金持ちじゃないと嫌なの!

トポ

短編

 彼が学生食堂に足を踏み入れた瞬間を、私の友人の彩子は後から面白おかしく「そこにいたみんなの平均純資産が一億円を超えた奇跡的なモーメント」と名付けている。むろん、私の不遇をからかっているのだ。他人事ひとごとだと思って調子に乗るな、と私が喚いても、彼女は目を三日月にして、「状況が愉快すぎるし、ある程度は自業自得なんだから、あんまり同情できない」みたいなことを平気で言う。


 さて、くだんの彼の名は雨宮あまみやあゆむ。週刊誌から外国の新聞まで雨宮を天才青年実業家と謳歌おうかしているので、興味がなくても彼の経歴は自然と耳に入ってくる。雨宮は高校を卒業せず、全てを一人で立ち上げた事業にかけ、数年で世界市場に進出するという前代未聞の大成功を収めた。現在は二十二歳の若さでグローバルなIT企業を経営している。つまり、成金の中の成金、あるところによるとビジネスの神――それが朝宮だ。


 だから雨宮歩という大物が、つつましい我が学食に現れると、その場の時間が止まってしまったのは言うまでもない。一瞬にして食堂は静まり返り、誰かの指からこぼれ落ちたスプーンがカチャンと響き、学生たちが目をしばたたく細波さざなみのような音さえ聞き取れるほどだった。びしっとスーツに身を包んだ雨宮は、連れのボディーガードらしき二人に目配せで入口付近で待機するように伝え、学生たちがそろってあんぐりと口を開けているのに構わず堂々と歩き、よりによって私の席の前で片膝を折った。


堀谷ほりやさん、やっとあなたに相応ふさわしい男になることができた」


 雨宮が入ってきた時に頬張っていた餃子ぎょうざを私は飲み込んだ。まさか……まさか、こいつあの時のことを覚えているのでは――という焦りが脳裏を駆け巡った。


 実は私とこの男、高1の時、同じクラスだったのだ。しがない学生と億万長者という差が五年ちょっとでできてしまったが、確かに高校の同期ではある(雨宮の方は卒業していないとしても)。


 肝心なのは、雨宮は高校時代、私に告白していること。その時の彼は、今の肩幅が信じられないほどひょろひょろしていて、似合わないメガネをかけた陰気なやつだった。中学・高校のころはちやほやされて、上がっていた私は、雨宮の告白をちゃんと断るのも面倒で、適当な返事で彼を追い返していた。


「堀谷さん」と雨宮は繰り返す。「カリブ海にプライベートアイランドを持っていない男子とは付き合わないって言ってたよね。それで――」


 やばい、と私は危険を本能的に察知した。涙をこらえているのか、雨宮が目尻を押さえている間、非常口を視界に収める。


「昨日、ドミニカ国の島を一つ買い取る契約が成立したんだ。だから改めて――。最初見た時から堀谷さんのことが好きだった。今までずっと好きだった。僕と付き合って――」


 雨宮が言い終わる前に私は逃げ出していた。学食に残した餃子は残念だが、背に腹はかえられない。


     *


 その日、私は夜まで女子寮に隠れていた。しかし雨宮が私を追ってくる気配はなく、逆に野次馬根性を丸出しにした連中からの電話とメッセージが殺到し、たとえ花束を持った雨宮が寮の前で待っていなくても、とても部屋の外には出られなかった。


 友人の彩子が差し入れと持ってきたビールを飲みながら、私は愚痴を言う。


「告白した女子が、島持っていない男は嫌だって答えたら、それはノーっていう意味に決まってるよね? あたしたち高校生だったんだよ」


 しかし彩子は両肩を押し上げる。「ノーならノーって言うべきだったんじゃない?」


「だから馬鹿だったってことはわかる。でもまさか本当に大金持ちになって戻ってくるとは思わなかった」


「いいじゃん、いいじゃん。雨宮と結婚すれば一生楽できるよ」と彩子は私を冷ややかす。


「知らないやつと結婚なんてできるか。それにある意味キモくない? 高校時代の知り合いに告白したいからここまでするの。雨宮絶対頭おかしいよ」


「カリブ海の島持ってないとダメとまで言ったんだからもう引けないよ」


 缶ビールを額に当てて、彩子をにらむ。


「わーかった。わーかった。じゃあ雨宮にちゃんと告白させて、もう一度断ればいいじゃん」彩子は唇の片方をきゅっと釣り上げる。「でもその後は私が雨宮をもらうから」


「……それは嫌だ」


「えー、ならどうしたいの?」


「……もう一度雨宮の告白を断るなんて言ってない」ため息をつき、顔を彩子から隠す。「お金のことはともかく、髪型とメガネのフレーム変えるだけで印象もあんなに変わるんだね。高校のころの雨宮はあれほど堂々ともしてなかったし」


     *


 ウイスキーグラスを手にした雨宮歩は片手でネクタイを緩め、身をソファーに投げ出した。ペントハウスのパノラマウィンドウから夜景が見下ろせる。その光の一つが堀谷の住まいであるかもしれないと思うと、歩は深いため息を漏らさずにはいられなかった。


「堀谷さまとの再会はどうでしたか? いいお返事をもらえましたか」と執事の小鳥遊たかなしいてくる。


「ん? いや、最後まで言える前に堀谷逃げちゃった」


「堀谷さまの学食でドミニカ国の島を購入したと言うのはやはり最善ではなかったようにわたくしは思うのですが」


 歩は小鳥遊を見返し、くすくすと笑う。


「いや、いいんだよ、あれで。実は島まだ買ってないし。どうせ買うならあいつと一緒に選んだ方がいいだろ? ま、あいつが俺と付き合うとも限らないし」


 執事は主人が言っていることがわからないというように眉間にしわを寄せる。


「ではなぜ?」


「堀谷をからかってみたかった。これで高校の時のことはおあいこ。明日は普通にコーヒーを一緒に飲まないかって誘ってみる」


 ははあ、と小鳥遊はうなずく。


「事業始めたの、ちょっとはあいつを見返してやるためでもあるんだけど、まさか本当に島を買えるほどのお金が入ってくるとは夢にも思わなかったし、金さえあれば誰とでも付き合えると思い込んでいるほど落ちぶれてもいないよ」


 歩は夜景に視線を戻し、肩をすくめる。


「それに、この数年間彼女のことを想っていたわけでもない。まあ、思い出したりはしたけど」カランと歩はグラスを揺らす。「数年会わないだけで、堀谷もっとかわいくなっていた。もう一度一目れした気分だよ」

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