誓いのキスで繋いで、もう二度と別れぬように

鈴谷凌

Chapter1「お久しぶりですわね、旦那様」

「ねえ、それなら……あなたのこと、旦那様だんなさまって呼んでもいいかしら?」


 どこからか声が響く。辺りには何もない。現実ならばまずあり得ないことだろうが、僕は特段驚きもしなかった。


 何故ならこれは夢だから。もう何度も繰り返し見ているものだから。


「――ふふふ、ありがとう。旦那様は優しいわね」


 そう。僕が了承し、しっかりとした言葉遣いの彼女は、その鈴を転がしたかのような声で礼を言う。


 いつも通りだ。


「でも将来を誓った仲なのだから、もう少しそれっぽいこともしたいわ……うーん」


 少女は人差し指を唇に当て思案を巡らせているようだ。

 ようだ、というのは何故か少女の顔に影が落とされたかのように、その全貌を窺い知ることができないから。

 その声がまるでフィルターを一枚隔てているかのように遠くに聞こえるから。


 顔を突き合わせているのに、なぜかそう感じてしまう。

 いつも決まってこのシーンになると、夢の映像がその解像度を失う。そうして最後には泡沫のように全てが消えてしまうのだ。


 これも、いつも通りだ。


「あ、そうだ! いいこと――いついたわ! 誓いの――をしましょう? ねえ?」


 次第に言葉が虫に食われたように途切れる。だがこれは僕の夢。僕の経験から生み出された産物。

 当然のことながら、僕はこの言葉の意味を知っている。そしてこの先どうなるのかも。


「――え、ちょっと――! どうして――なのよ! わたくしの頼みが聞けないっていうの!?」


 それをするのが恥ずかしいと告げる僕に彼女は文句を垂れる。彼女は不満そうに頬を膨らましているようでもあって、どこか照れ隠しをしているようにも見えた。


 それは果たして分からない。これが夢というあやふやな事象だからか。それとも僕の心が鈍かったからだろうか。


 ただ、やはり僕は知っている。

 この約束は決して叶えられないことを。二人が言葉を交わしたのはこれがであることを。






「…………夢、相変わらずだったな」


 お決まりの夢を見た今朝の僕は、お決まりの朝食を済ませ、お決まりの制服に身を通し、お決まりの通学路を歩いていた。


 黒原くろはら学園。この地域一帯、いやこの国でも一二を争う進学校。そこに通い、良い成績を修める。それが当面の僕の目的であり、僕の生きる意味でもあった。


「やっぱりくだらないな」


 短く切り捨ててはみたものの、湧き出た不快感はどうしても拭えない。

 今日は夏休み明けの初めての登校日。これから二学期だという節目であるというのに、歩く僕の足取りは重かった。


 だがそれでも、そうかからないうちに黒原学園の本校舎が見えてくる。一年以上通い続けた慣れもあるのだろうか。それとも通学に無駄な時間を割かないよう、割と近めな部屋に住まわせてもらった恩恵のためだろうか。


 後者であるなら、その点にだけはに感謝したほうがいいのかもしれない。


「まあ、そんな簡単な話でもないんだけど」


 益体のない思考を捨てるように冷たく一人ごちる。

 

 僕は眼前に迫った正門をくぐり、教員と感情の籠っていない冷めた挨拶を交わし、そして相変わらず進みが遅い自身の足を何とか校舎の方へと伸ばそうとして――。


 ききいい、と。突然後ろの方で耳をつんざくようなスリップ音が聞こえたものだから、片足を前へと踏み出そうとしていた僕は、力を制御しきれずにたたらを踏んでしまった。


「……なんなんだよ」


 よろめく身体を何とか支え、僕は恨みのこもった視線を後ろに投げかける。そうしてあの音の正体を探ろうと試みた。


「って、は……? 嘘だろう……」


 目を疑った。


 僕の目の先にあったのは、正門の向こうに停められた白塗りのリムジン。門の横幅に迫るほどのそれは一般人からすれば見慣れないものであるはずなのだが、何故か僕の目には酷く懐かしく映った。


 僕の脳が思考を諦めているさなか、リムジンの運転席から出てきた黒服の男が後ろ側の戸を開けた。そこから間もなく人影が下りてくる。

 それは少女だった。僕と同じ制服を着こなし、優雅な足取りでこちらに向かってくる。先ほどの黒服が腰を折って見送っていることから、その少女はとても身分の高い御人のようだ。

 やはり、一般人には見慣れない光景。だがどうしてか、僕の目には懐かしく見えた。


 いや、何故かだとか、どうしてかなんて。惚けるのはよしてくれ。

 そんなもう一人の自分の声が聞こえてくるようだった。


 歩いてくる少女が近づいてくるにつれてその全貌がはっきりと見て取れるようになる。

 利発さとあどけなさを兼ね備えた顔も。風になびく麦色の髪も。すらりと伸びた白皙はくせきの手足も。女性らしい丸みを帯びた身体つきも。


 どれも記憶とは細部で異なっているはずなのに、そのどれもが在りし日の影と重なって見えるのだ。


 遂に視線が交わるほどに僕と少女との距離が近づく。そして半ば導かれるようにその視線がぶつかった。


「ああ――」


 無意識の僕の呟きに呼応してか、少女は何かに気が付いたかのような顔つきで僕の方へと歩み寄ってきた。


 ああ、まただ。呼応してか、何かに気づいたか、そんな曖昧あいまいな言い回しをせずとも、事実はとうに明らかだというのに。

 僕の頭は相も変わらず認識を歪ませようとするばかりだ。


 そんな間に少女はもう目と鼻の先に来ていた。そうして僕の震える目をしっかりと見据え、制服のスカートの端を指でつまんで一礼した。


 それを受けて、ようやく僕も覚悟が決まった。


「――つかぬことをお聞きしますが。あなたの名前は小宮仁こみやじん様で間違いないでしょうか?」


「…………ああ、合っている。それならこっちからも聞くけども、君の名前は姫川茉莉ひめかわまつりで間違いないだろうか?」


「ええ、違いませんわ。ふふふ……なんて、茶番はここまでにして。ようやく会えましたね、旦・那・様?」


 僕の前で悪戯いたずらっぽく笑うその人は、二度と再会することはないと思っていた僕の婚約者、姫川茉莉お嬢様だった。



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