Chapter4「そのように悲しいことを仰らないで、旦那様のお顔を見られませんわ」

 それからも茉莉の猛攻は変わらず、あの日以降も平日休日を関係なしに、僕は彼女に幾度となく彼女の遊びに連れ出されることになった。


 例えばそれは、ある街の有名な水族館のイルカショーへ。


「あはははっ! 旦那様、水がかかってらっしゃいますわ! 御髪みぐしがぺしゃんと潰れてしまって……可愛らしいですわねぇ」


「元気に跳ねるのは迫力あっていいが、服まで濡れてしまって気持ち悪いな」


「まあ、それはお気の毒ですが……ここで脱いではいけませんよ。そういうことは二人きりになってから、ですっ」


「もちろん最後まで着たままでいるけど」


 例えばそれは、遊び心を刺激する遊園地へ。


「なんて場所なのかしら! まるで小人になっておもちゃ箱の中へ迷い込んだみたいですわ!」


「はは、中々珍しい表現だな」


「だって本当ですもの! 空中を駆ける車も、ぐるぐると回るお馬さんも、ゆったり円を描く釣籠つりかごも。どれでも大掛かりで、遊びのために造られたとは思えません。どうします旦那様? いっそ制覇を目指してみるのは」


「明日も学校だぞ」


 例えばそれは、人が賑わうゲームセンターへ。


「むむ……私の格闘家さん、全然必殺技とやらが出ませんわ」


「僕もだよ。何の変哲もない打撃を繰り出すばかりだ」


 どちらも初心者だったので、格闘ゲームは敷居が高かったが。


「よし、当たりましたわ! 紛い物の銃を使うなんて初めてでしたが、慣れると結構爽快ですね。異形の怪物と戦うという設定も胸が躍りますわね」


「本物の銃に触れる人の方が珍しいと思うな」


 続きのシューティングゲームでは射撃経験のある茉莉も張り切っていた。


 そうしてほぼ毎日といっていい程の頻度で遊び呆けた僕らを待ち受けていたのは、学生なら誰しもが疎ましく思うであった。



「ふえぇー……何ですの、この範囲の広さは! たかだか中間考査で出していいものとは思えません!」


「だから最初に言ったじゃないか。何でここに転入してきたのかって」


「むー、旦那様が意地悪ですわ。私はあれほど情熱的に思いの丈を曝したというのに」


「むしろ親切だろう。君にの遊びに付き合った挙句、勉強も見てあげてるなんて」


「旦那様のご自宅にお招きしていただけるとなれば、付いていかない道理などございませんわ」


「招いたんじゃなくて、君が勝手に上がりこんできたの」


 嘆息し、手元にあった教科書に視線を戻す。相変わらず無味な記述が羅列られつされているのみだが、茉莉がいる手前僕が怠ける訳にもいかない。

 茉莉の方も僕が集中する素振りを見せるとすぐさまそれに倣った。このように文句は垂れているが、茉莉の学力は黒原基準で見ても高い方であった。きっと良い家庭教師に恵まれたのだろうなと思う。




 しばらく紙をめくる音とペンがノートを走る音だけが僕の部屋を支配していたのだが、不意に隣に座る茉莉から声が漏れる。何かに気付いたような間の抜けた声だった。


「旦那様の筆跡、本当に見事ですわね」


「なんだ急に。こんなものただ繰り返していれば身につくよ」


「なるほど。確かにそうですね。屋敷にいた折も旦那様はいつも熱心に勉強していらしたもの」


 また昔の話かと、僕は露骨に嫌な顔をして見せる。しかし茉莉はそれに眉一つ動かすことなく続けた。


「ですが、今はその熱意が少々行き過ぎているように感じます」


「そんなことはないと思うけど」


「そう、やはり飽くまでもその態度を続けるのですね。この部屋を見てはそうは思えません。キッチンに使用した形跡は一切なく、空き容器が詰め込まれたビニール袋は無造作に放られており、本棚には学術書だけが綺麗に並んでいる。今まで敢えて無視していましたけどもうこの際に聞いてしまいましょう。旦那様、そこまでして勉学に傾倒する意味は何ですの? それほどまでに楽しいものなのかしら」


 一転して茉莉は少し怒ったような口調で僕を責める。彼女にしては珍しいその態度に、動かしていた手を止めて考える。


「まさか。楽しいとは思わないよ。そんなに嫌だとも思ってないけど」


「ならどうしてそこまで……」


「決まっているさ。官僚になる為だ。勉学とは決められた手順を踏むための道具。そして僕という存在もまた、あの人の目的を叶えるための手段に過ぎない。それ以外は必要じゃないんだ」


 これ以上自分の内情に踏み込まれるのはうんざりだった。だから僕は敢えて冷たく語ってやることにした。そうすれば茉莉も分かってくれるだろうと勝手ながら思った。


「なぜそんな酷いことを。やはり父様の仕業ですか? あの人があなたに何か心無いことを? 旦那様の連絡先にあの人の名前だけしか入っていないのでまさかとは思いましたけど」


「いつそれを――って、ああ。連絡先を交わした時か。確かにあの人からは今も定期的に連絡があるよ。この部屋の家賃も食事も学費も、安定した未来も。すべてを用意して道を示してくれる。だからその対価を行動で示せ、ってね」


「忌々しいです。あの人の声が耳に聞こえてくるようですわ。しかし何より忌々しいのは、あなたが賛意を示していることです」


 もはや建前を取り繕うこともせず、茉莉の視線は僕を刺すように鋭い。


「そもそも僕に選択権なんてないんだ。親に先立たれた僕を親戚のよしみであの人が引き取ってくれた。それだけでも莫大な恩だ。多少やり方に不満はあれど、仇なすことはできないよ」


「ならば私の政略結婚が決まった際、何も言わずに従ったのもそのせいですか?」


僕と君が結ばれるより、その方が僕らのためだとあの人に」


「また父様!」


 茉莉が机を叩く音が響く。その衝撃で机の上のペンが転がって落ちてしまう。


「では私の事をもらってくれると言ってくださったあの言葉は、あなたの心からのものですか? 私と過ごしたあの日々は、あなたも望んでいたことでしょうか?」


 この質問には思わず僕も一瞬口をつぐんだ。


 しかし、もうここが潮時であるのかもしれない。


 もう十分約束は果たした。それに僕も演じるのに疲れてしまった。これ以上は何も生まないだろう。ただ僕らが分かたれた先の未来に暗い影を落とすだけ。


 ならば。僕は声が震えないように注意を払って言った。


「それはあの人が、茉莉の遊び相手になってやってくれと、僕に頼んできたからだよ」


「……そう、ですか」


 底冷えするような声だった。それから茉莉は僕と目を合わせることもなくきびすを返した。


「勉強を見てくれて感謝いたします。どうやら私は少し思い違いをしていたようですわ。私とあなたは同じく被害者だと、同じ気持ちを抱えていると、そう信じていたのですけれど。あの人の傀儡かいらいになるのが本当の幸せだと言うのなら、どうぞご自由に。さようなら……


 久しく呼ばれていなかった名前を残し、茉莉は逃げるように部屋を出ていった。


「ごめん、茉莉。君を傷つけて」


 机に視線を向ければ、書きかけの自分のノートと彼女が置き忘れていった教材が目に映る。

 当然勉強を再開する気もなく、僕はそれを適当に纏めると部屋に設えられた無地のベッドに身を投げた。


「ごめん、茉莉。君に嘘をついて」


 どうせ折れる枝ならいっそ自分の手で綺麗に折ってしまえばいいと、そう思っていたのだが。


 微かな解放感と引き換えに、耐えがたい程の罪悪感を抱えることになってしまった。

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