰囲気で分かった。というか、視線が痛い。


「相談してたんだ?」

「……」

「二人きりで?」

「……」

「可愛いのかしら、その子?」

「……」


 やばい。折角、関係を修復して付き合い出したというのに、ものの数十秒で逆戻りだ。いや、もしかしたら、さっきより悪化しているかもしれない。


「あの……」


 体をきー姉の方に向ける。

 その瞬間、キスされた。一瞬、触れただけの軽くて短いソフトなキス。


「……へ?」

「冗談。まーくんが私以外の人と、そういう関係になるわけないもんね。ね?」

「……はい」


 信頼というよりは、念押しだな、これは。


「ところで、この後、どうしようか?」

「この後?」


 意味が違う事は分かりつつも、場所が場所なだけに思わずドキッとしてしまう。


「だって、この後、どうしても私の両親と、二人共顔合わせる事になるわけじゃない? 先に言っておくけど、私は隠せる自信ないから。頑張っても、表情にも態度にも出ちゃうと思う」

「うん。俺もそう思う」


 昔からきー姉は嘘や隠し事が下手だった。だからこそ、学校での完璧なポーカーフェイス具合には本気で驚かされた。本人いわく、学校や親しくない人の前では勝手にスイッチが入る、らしい。


「あー。いっそ、全部話すか」

「付き合ってるって?」

「それも含めて全部。これからの事とかさ」

「これから……」


 俺の言葉を復唱した、きー姉の顔が一瞬で赤くなった。


「それとも、そこまで考えてなかった?」

「え? 正直、考えてなかったかも。そっか。そうだよね。私達、付き合うんだもんね」

「乗り気じゃなければ、その辺ははぶくけど?」

「いや。うん。その、お願いします」

「うん……」


 何だか、お願いしますがプロポーズの答えのように聞こえて、俺の顔も赤くなる。


「……」

「……」


 再びの沈黙。だけど、先程の沈黙とは違い、今度のそれは気恥ずかしさとくすぐったさの入り混じった心地のいい沈黙だった。

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