Chapter2「また私と同じ時を歩んでください、たとえそれが儚くとも」 

「で、これはどういうことなんだ? どうして茉莉がここにいる」


「まあ……酷いですわ。せっかく会えた知己ちきにかける言葉でしょうか。わたくしが少し見ないうちにお口がわるうなりましたのね」


「なんだその喋り方は」


 ただでさえ事態が飲み込めないというのに、余計に混乱させないでほしい。放課後の閑静な教室、すっかり錆びてしまった気安い口調で、僕は彼女に訴えかける。


「質問に答えてくれ」


「まあまあ、まずは落ち着きましょう。せっかくの五年ぶりの再会、それもようやく二人きりになれたのですから……楽しまなければ。ほら、こうして席も隣同士になれたことですし。これでもう授業中であったとしても話し放題、イチャつき放題です! 焦る必要などないではありませんか」


「授業中はだめだろう。ここは仮にも進学校で――って、違くて。そうじゃない。そもそも何でその進学校にわざわざ転入してきたって話だ。君の立場からすれば今更学校で何かを学ぶ必要すらないのに。確かに再会できたことは嬉しい。けど、僕たちの関係だってもう――」


「うえーん、旦那様が冷たいですー。よよよー……」


 僕の話を遮って、茉莉はわざとらしい泣き真似を演じる。それに少しでも可愛いと感じてしまったのは、未練がましく思えて嫌だったが。


「でも、そうですよね。流石になんの説明もなしというのはいささか戸惑いますよねえ。いくらあなたが学園一の成績を修める、いとめでたき御方おかたであったとしても。すみません旦那様、私が間違っておりました」


「……僕の思いが通じたようで嬉しいよ」


「といっても、まあ……そう難しい話でもありませんのよ? ただ私は姫川家の淑女しゅくじょとして正しい道を歩まんとしているだけ。将来嫁ぐ身でこそありますが、やはり教養や常識というのはいついかなる時でも尊ばれるものですから。旦那様も嫌でしょう? 社交の場で自らの妻がやれ要領が悪いだの、やれ世情せじょううとい愚か者だのと、影でみにくそしられるのは」


「そうなのか。高貴な方々の世界の話というのはいつ聞いても理解に苦しむけど、君が通学するという話は分かったよ。でもごめん、僕が聞きたいのは悪いけどそうじゃないんだ。君がどうしようがもはや僕が口を出す権利もない……が、それでも聞こうと思う。茉莉、どうして君がここにいる? 他のどこでもない。僕がいる、この黒原学園に」


 敢えて厳しい口調で言えば、それまで楽しそうに会話に興じていた茉莉の顔が曇る。それを見て僕も胸が痛んだけれど、やはりこれは外せない事項なのだ。僕は攻勢を緩めずに続けた。


「学べるのなら、ここじゃなくともいいはずだ。君がさっき言った教養や常識――恐らくは義務教育課程から一歩進んだ程度の知識と、学び舎を共にする同世代の人間との交流。なるほど、どちらも大切なことだ。でも、言っちゃ悪いけどそんなものはどこにおいても十分に得られる」


「……いいえ旦那様。後者はともかく前者は、高い水準で得られるには場所も限られている。そして私には幸運にもそれを受ける機会があった……別に不思議ではないでしょう?」


「そうだな。でも限られているというだけで、この学園に準ずるレベルのものは一定数ある。ここを敢えて選ぶ理由にはならないよ。専門の人を雇うこともできるはずだ」


「いいえ、旦那様。いいえ……」


「隠さないで、本当のところを言ってほしい。君がそうなってしまうのも無理からぬことなのかもしれないけどさ」


「…………」


「ほら、別に怒らないよ。今更ね」


「…………ふうぅー、全く。私の負けですわ、旦那様。もうしばらくは明るい話をしていたかったのですけど、ここらが潮時しおどきでしょうか。はあ……手強くなりました、本当に。幼いころはあんなに可愛らしかったのですけど。時というのは残酷なものです」


 息を吐き、困ったような笑顔を浮かべる茉莉。だがその表情はすぐに硬いものへとなる。


「……まあ、本当に残酷なのは時間なぞではないのかもしれませんが。今は良いでしょう。それでですね? とにかく順を追って説明しますと、来月にはまとまりそうなのです、私の縁談が。纏まるといっても婚姻こんいんを結ぶことは昔から決まっていたようなものですけど」


「……そうか。おめでとうって言うべきなのかな。まあいいや、相手はあのベンチャーの?」


「ええ。その社長の桂さんのご子息と。父様が会長を務める姫川グループとの良い関係を望んで、とのことらしいですわ」


「それはいかにもあの人が考えそうなことだけど……とにかく、ここに来たのはその先方が関係していると。姫川家の令嬢と婚姻を結ぶ機会なのに、わざわざこんな面倒をかけさせるなんて……愚鈍だけどね」


「……? いいえ、ここに来た理由は違いますわ」


「うん……?」


 早く終わらせようと会話を進めたつもりだったのだが、的外れのようだ。何だか気まずくなって視線を逸らした僕に茉莉は口に手を置き笑う。


「確かに旦那様が仰るように桂さんのところと関係はしていますが、正解はきっとあなたがお思いになっていることと逆のことですよ」


「逆……というと」


「ここに来たのは、言わば逃げです。桂のご子息との婚姻は私にとっても本意ではないですから。退屈で興ざめな日々を前に、幾らか楽しい思い出を残しておきたい。そして……たとえ少しの間でもいい、私を苦しめる運命の魔の手から逃れてみたくなったのです」


「……そうか、茉莉。だけどね、そうしたくなる気持ちは分かるけど――」


「ええ、分かっていますわ旦那様。こんな少女の抵抗など、所詮は徒花あだばなだということくらいは。策を講じて欺きはしましたが、あなたがいるこの学園に私が通っていると知れば、きっと父様はこれをお許しになりませんから」


「それを分かっているなら――」


「分かっていてなお、あなたに……旦那様に、会いたく思ってしまいました。もう一度だけでも、旦那様と同じ日々を過ごしたいと願ってしまいました。色々と理屈をこねましたが、結局のところこれが私の本心ですわ」


 会いたいから来た。逃れたいから来た。至極単純な理由だが、僕たちの間柄においてはそんな簡単に割り切れるものでもない。


「……ごめんなさい、旦那様。また、あなたを悲しませてしまいましたか?」


「ははは……うん、それはまあ。悲しいかな。何でここに来てしまったんだという悔恨かいこんは、やはり拭えない」


 言ってて最低だなと、我ながら思う。こんな風に深くまで聞いといて。言いにくいからこそ茉莉もここまで口を閉ざしていたというのに。


 しかし、茉莉が不器用にも本心を見せてくれているのだから、僕も相応に返さなくてはいけないと思う。


 だから僕は、まるで雨に打たれる子犬のように縮こまる彼女の頭に手を置いて、労わるように告げた。


「……でも、実際は同時に嬉しくもある。結末は残念だったけど、君のことは全然嫌いだとは思えなかったから……仮初でも、また会えてよかった」


「……怒らないんですの?」


「怒らないってさっき言っただろう? それに、茉莉と再会してすぐに、何となくその思いも透けていたからね……だって未だに僕のことを旦那様と呼ぶんだから。僕はもう、君にとって何者でもないのにさ」


「……ですから、あなたは旦那様です。私がかつてそう認めたのは、あなた一人だけですのよ?」


 頬を膨らませる茉莉。それが夢の中の彼女と重なって、不思議と笑いが込み上げくる。


「それに本当にいいんですの? 私と日常を共にすると父様に知られたら、旦那様も何か言われるのでは? ただでさえ旦那様はそれに嫌気が指しているでしょうに、これ以上は避けたいはずですよね。最初、私に冷たかったのもそのためなのでしょうし」


「冷たく接していたのなら謝るよ。でも、心配はしなくていい。よく考えれば、今回の件は僕がとやかく言う道理はないって気付いたからね。僕は姫川茉莉の許嫁いいなずけではない。それに関わる権利もない。ならば僕は、君を止められない。止めたら約束に逆らってしまうからね。だから君も、好きなようにしてくれ」


「くすくす……まあ、何て詭弁きべんなのかしら! 進学校に通うとそんなことまで達者になりますの? ふふ……」


 ようやく茉莉の顔に笑みが戻る。ああ、やはり彼女には出来る限り笑っていてほしいものだ。


「あ、そうですわ! 問題ないのでしたら、まずは旦那様の連絡先をお尋ねしてもよろしいでしょうか? 同じ学校に通う者はこうして電話でもやり取りをして、時には遊びにいったりもするのでしょう!? 私、密かに憧れておりましたの。さあさあ、早く致しましょう!」


「分かったから、引っ張らないでほしいな……って、もう」


「さてさてっと……あら? これは」


「どうかしたか?」


「……い、いえ、何でもありませんわ。はしゃいでしまって申し訳ありません。もう終わりましたのでお返しします。ともあれ、これで今となっては放課後であっても遊び放題、イチャつき放題です! ふふふ、楽しみです」


「……そうだな。うん、せめて楽しもう」


 こうして僕と茉莉は数奇な再会を経て、いつまで続くかも分からぬ茶番劇に興じることになったのだった。


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