家路

 キス、してしまった。

 観覧車を降りてからも唇や舌が触れ合った時のやわらかな感触と、ほのかな煙草の苦味がわたしの口の中と心を支配している。

 観覧車から続く通路の出口では、わたしとお姉さんを観覧車に乗るよう焚きつけたパソコン通信での知り合い、ニルさんが手を上げてこっちこっちとアピールしている。

 そんな彼女のもとにわたしたちふたりはぎこちなく歩いて戻る。

 いや、そんなに動揺してるのはわたしだけかもと思って横をうかがうと、お姉さんもあさっての方向を見ながら出口へ進んでいるあたり、わたしと同じように見える。


「おかえり」

「ただいまー」

「戻りました」


 気まずいのでお姉さんの方を意識しないようにつとめてニルさんに返事をする。


「あ、うん。行こうか」


 ニルさんも若干ぎこちなく返し、わたしたちはちょっと話しづらい雰囲気のまま歩き始めた。

 残照がある間に遊園地を抜けると、大通りはすぐにビル街へ変貌する。

 オフィスが多いのか人通りも少ない道を無言で歩いていると、お姉さんと最初に会った日のことを思い出す。

 ふたりでぎこちなく、こんなに大きくもないオフィス街を歩いた五月のあの日から三ヶ月くらいしか経っていないのに、わたしはお姉さんとキスをするまで親しくなり、東京まで一緒に旅行するようになった。


「よかったです」

「ん?」


 前を歩いているニルさんがこっちを向いた。


「よかったです、観覧車。連れて来てくれてありがとうございます」


 そう言うと、彼女の顔もほころぶ。


「そうかそうか。よかった。ヒダカちゃんは?」

「あー、うん。綺麗だったよ。夕日とか」


 煮え切らない。距離感がおかしいくらい突っ込んでくるのに、自分が当事者になってしまうと弱い人。


 でも、そういうところも含めて好きになってしまった。


「綺麗でしたよね」


 そう言って、お姉さんの手を握る。


「わ」


 驚かれてしまった。いつもわたしより少しひんやりしている手が、今日は温かい。


「突然なんだよー」

「手を握っただけですよ」

「仲がいいねえ」


 そんな風に三人でわいわい言いながら高速道路のガード下をくぐる。連れ立ってはいるけど人気の少なさはちょっと不安だった。橋を渡ると駅が見える。

 賑やかな明かりと雑踏にほっとする。


「買い物ある?」


 ニルさんが訊ねる。駅前にはデパートもあるし、駅の中にも店は多そう。


「明日の昼ご飯くらいじゃない? カロリーメイトみたいなやつ」

「それくらいなら地元でも買えるけど、ゼロワンちゃんは?」

「特には。あ、お土産買わないと」


 すっかり忘れていた。とはいっても、東京名物というのはよくわからない。


「真面目だなー。明日の帰りがけでもいいんじゃない?」


 お姉さんが茶々を入れてくるが、時間があるならそれでもいい。


「明日何時でしたっけ」

「夜九時だったかな。んだから、コミケ終わったら一旦ニルっちの家に戻って、お風呂貸してもらって、それから出ても新宿でちょっと時間あるはず」


 ニルさんもうんうんと頷いているので、ある程度話はしていたようだ。


「汗かいちゃうし、お風呂貸してもらえるなら助かります」


 ぺこりと頭を下げる。


「気にしなくていいよ。さて、じゃあ特に寄り道はなしで帰ろっか」


 ニルさんがそう言って歩き始めたので、わたしたちは後ろをついて行く。

 はぐれても自力でニルさんの家まで行けばいいとはいえ、人は多いしニルさんは小柄なので少し不安になる。

 だけど、ところどころで後ろを見てくれたので無事電車に乗れた。


 そして保土ケ谷に着いたら、近くにあるスーパーで明日の買い出しである。

 朝から夕方近くまでコミケ会場に居続けることになるので、カロリーメイトや飴、飲み物の缶を買い物カゴにどんどん入れていく。


「スペースに置いとくから、飲み物はぬるくても大丈夫なやつ買いなよ」


 ニルさんからそう言われたので、飲み物は風邪の時に室温で飲むこともあるポカリスエットやアクエリアスを入れ、お茶もいくつか。

 ついでに今日の夜につまむお菓子も買い、買い出しは終了した。


「いやー、よく買ったねー」

「ちょっと買いすぎちゃいましたか」


 買った物を三人で分担して家路につく。


「ま、残ったらうちで適当に食べるから。それにしても、人がいると賑やかでひと味違ったコミケだわ」


 しみじみとニルさんが言う。

 だけど、コミケに出るのはサークル活動してる人だった気もする。


「ニルさんはサークル活動してないんですか」

「うん。前は他の人と一緒に作ったりしてたけど、ここ何年かは個人サークル。ああ、ひとりでサークルやってるってことね」


 そういうのもあるのか。


「大変そーねー」

「他の人の作業待ちとか落としたとかないから、私はこっちのが気が楽。自分がやらないとなにひとつ進まないのが難点だけど」


 そう言われたので、わたしたちは笑う。


「ニルちは字も絵もいけるからなー」


 パソコン通信でニルさんは小説の他にイラストも公開していて、お姉さんからこういうの作ってる人の家に泊まると紹介されていた。


「見せてもらってました」

「ありがと」

「やわらかい絵柄でかわいいです」

「パレット作り上手いよねー」


 この前お姉さんから教えられたところによると、パソコンのイラストでは一六色までしか使えないので、全体の雰囲気がまとまるように色を指定したり、さりげなく使い回したりするのが腕の見せ所らしい。


「色数多いのにも慣れたいけど、一六色が染みついちゃってて」

「便利になっても適応がねー」


 お姉さんが苦笑する。


「そうねえ」


 ニルさんも思案深げにうなる。そんなやり取りをしていると、ニルさんの家が見えてきた。

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