Chapter5「必要だというならば、私は何もかも捨て去りましょう」

 姫川茉莉と再会して一か月が経ったある豪雨の夜。


「今日も連絡はなし、か」


 自室のベッドに蹲り、携帯電話の画面をぼうっと眺めていた僕は、やがて諦めてその画面を閉ざした。


 あの一件から既に一週間が経つが、一向に茉莉からの連絡がない。それ以前は一日も空いたことがないにもかかわらずだ。

 少し突き放し過ぎてしまったことを反省し、学園でも謝罪の機会を窺っていたのだが、今に至るまで茉莉と接触することはかなわないままだった。

 もちろん意図的に避けられているのは分かるが、今日にいたっては学園にすら来なかったのだ。


 流石に心配にもなるが、無論それだけではない。


 故意に傷つけてしまったことによる罪悪感。そして――。


「なんだかんだ茉莉と過ごす日々は楽しかったのかな」


 言葉にしてみれば妙にしっくりとくる。


「ああ、楽しかった。本当ならあのまま続けていたいほどだった」


 しかし、それは無理なことだった。僕にはあの人からたまわった任があり、茉莉は将来はあの桂の御曹司おんぞうしと婚姻を結ぶ身であるから。


 そういえば、その婚姻が正式なものになるのは丁度今頃の季節だったか。


「自分から突き放しておきながら口惜しさを感じるなんて。馬鹿なのか、僕は。だったら最初からこんなこと」


 馬鹿で愚昧ぐまい下衆げすである。身勝手な振る舞いも、それを棚に上げて今こうして女々めめしく彼女からの連絡を期待しているのも。


 不条理とすらいえる。


「はあ。いい加減よそう。決めたことだ。とりあえずテキストでも構わないから」


 強引に思考を放って、再度携帯の画面を表示させる。そうして僕は未だ慣れない手つきで彼女の連絡先を確認して。


「なんだ、これ?」


 姫川茉莉と表示されたトーク画面。僕と彼女との専用の場所。そこを開いた瞬間にあるデータが彼女から送信されてきたのだ。

 一週間待ちわびた連絡。急いで確認したのだが、目の前に表れたあまりの光景に声が震えるのを抑えられなかった。


 文は一切なく、写真が一枚添付されていた。

 写真には見覚えがある。僕の家のすぐ近くの川の写真で、身体が映りこんでいることから茉莉自身が撮影したものだろう。映る角度からして河岸から撮られたものであろうが、肝心の川の映りは悪い。


 画質の問題だけではない。それが夜に撮られていることと、写真からでも分かるほど鮮烈な白い雨脚あまあしが原因だった。


「まさか」


 雨、夜。奇妙な符合を感じた僕は、駆られるように部屋に備え付けられた窓の方を見やる。先刻よりも強まった勢いで雨がガラスを叩いていた。


 この写真が撮影されたのはいつか。それを考え出した途端、僕は全身が凍り付くような感覚を覚えた。


「っ、ふざけるなよ……!」


 自身の脳が最悪なエンディングを書き上げるより前に、僕は家の扉を殴るように開け、降り頻る豪雨の夜に飛び出していた。







「……あなたの部屋にはまともに着るものもありませんの?」


「うるさいな。制服で十分だし、風呂を借りた分際で文句を言わないでくれないか」


「ふふ、そうでしたね」


 僕の貸したワイシャツ一枚だけをその身に着けているから、何となく茉莉の方を見ることができなかった。

 誤魔化すように僕は一つ咳払いし、茉莉に向き直る。


「それより約束だ。話してもらうからな。姫川の令嬢である君が、なんでこんな日の夜に外に出ていたのかを」


「怒っておられるようですね」


「ああ怒ってるね。君のしたことは正気の沙汰じゃない」


「しかし私も、あのとき同じ気持ちでした」


「……」


 一たびぶつかった目線をそこで再び切る。茉莉の肌色のためではなく、今度は内にくすぶる罪悪感のため。


「すみません、少々意地悪でした」


「謝るのは僕の方だ。あの時は心にもないことを言って君を傷つけてしまった」


「心にないとは、どのような?」


「だから、その。僕が君に言った言葉についてだ」


「はて、それはなんて言葉でしょうか?」


「っ、だから! 僕が君を貰うと言ったときのことだ! あれも含めて、僕が君と過ごしたのは、全て僕が心から望んでしたことに他ならない!」


 勢いよく叩きつけるように叫ぶ。長年閉じていた栓が開けるようだった。


「あの人に君と離れるように言われたときも嫌だった。君と会えない五年間はいつものように君のことを夢見ていたし、君が他の人と婚姻を結ぶなんて考えたくもなかった!」


「あ、あの、旦那様?」


「君に会えて嬉しかった。けど同時に辛くもあった。僕を育ててくれた恩のある姫川に、反抗したくなかった……」


 気付けば僕はその場に崩れるかのように座り込んでいた。解放感と自責の念が胸中に渦巻いていたが、すぐにそれは溶け消えた。


「ありがとうございます、旦那様。ようやく本心を述べてくださって……私ずっと待っていました。旦那様が心を開いてくれるこの時を」


 全身を温かな感触で包まれる。僕は正面から茉莉に抱きしめられていた。体格差を考慮すれば、しがみつくと形容したほうが適切かもしれないが。ともあれその抱擁ほうようは、僕の長年抱えた想いを受け止めるには十分過ぎるものだった。


「私も辛かったですわ。旦那様と離れるなんて考えもしませんでしたから。その後も、あなたがあの人の望みどおりに生きていることを知って悲しく思いました。私自身も望まぬ結婚を強いられていた身ですが、それより旦那様の様子がずっと気がかりでしたの。私は旦那様が幸せならそれでよかったのです。仮に旦那様が今の生活に満足をしておられるのならば、私の婿になってくださらなくても結構だと。甘んじて初恋に別れを告げようと、そう心に決めておりました。」


「それが、君が転入してきた真意か……本心を隠していたのはお互い様だな」


「ええ、申し訳ございません。ですがその甲斐もあって、旦那様と再会してすぐ気付きました。ああ、この人はやはり私を好いていてくださると、あの人のせいで無理をしていると。一度そう思うと止まりませんでした。私なら旦那様の痛みを癒せるのに。私こそが旦那様の想いに応えられるのに。私が愛されたいと思うのはやはり旦那様だけですのに。そんな恋情に駆られて旦那様の都合も弁えず、今までずっと好き勝手に振る舞ってしまいました」


 茉莉はそっと僕の身体から離れると、僕に並んでベッドの縁に座った。


「そのように恋慕に狂っていたので、あの時の旦那様の言葉に過剰に心を乱してしまい、その上婚姻の件で父様と揉めた挙句、いつかのようにまた屋敷を飛び出してしまいました」


「え……」


 さらりと、葉が風に舞うように聞き捨てならないことを告げる茉莉。


「ふふふ、今の旦那様からすれば朗報でしょうか? 実は旦那様と離れていたこの一週間で父様に今までの事が全て知られてしまったのです。あなたと共に過ごしていた事も含めて」


「むしろよく今まで気付かれなかったとすら思うけど。一体何があったんだ」


「桂さんとの婚姻の話がきっかけです。今日の晩、久方ぶりに父様に呼ばれ、そろそろ公式に発表する旨を伝えられましたわ」


「それで反対したと?」


「ええ。いい加減我慢の限界でしたから。意に添わぬ結婚も、一言私に言いつければそれで全て上手くいくと勘違いしている父様の傲慢さにも。反対する私に父様は激昂しました。旦那様を軽んじるような暴言もありました。私はそれが悔しくて、堪らなく悔しくて……」


 茉莉の両眼にしずくが溢れ、ついに頬を伝う。彼女はそれを拭うことすらせずに続けた。


「同時に、私たちが離れ離れになったあの時、旦那様も別れを惜しんでいたことを父様の口から仄めかされ、もはや私の居場所は一つしかないのだと確信しました。父様との不毛な会話を冷たく打ち切り、屋敷を抜け出し、旦那様に迎えに来てくれるように手を打っていました」


「できればもう少し穏やかにしてほしかったけどね」


「それは……やはりできませんわ。意固地な旦那様への意趣返しという意味もありますが。何より――」


「何より?」


 それまでの茉莉の声から、一段と低くなったそれに、僕は思わず鸚鵡返ししてしまう。




「こうして旦那様の家に上がりこむ事が出来たわけですから」


 瞬間、僕の身体は茉莉の華奢な腕に押し倒され、背中に硬い感触が広がる。


「……男をベッドに組み敷いて、どうするつもりなんだ」


「あら、意外と冷静ですわね。それとも思考が追いついていないのかしら。しかし、これ以上私には抑えることはできません。旦那様、私と共に堕ちてください。やっと全てを捨て去る覚悟ができたのです。家も、名誉も。旦那様の未来と愛の前に、全て捧げます。ですから」


「本当に分かっているのか。僕は姫川の庇護ひごがなければ、正しく天涯孤独の身であって、何の財産もない、自分の両足で立つことすらかなわない無力な男なんだぞ」


「いいえ。それでも私にとっては何より大切なのです。顔と名前しか存じ上げない御方よりも、私を真に愛してくれる旦那様でなければいけません。女児が多い姫川の屋敷での数少ない男子であり、幼き頃より私の傍にいてくれた旦那様」


 恍惚こうこつの表情を浮かべる茉莉から僕も目が離せない。


「退屈だった食事時も、馴染みのない豪勢な食事に隣で静かに眼を輝かせていたあなたの姿があれば、一転して楽しい時間となりました」


 茉莉がより自重を預ける。


「それまで使用人の方に接待を受けながら遊んでいた札遊びにも、あなたとなら対等に、心のままに興じることができました」


 茉莉の麦色の髪が僕の顔にかかる。


「そんなあなたが小学校に通い始めて新しいご学友を得たとき、私はとても寂しかった。それでも旦那様はいつだって不自由な私を気遣ってくださった」


 茉莉の熱を帯びた吐息が僕の理性をむしばむ。


「茉莉、僕は」


 その熱が伝播でんぱし、浮かされた思考で僕は言葉を紡ぐ。


「それでも君の期待に答えることはできない」


「っ、嫌です! 認めません!」


 僕の言葉はかえって茉莉の激情を煽り、彼女の動きが早まるが――。


「今はまだ、だ」


「え……」


 彼女があやまつ前に、ぴしゃりと言ってのけた。そうしてとびきり目を丸くする彼女へ僕の心からの言葉を送る。


「僕も君と同じ気持ちだ。君が他の誰かの所へ行ってしまうなんて嫌だ。だから真っ当に君を貰うために、僕なりのけじめをつけさせてほしいんだ」


「けじめ、ですの?」


「うん。君の父君、姫川征十郎せいじゅうろうと話をつける」


「旦那様、それって」


「別に僕たちは何も間違っていない。それを証明したい。正々堂々君を愛して、周りからも認められたい。だから、その時には茉莉にも傍にいてほしいんだけど、どうだ?」


 関係を結ぶのはやぶさかではない。ただ順序というものがあるだろうと、僕は努めて冷静に主張するが、僕を見下ろす茉莉の顔はみるみるうちに赤くなった。


「……は、はい。そ、それは、もう。喜んで」


 それから己のした行為が急に恥ずかしくなったのか、勢いよく体勢を解くと僕の横に身体を滑らせる。


「茉莉、寝るのか」


「うぅ、私の馬鹿私の馬鹿私の馬鹿……」


「ま、茉莉!?」


 身代わりの速さに驚くがそれほど切羽詰まっていたのも事実なのだろう。動転する彼女を落ち着けるように、僕は久方ぶりの笑みをつくった。


「心配するな。僕はもう決めたからさ」


「はい。ありがとうございます旦那様。あの、それではお休みなさいませ」


「ああ。愛してるよ」


「……! もう、私も愛しています!」


 今まで苦労をかけた分を労わる意味もあったのだが、少し直接的すぎたようだ。照れる茉莉に苦笑を浮かべ、僕はこれからの事に思いをせながらそっと目をつぶった。

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