旅の終わりに

反射的に振り向くとそこには、グレーのシンプルなブラとショーツだけの姿で、お姉さんが。四肢は日に焼けたせいか赤いのに、隠れていたところの色はわたしよりも薄く白い。


「は、恥ずかしい格好で来ないでください。服を着て」


 思わぬことで声が裏返ってしまう。


「えー。だってもう汗だくだったしさー、着替え着替え」


 ひょこひょこわたしの近くを通り、しゃがんでスーツケースをあさり始めるので、思わず目を閉じる。


「ヒダカちゃん、ゼロワンさんに恥ずかしいことしないの」

「えー。でもさー」


 たしなめられ、もごもごと口ごもるお姉さんの声と、衣擦れの音。


「ごめんごめん。目ぇ開けていいよ」

「本当に大丈夫ですか」

「大丈夫」


 ニルさんにも言われたので目を開けると、そこにはジーンズによく着ている何着目かの変なTシャツを着たお姉さんが。


「突然驚かせないでください」


 ほっぺを膨らませてやる。


「ごめんよー」

「まあまあ。ゼロワンさんもお風呂入ってきなよ」


 そう言われたので、わたしもほっぺを戻し、着替えを持ってお風呂へ。汗で濡れた服を一気に脱ぐのは爽快だ。そして、ぬるま湯のシャワーが日に焼けた肌に当たると痛い。湯船に浸かるのもなかなか刺激的だったが、体を洗うとすっきりした。

 ちゃんと着替えを持ってきているので、Tシャツにジーンズを穿いて玄関先へ戻る。


「おかえりー。あ、そのシャツ」


 気づいてくれたみたいだ。


「お姉さんが選んでくれたやつです」


 タイミングを逃していた。お姉さんがずっとわたしの選んだジャンスカを着てくれていたのだし、もっと早く着てればよかった。

 お姉さんの横に座り、グラスに注がれていた麦茶をもらう。


「私も浴びてこよ」


 ニルさんもお風呂場へ行ったので、玄関先の空間に残されたのはわたしとお姉さんだけになる。


「さっきはごめんよー。ちょっとサービスしようと思ったのさ」

「どんなサービスですか。それに、そういうのはもうちょっとムードがある時にやってください」


 わたしとふたりの時にとか。とは言えない。


「難しいなー。あ、でも、そもそもさー」

「なんですか」

「裸。ってーか、下着姿見て嬉しい?」


 また、唐突に何を言い出すんだ。この人は。体が熱くなる。


「う、嬉しいというか、その」


 朝の時と同じようにドキドキする。でも、ここはちゃんと言わないと。


「ドキドキ、します」

「そっかー」


 妙に声がなまめかしく聞こえる。唇の動きが、ゆっくりで。


「うん、わかった」


 何がわかったんだろう。


「君がドキドキするなら、あたしの裸は君専用だ」


 鼓動がさらに速くなる。顔も熱い。最近は慣れてきたし、キスの件ではわたしの方が勢いに乗っていたと思っていたが、この人はもともと距離感の詰め方とか、そういう言葉の使い方が不器用な方だった。

 だから、こういう意図していないだろう打ち込みの一撃にやられてしまう。

 息を吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吐いて、言葉を紡ぐ。


「お姉さん」

「はい」


 神妙な声。どうも、お姉さんはわたしが何か大事なことを言うタイミングを学習してくれているみたいだ。


「そういうの、本気ですよね。本気に取っちゃっていいんですよね」


 自分でも驚くほど声が乱れている。漫画だと目が血走ってそうだ。しかし、言いたいことは言った。


「う、うーん。まずいこと言った?」


 お姉さんは少し混乱している様子だ。無理も無い。


「わたし専用って。それってつまり、わたしには見せるってことですよ」

「うん」


 それって、つまり。その後に何が待っているかというと。ちょっと頭がついていかない。

 そんなわたしの気も知らないで、お姉さんは床に手をつき、すすすとこちらへにじり寄ってくる。


「君が言ってくれれば、脱ぐぜー」


 耳元で言われる。もうだめだ。

 今回はお姉さんにやられてしまった。頭の中が真っ白になり、上体がふらつく。そして、そこをお姉さんに支えられる。


「どったの?」

「刺激が強すぎます」


 かろうじてそれだけを言う。思考への刺激だけではない。今この状態でお姉さんの手が体に触れているのも強すぎる刺激で、全身が熱くなる。


「なんか、また、ちょっとまずかった?」

「ちょっと。というか、かなり。です」


 お姉さんに支えられながら、かろうじて言葉を出す。


「裸見られても構わないとか。わたしが言えば脱ぐとか」

「えー、だって恋人同士じゃーん。そーゆーこともあるだろうしー」

「そうですけど。わざわざ今日、こんなところで言いますか」


 ニルさんもいたのに。今も近くにいるのに。


「そっかー。ごめんね」


 少し時間をかけてわたしの言葉を咀嚼したのか、肩を支える手をそのまま肩の裏側にやってぽんぽんと撫でる。そうされると、爆発した気持ちも落ち着いてくる。


「気にしましょうね」

「はい」


 神妙な声がした。

 でも、さっきのような突然の一撃が心地よいのも確かなので、わたしも大概だ。

 体を起こし、お姉さんの側から少し距離を取る。ドライヤーの音がし始めたので、いつニルさんが戻ってきてもおかしくないからだ。

 麦茶をおかわりして、落ち着きを取り戻そうとする。

 お姉さんの方をちらりと見ると、お姉さんもこっちを窺っていた。


「秘密ですよ」

「わかってるよー」


 口裏を合わせ、ニルさんが戻るのを待つ。


「ただいま。あれ、二階行ってなかったの? 涼しいのに」

「あー、うん。疲れてへたり込んじゃってた」

「こっちでも会場よりは涼しいです。扇風機もあるし」

「麻痺しちゃうよねえ」


 ニルさんは笑いながら麦茶を飲み、お菓子を食べる。その横顔に、少し罪悪感、後ろめたさを覚えてしまう。


 何が悪いといえば、こんなところであんなやりとりをするのが悪いといえば悪いのだけれど、お姉さんはどこで何をやり出すかわからない。

 困った恋人だ。


「あー。寝そうだけど帰りの荷造りしないと。君もだいじょぶ?」


 三人ともしばし無言でいたが、お姉さんが立ち上がって同人誌の袋をスーツケースにしまう。わたしは二階へ上がり、ふたりが持ち込んでいた物を持ってくる。


「お姉さんの分も一応持ってきました。まだあるかもしれませんけど」

「ありがと」


 荷造りはあっさりと終わった。後は帰るだけだ。そろそろ陽も沈みかけているし、出発にはいい時間。

 スーツケースを転がしながら、保土ケ谷の町を歩き、駅に着く。


「名残惜しいなー」

「あっという間でしたね」


 後ろ髪引かれる思いのわたしたちに、見送りに来てくれたニルさんが笑いかけた。


「また来なよ。ゼロワンさんも一緒に」

「ええ」

「んじゃまたー」


 明日また。というくらいの軽さで別れる。ネットもあるし、多分これくらいがいい。

 あとは電車に揺られ、乗り換えも挟んで新宿へ。

 広大な新宿駅ではバス乗り場まで歩きながら、おみやげを買う。差し入れでもらってタイムリーな東京ばな奈にした。


 そして、わずかな残り時間を潰すため、乗り場近くのハンバーガーショップに入る。

 考えてみれば、わたしとお姉さんはふたりきりになったら地元でも東京でも行動が変わっていない。初めて会った日も地元のハンバーガーショップ。東京初日も恵比寿駅前のハンバーガーショップだったし、最終日の今もだ。

 腹ごしらえなので、ふたりとも久しぶりにセットを頼む。ある程度食べ、残すはポテトとコーラだけになった時、ふとお姉さんが言う。


「旅行、楽しかった?」

「楽しかったですよ」

「よかった。あたしの趣味百パーだったのに」

「そういうの見るの、案外楽しいですよ」


 楽しんでいるお姉さんを見るのは楽しいし、そこから垣間見えるわたしの知らない世界も楽しい。


「ふふ、ありがと」


 お姉さんはいつもの何本も砂糖を入れたコーヒーを飲みながら、久しぶりの煙草を堪能している。

 そんな時間も過ぎ、乗り場へ向かおうかとなった時、まだカメラのフィルムが残っていることに気づいた。

 そして考えてみると、風景やニルさん、そしてお姉さんを撮ってはきたが、自分のことを撮ったのが少ないことに気づく。確か関帝廟でお姉さんと一緒に写ったきりだ。


「最後に写真撮りませんか」


 店を出る時、そう提案する。


「えー。魂抜かれるー」


 まだ言うのか、この人は。しかしそういう定番になったゴネには屈さない。


「すみません。シャッターお願いできますか。はい。残りの二枚で」


 近くを通りがかったお兄さんにお願いし、ふたりでファインダーに入る。

 一回、二回とフラッシュが焚かれる。お礼を言い、カメラをバッグへ。


「あーあ。撮られちゃった」

「いいお土産になります」


 東京最後の思い出を、写真と一緒に残す。あとはバスに乗って帰るだけだ。

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一九九五年のさまよえる少女と謎のお姉さん ぱらでぃん @nekohaus

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