水怪
白兎
第1話
『
私は、高校を卒業して、地元の小さな工場へ就職した。
「
工場の朝は、ラジオ体操から始まり、朝礼で工場長の話し、最後に、
「今日も安全に心がけましょう」
で終わる。
歓迎会があるというので、断れずに参加した。
「気をつけてね。あのエロガッパ。普段はただの面倒くさいおやじだけれど、お酒を飲むと、下ネタを言ったり、触って来るから」
そう言ったのは、二つ上の先輩、光浦洋子。はっきりと物を言う、裏のなさそうな人だ。
「工場長の事ですか?」
私が言うと、彼女は頷いた。
「気をつけます」
その言葉に、彼女は満足したようだった。私は、本当は全てがどうでもよかった。
歓迎会が終わり、私はアパートへ帰った。
高校を卒業して、一人暮らしを始めた。地元で就職だが、家にはこれ以上いられなかったからだ。私の両親は早くに亡くなったという。私がまだ三歳だった。それから、母の弟の家族に引き取られた。そこには、同い年の男の子がいた。名前は優太。名前の通り優しい子だった。
このアパートには、必要最低限の物しかない。それでも、私には十分だった。あの家から離れられる。
社会人になって四か月が経った。もうすぐ優太の命日だ。今日の朝礼で、工場長から話しがあった。
「急に大口の注文が入った。先方も急ぎだというので、今年のお盆はすまないが、出勤してほしい」
とのことだった。
真夏の暑い中、忙しい日が続いた。今日が優太の命日という日にも、残業で帰りは七時を過ぎた。コンビニで弁当を買い、アパートへ帰った。電子レンジで温め、テレビをつけて、ただそれを見るでもなく、ぼーっとしながら弁当を食べていた。
ピタッ、ピタッ。濡れた足音のような音が背後で聞こえた。気のせいだろうと思ったが、気になり振り返った。やはり気のせいだった。一人暮らしなのだから、誰もいない。しかし、フローリングの床がなぜか濡れていた。
「私、ぼーっとしていたんだわ」
自宅へ帰ってから、洗面所で手洗いうがいをしたから、うっかり床を濡らしたのだろう。そう思い雑巾で水を拭いた。
次の日の夜、あの音は聞こえた。
ピタッ、ピタッ。やはり濡れた足で誰かが歩いているようだった。幽霊って、本当にいるのだろうか?
「誰なの?」
私はそう言葉をかけて振り返った。けれど、そこには誰もいなかった。そして、床は足跡のように濡れていた。気味が悪かったが、もしかしたら、私が優太のお墓参りにまだ行っていないから、催促に来たのかもしれない。
「優太の幽霊なら、怖くないわ」
そう思ったら、本当に怖さは感じなかった。
やっと、仕事が一段落すると、工場長から労いの言葉をかけられた。
「本当に、ありがとう。みんなが頑張ってくれたおかげで、先方の納期よりも早く納品が出来ました。とても感謝していただきました。暑い中、ご苦労様でした。お盆休みがずれてしまったけれど、明日から六日間お休みにします。しっかり休養をとってください」
その言葉に、従業員は喜び、はしゃいだ。
「こら、こら。羽目を外すなよ。特にそこの若者たち」
そう言って、工場長は二十代の男性従業員たちを指差した。年配の従業員たちから笑いが起きた。和やかで、平和で、健全な世界だ。それでも、私がここにいる事に違和感を覚えた。
「ねえ、なっちゃん。明日、みんなでバーベキューに行こうって、話しているんだけど、行くよね?」
光浦が話しかけて来た。断れないから行くと答えた。しかし、その場所は優太が溺れて死んだあの川だった。
その夜もまた、濡れた足音が背後から迫って来た。
「優太なの?」
私が振り返ろうとしたとき、それが肩に手を置いた。
振り返ると、濡れた足跡は、真後ろまで来ていた。そして、肩はじっとりと濡れていた。
私と優太は、生まれた病院も一緒だったという。母が私を生んで入院している時に、優太の母も出産のため入院した。誕生日は三日違いだった。両親が亡くなるまでは、優太の家族とも仲が良かったらしい。両親を亡くし、独りになった私を、最初は快く迎えてくれたと祖父母は話してくれた。
私と優太が、来年、小学校へ入学というあの夏の事だった。家族四人で川遊びに来ていた。
「深みには気を付けてよ」
義母が言ったが、気にせず川の中ほどまで泳いだ。優太はそれに気付き、追いかけて来た。私はただ、ただ、楽しかった。まだ足が着くほど浅かった。けれど、急に流れに身体が攫われた。
「なつ!」
優太は私を呼んで、身体を引き寄せた。流れから抜けた私は、流されていく優太を見た。異変に気付いた義父が私を浅瀬まで運び、優太を助けるために流れに飛び込んだ。
優太は溺れて死んだ。
義父は駆け付けた消防団員に助けられた。
義母は狂ったように叫び、私を憎んだ。
その後の私の人生は地獄となった。
「ねえ、なっちゃんも泳ごうよ」
みんなで川に来た。バーベキューを楽しんだ後、暑くてたまらないと、みんな川へ飛び込んだ。それを私はただ見ていた。
光浦はしきりに私を誘った。
「私は泳げないから」
そう言って断ったが、光浦は私の腕を取って、
「大丈夫、浅い所で、足だけ水につけてごらんよ。冷たくて気持ちいいよ」
彼女は、私が他の人たちと馴染めていない事を気に掛けてくれていた。こうして誘うのも私のためだった。
「本当、冷たくて気持ちいい」
私が言うと、彼女は嬉しそうに、
「そうでしょ」
と言った。その時、私の足元に何かが触れた。ぬめりとした感触。
「なっちゃん!」
遠くで、光浦の声が聞こえた。私は川の中ほどまで歩いていたようだった。そして、また、私の足にぬめりとした感触の何かが触れた。それは足を掴み私の身体を登って来た。水の中に何かがいる。そして、私はそれに川底へと引っ張られた。水面を見上げると、明るくキラキラと揺れている。水面はどんどん遠くなっていった。私を掴んでいるそれを見るのは怖かったが、やはり、確かめなければ気が済まなかった。
私はそれを見た。深緑色のぬめぬめとした肌に、ぎょろりとした虹彩のない黒い目。これは一体何者なのか?
深緑色のそれは私を掴んだまま、もっと底へと引っ張る。
「ずっと一緒にいようね」
あの日の優太の言葉だった。私は頷いた。私も優太とずっと一緒にいたいと思った。
水面から遠く離れ、そのきらめきさえ、見えなくなった。真っ暗な水の中に私は居る。そう思ったとき、川底がだんだん明るく見えてきた。そこから何かがふわふわと泳いでくる。幼い子供だった。一人、また一人。私を掴んでいた深緑色のそれを見ると、あの時のままの優太が笑顔で、
「なつ」
と呼んだ。
明るい川底はもう水の中ではなかった。どこかの田舎の風景に、穏やかな風が吹いていた。子供たちも優太も私も、底に降り立った。
「これからはずっと一緒だよ」
優太が微笑んだ。
水怪 白兎 @hakuto-i
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