Chapter3「覚えていますでしょうか、あの愛おしき過去を」

「なんて壮観そうかんなのでしょう。私が幼い子供であったとしたら、きっと今頃は大声を上げ、あちこち飛び跳ねて、歌を歌ってしまいそうなくらい喜んでいたかもしれません」


「……そうなのか。でも水を差すようで申し訳ないけど……こんな変哲へんてつもない商店街を見てそんな感想を抱くのは、きっと広い日本を探しても茉莉くらいだろうね」


 茉莉と再会してから翌日の放課後のこと。早速僕は彼女から街に遊びに出かけようと誘いを受けていた。


 昨日の今日でこんなことに興じているなんて、僕の身分を思えば本当は許されないのではなかろうか。

 そんな思いの表れか、つい呆れて口を滑らしてしまった僕に、茉莉は覗き込むように睨んでくる。


「水を差すなんてものじゃないですわ! まるで滝のような激流のようですわよ今のは! ああ、もしかして信用なされていないのかしら。でしたら今ここで証明して見せましょうか。喉が枯れんばかりに歓喜の声を上げ、地が揺れるほどに力強く飛び跳ね、聞く者の心を掴んで離さないとの定評がある美しい歌声を披露してさしあげましょうか!?」


「…………歌は機会があれば聞いてみたいかな。茉莉の声は綺麗だから、きっと歌も素晴らしいんだろう」


「まあ、まあ! 旦那様ったら、もう! 口が上手いんですから。分かりました、先の無礼は許しましょう」


「それでいいんだ」


 人は高揚すると些細なことを気にかけなくなるらしい。明らかに今のでは誤魔化しきれていないと思うのだが、それを蒸し返すことも野暮だろう。僕はそれ以上余計なことを言わず、束の間の喜びを享受しようと決めた。


「でも確かに、僕も商店街に馴染みはないかな。この辺りの都市部に近い場所は特に」


「それならば旦那様も楽しめそうですわね。わざわざ使用人に頼んでリムジンをだした甲斐がありました」


「あの人に目を付けられないようするためとはいえ、そこまでするものなのかな。急に黒服に車内に入れられたから、どこかに拉致らちされるのかと思ったよ」


「驚きに溢れて素敵だったでしょう?」


「サプライズと言うよりショックだったけどね、あれは。まあいいや、せっかく遠くに来たのだから楽しもうか」


「ええ、その通りですわね。では――」


「ん? どうしたんだその手は。急に握手でもしたくなったのかい」


「……そうとも言うのでしょうか、ね!」


「なんだ手を繋ぐだけか……って、そこまで指を絡ませる必要は――」


「ほら、楽しみたいのでしょう? まずはあのすぐ近くにある串カツなんていいじゃないですか」


 話を途中で切って茉莉はぐいぐいと僕の手を引っ張る。開いた片手で彼女が指す方を見れば、確かに揚げ物を扱う店舗があった。


 そこから漂う匂いが食欲を刺激し、即決で二人前を購入した。


「むむ、買ってみたはよいですが……そもそもどうしてカツが串で貫かれているのかしら」


「ここを持って食べるんだ。店に座らずとも片手で食べられる、この手軽さがポイントだ」


「なるほど。噂に聞く食べ歩きというものですか。初めて知った時は自分の歩行に合わせて、皿を乗せた機械仕掛けのテーブルが移動してくるような設計だと思っていたのですが……思いのほかシンプルでしたのね」


「想像したらシュールなことこの上ないな……っと、うん。味も旨いぞ、茉莉。揚げたてはやはり違うな、ソースの味もいい」


「……おや、私の方は味噌の味がするのですが。もしや違うものを注文なさったのですか?」


「ああ。そっちも美味しいか?」


「ええ、それは、はい。味は美味しいのですけど……これでは思っていたシチュエーションと違いますわね……」


 眉を寄せてぶつぶつと呟く茉莉。ひょっとして口に合わなかったのだろうかと心配になる。

 だが僕が尋ねようと口を開くよりも前に、茉莉の方は何やら思い付いた様子で声を上げた。


「いや、違くない……これはチャンスですわ! ああ、我ながらなんて機転が利くのかしら!」


「どういうことだ?」


「ほら、旦那様。お口をあーんとしてくださいな。私の味噌味も試してみては如何でしょう? お互い食べさせ合えば楽しさも倍ですわ!」


「はは、なるほどな。確かにその方が会話も弾んでいいな」


 いじらしい提案に心が擽られる。断る理由もないので言われた通りに口を開く。茉莉から僕へ。僕から茉莉へ。味だけでなくその食べさせ合う体験の楽しさからか、あっという間に完食してしまった。


「ご馳走様でした。ふふふ……旦那様、気づいておられますか?私たち、今ので何回も間接キスを交わしてしまいましたよ? 何回でしょう、もはや数え切れませんね」


「……いや、単に食べ物をシェアしただけだと思うけどな」


 何となくそちらの話題を避けたくて、僕は適当な言葉でお茶を濁す。しかし、そんな思惑を知ってか知らずか、茉莉はからからと笑って僕をからかうのをやめなかった。


「旦那様、お可愛いですわね……そう言えば、あの時も顔を真っ赤にして断ってらっしゃったような。今にして思うと、あれもかなり――」


「茉莉、その話は」


 思わず口を挟む。予感というのは悪いものほど当たる気がしてならない。


 だから僕はいつものように先んじて手を打つ。そしていつものように茉莉が引いて、ここでこの話はおしまい。

 だが今回に限っては、その「いつも」はやってこなかった。茉莉は僕の制止を受けてなお、止まる素振りを見せなかったのだ。


戯言ざれごとだと思って少しは許してくださいません? それに旦那様自身も仰っていたではないですか。私の言動には口を挟まないと」


「……」


 僕が黙っているのを肯定と受け取ったのか、茉莉は追憶に浸り始める。


「あの日は、そう。旦那様が姫川の屋敷に住むようになって丁度一年経った日の事ですわね。私がいつものように浴場に足を運んだ際、先に湯浴みをしていた旦那様と居合わせてしまって――」


「のこのことやって来たのは君の方なのに、僕に裸を見られたことで凄く怒っていたね。大きな悲鳴を上げて、手当たり次第に周りの物を投げ散らかして、終いには飛び出して行ってしまうし」


「……そういえば当時も旦那様はそういう風に平然としていましたわね。私としては少ししゃくなのですけど……まあ構いません。最後には、あの屋敷の近くの公園で、旦那様はしっかりと私を捕まえてくださいましたもの。夜の涼しい時分にも関わらずその額からは汗が噴き出ていて。お召し物は砂や擦過痕さっかこんで汚れ、本当に必死に捜してきてくれたのが、心から伝わってきて」


「ああ、あれは骨が折れたな……」


「はい。そればかりか『もうお嫁にいけない』と泣きわめく私に、旦那様が……『もし本当にそうなら、その時は僕が君をもらうよ』と、そっとお声をかけてくださって……きゃあ! 旦那様っ、素敵です!」


 慈しむような笑顔から一転。腰をくねらせ、手で顔を覆い、その指の隙間から僕を見やる茉莉に僕は苦笑する。


「それでそれで、夜の冷たさに凍える私の身体を抱きしめ、恥ずかしさすら忘れてしまうような情熱的な口づけを私の震える唇に――」


「うん、そこまではしてないな。僕たちは子供だったんだぞ? あの時は調子づいた君がふざけて僕にキスをせがんで、それに照れた僕が断ったんだ。そんなドラマチックな展開なんか起こるわけない」


「あら、しっかりと記憶されてるようで嬉しいです! けれど、一つだけ間違っていることがありますわね……」


「ん、そうかな」


 これに関しては本当に分からないので、曖昧な口調で聞き返すことしかできない。茉莉はそんな僕をくすりと笑い、挙句近づいてその肩に手を置き、耳元にその整ったかおを近づけ――


「私、心からあなたと口づけを交わしたいと、正真正銘あなたの旦那様になりたいと、思っていましたのよ?」


「……っ」


 心をくすぐる甘いささやきに、僕は茉莉の身体を手で退ける。そうしなければいけないと、僕の心の深くに刻まれた何かが告げていたのだ。


「茉莉、揶揄からかうのが好きなのは結構だけど。節度は守ったほうがいいと思うな。やり過ぎてしまうと君の未来に泥を塗ることになる」


「仮にそうだとして……もし私が勘当されるようなことがあったら、その時旦那様はどうされますか?」


「そんなことはあり得ないし、僕は僕の道を行くだけだよ。黒原で学び、官僚になるのが僕の夢だからね。それを前にして心を散らしてはいけない」


「ならば言葉は正しく使った方がよろしいですよ、旦那様。他人から命じられたことを、普通夢とは――」


 茉莉が言いかけたところで、商店街に夕方のチャイムが響き渡った。子供たちの帰りを促す、防災無線からメロディー。それは郷愁を誘う響きだったが、今の僕にとってはさながら勝利のファンファーレのように聞こえた。


「あらあら、まだ串カツしか堪能していませんのに」


「それは残念だね。過ぎたことを語るよりも折角の機会を楽しんだ方がよかっただろうに」


「うー、一理あります……とはいえ、まだ帰りたくありませんわー……ちらり。もう少し旦那様と一緒にいたいですわー……ちらり」


「全然懲りてないんだね。でもそろそろ帰らないと怪しまれるだろう? これからもまだ時間は幾らかある。だからその時にまた来よう」


「……! それはデートのお誘いですか?」


「違う。反抗期のお嬢様の遊びに付き合うだけだ」


 相変わらずおどける茉莉と並んで帰路につく。やたらとこちらを挑発する彼女の態度には疑問を覚えるが、今はただ懐かしくも楽しいこの関係に浸っていたいと思った。


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