第8話 告〈confession〉白
「オイ、睡」
ある日の夜、睡蓮がアタシの部屋にやってきた。妙に敵意を持った目をしているが、先日アタシが「充のことが好き」と言ったことを気にしているのかもしれない。
「なんだよ」
背筋を伸ばして向き合う。睡蓮はあのアタシのものでもあったはずの鋭い目つきでこちらを見下ろしてくる。最初のうちはこの視線が怖かったが、今はじっと見つめ返してやることができるようになった。
睡蓮はポケットから白い封筒を取り出すと、アタシの目の前に突きつけた。それには、見慣れた汚い字ではみ出すほど大きく『果たし状』と書かれていた。わざわざ筆で書いたのか、ところどころ墨が垂れて汚れていた。
「テメーに決闘を申し込む」
そう言ってアタシの方に向かってそれを投げてきた。それを受け止め、「……理由は?」とため息交じりに訊ねた。
「充は俺のモンだって証明してやるためだ」
睡蓮のその言葉に、こいつも結局充が好きなのかよ、とため息を吐きたくなった。自分かが恋のライバルになるなんて、そんなおかしい話があるのだろうか。
そんなアタシの心情を知らない睡蓮は、いいから開けてみろ、とアタシを急かす。言われるがままに封筒の中身を取り出し、雑に折られた一枚のルーズリーフを広げる。そこに書かれていたのは、確かに睡蓮からアタシに当てられた果たし状だった。
『睡へ 充を懸けて俺と勝負しろ!』
封筒に書かれている文字と同じ筆圧でストレートな言葉が書かれている。その横には、指定された場所と日時も添えられていた。明日の正午、アタシたちが雷に打たれて分裂した公園で、とのことだった。
「ふ……くくくっ」
「……あん?」
こみ上げてきた笑いが漏れる。睡蓮は少し起こった様子で「何笑ってんだ!」と言うが、これは笑っちまうだろ、と思いながらアタシは引き出しを開いた。
「やっぱ、考えることは一緒だよなァ」
まったく同じ封筒に、まったく同じ字で『果たし状』と書かれたそれを睡蓮の胸に叩きつけた。驚きながらそれを開いた睡蓮は、内容もまったく同じという事実に気付いてアタシと同じように吹き出した。
「ハハハ! こりゃ傑作だな!」
「なぁ。 やっぱ同一人物だな、好きな奴も同じ、果たし状って発想も……見ろ、ここ。 消しゴムかけたとこまで一緒だぜ」
こすって黒ずんだ部分を指させば、睡蓮はより一層高く笑った。そしてひとしきり笑った後、目尻に浮かんだ涙を拭いながら吹っ切れたように言った。
「じゃあ、まずは片付けねえといけねえ問題があるな」
その言葉に、アタシも頷いた。
*
果たし状に指定された翌日。昨日までの快晴が嘘のように空は灰色の曇天が覆い、空気のにおいも湿っていた。今にも雨が降り出しそうな、不穏な色の景色をしている。昼間だというのに、夕方のような暗さだ。
公園に一番乗りしたアタシは、帽子の隙間からその空をじっと睨み付けていた。
「……睡?」
ぼうっと見上げていると、不意に名前を呼ばれた。もう何度も呼ばれているはずなのに、未だにこの『睡』という名前は呼ばれても一瞬反応が遅れてしまう。
そこに立っていたのは、華弥子だった。花柄のワンピースを着て、化粧もしているのかいつもよりも唇の色が明るい。
「オウ、華弥子」
「どうしたの、その格好……ていうか、その傷なに⁉」
驚いた声を上げ、訝しげに視線を上下に動かし、アタシの全身を確認する。
華弥子が疑問に思うのも無理はない。今アタシは、傷を隠していない上にベラ高の学ランを身にまとっているのだから。
久しぶりに着た学ランはやっぱり今の身体には大きすぎて、袖も裾も本来の位置よりも低いところに着ている。それでもわざわざこれを着てきたのは、睡蓮とも、充とも、華弥子ともちゃんと決着をつけるためだった。
「ん……ちょっとな。 傷も大丈夫だよ、今まで化粧で隠してたんだ」
「そう、なの……というかなんか、しゃべり方も変だね……?」
それには何も答えず、黙ったまま誤魔化すように頬を掻いた。華弥子はひとつふたつ瞬きをすると、「それで」と話を促した。
「話って……何?」もじもじと照れくさそうに指をこすり合わせ、アタシの様子を伺っている。
「悪いけど、今はまだ話せねえんだ。 少し待ってくれ」
華弥子は残念そうにしながらも安堵の息を吐いて、「そう」と微笑んだ。
そのまま話題もなく、アタシたちの間には耳の痛くなるような沈黙が流れた。今から行うことに対しての罪悪感やら緊張が今更押し寄せてきて、また無意味に空を仰いだ。
華弥子が気を遣って「そういえば、来週提出の古文のプリントやった?」なんて他愛もない会話を投げかけてくれるが、「まだ」と無愛想な返事しか返せず、それ以上会話を続けることができない。
こういうとき、どうやって話って広げてたっけ? 最近まで普通にやってたことなのに全然わからなくなってきたな。ったく睡蓮の野郎、どこで油売ってやがンだ……
そんなことを考えていると、知らない女の子が遠慮がちな足取りで公園に入ってきた。黒髪をお下げにした、大人しそうなかわいい子だ。おそらくこの子が、睡蓮に告白したとかって物好きな子だろう。
「なぁ、君が西園さんって子か?」声をかけてみれば、驚いたように肩を揺らして「はい」と返ってくる。
「あれ……西園さん?」
「え……あ、澤邑先輩?」
「あ? 知り合いだったの?」二人は同時に頷き、「部活の後輩なの」と華弥子が付け足した。
「えっと……」不思議そうな顔でアタシを見つめる西園に、「睡蓮に呼び出されたんだろ?」と訊ねる。西園はハッと目を見開き、アタシが誰かわかったようだった。
「もしかして、睡蓮様のご姉妹の方ですか……?」
「うん、まぁ……そうだね」本当は同一人物なんだけど、と脳内で訂正し、「杢葉睡だよ」と自己紹介した。
「睡蓮様と似てらっしゃいますね!」
「え……そう?」
初めて言われた。アタシも睡蓮も、お互いに似てないと思ってるのに。
「はい! 透明感のある艶やかな白い肌も愛らしく跳ねた茶色い髪も、何より狼のような鋭い眼光がそっくりです! 立ち居振る舞いや学生服をお召しになった姿もよく似ていて……というか、どうして男物の学生服を?」
ぐいぐいと距離を詰めながら捲し立てられ、「う、うん」と変な声で返事をしてしまう。
一体この子の目には睡蓮はどう映っているんだろう。愛らしいとか、絶対アイツに似合わねえ言葉だろ。「夢見がちな奴だ」と話には聞いていたが、思ってたよりもガンガンくるな、この子。
「西園さん、ちょっと」華弥子に声をかけられ、西園は「申し訳ありません、つい」と照れたように乗り出した身を縮めた。
「えっと……あの、私は睡蓮様に呼ばれたんですけど、睡蓮様はどちらに……?」
「あぁ……もうすぐ来るよ、ちょっと待ってな」
そう言った瞬間、華弥子と西園の視線が上がった。それと同時に二人は「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。一瞬なんだと思ったが、その視線はアタシよりも後ろに向けられていることに気付いた。二人の視線を追って振り返ると──そこには、端道が立っていた。
「睡……」
端道はあの低い声で唸るようにアタシの名前を呼ぶ。この前のこともあって気まずいが、あえて「よう、端道」といたって普通に返事した。何も答えてこないでじっと見下ろしてくる目を見ていると、こりゃあ芍薬牡丹のお嬢様たちにはおっかないわな、と納得できてしまう。実際、華弥子と西園は小動物のように身を寄せ合って震えていた。
「……なんでお前学ラン着てんだ?」
「いろいろ事情があンだよ」
「ふーん……話があるとかっつったな、なんの用だ」
「あぁ~……待てって、そろそろ睡蓮が来るからよ」
「アイツが……?」
端道は細い目を開くと、「……そうか」と言って急に尻のポケットから手鏡を取り出し、指先で前髪をいじりだした。何してんだこいつ、と思って見ていると、「なぁ、服は変じゃねえか?」とアタシに訊ねてくる。今の端道は普通の開襟シャツを着ているが、別に何が変というわけでもない。そこで気付いたが──こいつ、睡蓮の目を意識してやがるな?
妙にせわしなく動く視線といい、そわそわと身体を揺らしているところといい、この前睡蓮と対決する直前と似た挙動不審さがある。
「端道……そんなんしても睡蓮はお前のこと興味ねえから無駄だぞ……」
そう言って端道の肩に手を置いた。投げかけられた質問の回答ではない残酷な真実だが、あえて伝えた。端道は一瞬眉を下げ、「えっ」とあからさまに残念そうな声を上げる。だが急に我に返り、「だ……誰があんな奴に!」とそっぽを向いた。いや、じゃあなんで目尻に涙が浮いてんだよ。こっち向けバカ。
「ね、ねえ、睡……あの人誰?」
端道に聞こえないような声量で華弥子は話しかけてくる。なんて答えればいいものか、とひとつ唸り、「ウチの兄貴の……なんか、ライバル? みたいな……」と曖昧な返事をしてしまった。
そんなことをしていると、西園が「あっ」と声を上げた。彼女の向く方に目をやると、公園の入り口から睡蓮が入ってきていた。アタシと同じように学ランを着て、後ろには充が控えている。
西園は嬉しそうな声を上げたが、それとは対照的に端道が「杢葉……日野……!」と忌々しげに唸った。それに気付いた睡蓮は、こちらに近づきながら「おい、今日はてめえとやり合うために呼んだわけじゃねえぜ」と言い放った。
「おせえよ、睡蓮」
「悪い悪い」
睡蓮はアタシの横に並び、他の四人に向き合った。そしてそのまま、「お前らに伝えねえといけねえことがあるんだ」と話し出した。
「充は知ってると思うが……俺と睡は、本当は双子じゃないんだ」
睡蓮の言葉に、三人は不思議そうな顔をして首を傾げる。ただひとり、充だけが眉間にしわを寄せて真剣に睡蓮の言葉を受け止めていた。
今度はアタシが口を開く。
「こんなこと言っても信じられねえとは思うが……アタシたちは、元々ひとりの人間だったんだ」
いたって真面目な態度で伝えるが、三人は何を言っているんだ、と目を見開き、アタシの言葉の意味を掴みあぐねているようだった。何かの冗談だと思っているようで、失笑を漏らす奴もいた。
だけどアタシたちはジッと三人の方を見つめ、唇を固く結んでいた。それを見たせいか、三人ともわずかに緩んだ表情がみるみる締まっていく。
「は……何……? 一人の人間だったって、なんだよ」
三人の中で最初に声を発したのは、端道だった。
「あー……言ってる意味がわかんねえとは思うけどよ」
「わかんないよ……」
今度は華弥子が声を上げる。その表情は冗談だろうと言いたげに口角が上がっているが、その形はいびつだ。
「何、一人の人間だったなんて……どう見たって、二人ともそれぞれ別人じゃないの!」
「双子は二人で一人前……みたいなお話とかありますが、もしかしてそういうことを言いたいんですか?」
予想通り、みんな信じがたいというふうな反応だ。そりゃそうだろう、自分たちですら最初は受け入れられなかったし、なんなら今でも夢じゃないのかと思うことがある。
でも、これは現実なんだ。充が告白してきたのも、雷に打たれて分裂したのも、アタシが女になったことも……そして、充のことが好きだと気付いてしまったことも。
「いや……本当に、俺たちは……《俺》は、一人の人間だったんだよ。 俺は杢葉睡蓮っつー、一人の男だった」
アタシたちは、これまで起こったことを順を追ってひとつずつ話した。落雷に巻き込まれたこと、おそらくそのせいで分裂して、アタシだけ女になったということ、唯一このことを知っているのは、その状況を目撃していた充だけだということ。
「そうだよな、充?」
充の方に視線を向ければ、三人も充のことを見る。充は何も言わなかったが、代わりに深く頷いた。それに合わせるように、アタシもひとつ頷く。帽子をとり、言葉を続けた。
「アタシからしたら、自分は女になったのに男の自分がもう一人いて……睡蓮からすれば、分裂した片割れが女だった……って感じなんだよ」
果たしてこんな説明で通じるのだろうか。何度考えてみても、口に出してみても、そのたびにこんなおかしな話があってたまるかと思ってしまう。事実、三人は未だに訝しげな表情をしていた。
「ンだよそれ……」
ぼそりと端道が呟く。華弥子と西園は何も言わなかったが、目を大きく見開いて「ありえない」と言いたげな表情でこちらを見ている。隣に立つ睡蓮が「そりゃ信じられねえよな」と言ってひとつ息を零した。
「……ん? そういえば、どうしてわざわざ私たちを呼び出してまで、そんなことを話してくれたの?」華弥子はハッと顔を上げると、そんな質問を投げかけてきた。
このままだと本題まで進まないと思ったが、なんとか話を持っていけそうで安心した。
「それはな……」睡蓮に目配せする。睡蓮も同じタイミングでこちらを向き、「言うしかねえよ」と目で伝えてきて、アタシと同じように帽子を取りながら頷いてきた。
襟を正して背筋を伸ばし、改めて三人に向き合う。三人、それどころか充までそれにつられたのか姿勢を正した。
そしてどちらともなく、アタシと睡蓮は揃って頭を深く下げ、そして同時に声を上げた。
「悪い! お前たちの気持ちには応えられない!」
久々に出した大声は喉を驚かせて痛み、アタシたち以外誰もいない公園中に響く。よほどの声量だったのか、近くに寄ってきた野良猫や鳩が一斉に逃げ出した。
頭を下げたまま固まる。固く目を瞑り、罵声を浴びせられ、殴られるのを待っているつもりでしばらくそうしていたが、誰も何も言わず、それどころか身を動かす音すらも聞こえてこない。
恐る恐る顔を上げてみると、三人は揃って口を大きく開け、俺たちを見下ろしていた。頬をひくひくと小刻みに動かし、開いた口からはなにも発さずにただ驚きのまま、といった、まさに絶句状態だった。
どうしたものか、と考えながら上半身を起こす。それに気付いた睡蓮も、身体を起こして申し訳なさそうに肩をすくませた。充に目配せするが、気まずそうに目を逸らされた。帽子を被り直し、改めて身体を向き直す。
「お前ら全員、アタシか睡蓮のことを好きだって告白してくれたけどよ……アタシたちは分裂してるだけで一人の人間だから、誰かを選ぶってことはできねえ」お前たちを騙してたようなもんなんだし、と付け足す。
三人とも言葉をなくしたままその場に佇んでいたが、最初に我に返った西園が「でも!」と声を上げた。
「……でも、私が好きになったのは睡蓮様です! 分裂だろうが性転換だろうが、そこは関係ないんです!」
その言葉の華弥子も「そうよ!」と同調した。端道は何も言わないが、わずかに期待したような瞳を向けてくる。いや、お前はこの前しっかりフラれてただろうが。
……にしてもやっぱり、こんな理由で納得してもらえるワケねえよな。
「いや……本当は他にも理由があるんだ」
睡蓮はそう言うと、充の方を見た。アタシもそれに合わせて充に身体を向けると、他の三人も充を見た。充はひとり、なにがなんだかわからないというように目を見開いた。
「俺は……『俺たち』は、充のことが好きなんだ!」
四人は変なものを見たかのように、眉をひそめてまた言葉を失った。だけど今のアタシたちはそんな四人を気にすることができず、そのまま話し続けた。
「だから戻ろうが戻るまいが……仮に戻っても、男になるのか女になるのかはわかんねえけどよ。 どちらにせよひとりの人間にまたなれたとしても、お前らに応えてやれることはできねえんだ」
アタシがそこまで言うと、睡蓮も頷いた。アタシたちはほとんど同時に踏み出し、充の前に並び立った。充は相変わらず驚いた表情のままだが、近づいてみれば先ほどよりも顔が赤いのがわかった。
「充。 俺は──お前が好きだ」睡蓮はアタシよりも早くそう伝えた。先に言いやがって、と言いたくなるのを抑え、アタシも口を開いた。
「充、アタシも……アタシも、充のことが好きだよ」
改めて口に出すとやっぱり恥ずかしくて、全身が熱くなるのが嫌でもわかってしまった。
だけど充はそれ以上に、今にも蒸気が出そうなほど赤くなっている。顔や耳だけではなく、もはや首まで赤くなっていた。茹でられたタコとかエビみたいだな、なんて考えていると、睡蓮がアタシのことを睨みつけているのに気づいた。
なんだよ、と言葉には出さないが伝わるようにアタシも睨み返す。睡蓮はハッと嘲るように乾いた笑いを発すると、ふらふらと手を振りながら「いやいやいや」とアタシの肩に手を置いた。
「睡ちゃァん、充は《睡蓮》のことが好きだって言ってただろ?」
バカにしてくるような態度と言葉遣いにイラッとして、置かれた手を払った。
「オイオイ、そりゃ分裂する前の話だろ? 今はハッキリどっちが好きかなんて言ってねえんだから、あんま調子に乗ンなよ」
睡蓮は舌打ちすると、「顔と胸しか取り柄がねえくせに……」と呟いた。負けじと「お前は顔も大してだろうが」と言い返してやると、それがスイッチになったのか、アタシと睡蓮の間にピリッとした空気が流れ始めた。それとは対照的に、四人はそれぞれ状況が呑み込めないと目を点にしてアタシと睡蓮の顔を行ったり来たりさせている。
「お、おい……ふたりとも」
ただならぬ空気を感じ取った充が仲裁しようと声をかけてくるが、アタシも睡蓮も簡単に落ち着けるような状況じゃなかった。また睡蓮が口を開く。
「大体お前、女になったせいで喧嘩の腕落ちたんじゃねえの? そんなんだから屑ヶ谷の連中なんかに捕まンだぞ」
「おい、屑ヶ谷の連中なんかってなんだテメェ」端道が睡蓮の肩に手を伸ばすが、睡蓮は「あーうるせえうるせえ」と跳ねのけた。
「ケッ、だからなんだよ。 ……こんなこと言いたかねえが、今のアタシは女だから充と正式に結婚できるんだぞ?」
「け……結婚って、おい睡、何言ってんだ⁉」裏返った声で充は訊ねてくるが、アタシが答えるよりも先に睡蓮が言い返してくる。
「フン、そんならアメリカでも何でも行ってやらあ」
べっと舌を出して挑発してくる表情にカッとして、睡蓮の足を怒りのままに思い切り踏みつける。ドッ、という鈍い音がしてすぐ、睡蓮が「いってぇ!」と飛び上がった。
「お、お前ら! 俺のために争うな!」
「……充、事実とはいえそのセリフ言ってて恥ずかしくないの?」
「確かに。 現実で言ってる奴初めて見たわ」
「お前らが言わせてるのわかってる⁉」
充がこんなに叫んでるの初めて見たかもしれない。咳込んでゼイゼイと肩を揺らしているあたり、本当に慣れていないんだろう。なんかちょっと面白い。
「あー、やっぱ話し合いなんかじゃ埒あかねえよな」ガシガシと頭を掻いた。
お前が先に手出しただろ、と言いたげな四人の視線を感じながらも、睡蓮も足をさすりながら「そうだな」と同調した。
睡蓮から二、三歩距離をとって向かい合う。睡蓮も顎を引き、今までよりも鋭い目つきでアタシを睨みつけてくる。
「なんとなく聞くんだけどさぁ。 仮に充が俺たちみたいに分裂したら、こんなことしなくて済むと思うか?」
「半分こってことかよ?」
「ま、そういうこったな」身体を伸ばして準備運動する睡蓮。アタシも首を回し、長く息を吐いて答えた。
「絶対嫌だね。 どっちもアタシのだ」
アタシが好きなのは、男でも女でもない。『日野充』というひとりの人間だ。
アタシの回答に対して睡蓮は「俺もだぜ」と目を細めた。
充はアタシたちが争うのを止めたいらしいが、そういうわけにはいかない。アタシたちのエゴだけど、どんな姿かたちをしていようと、やっぱり《杢葉睡蓮》という人間にとっては、喧嘩が解決への近道なんだ。
帽子を外し、充に向かって投げる。慌ててそれを受け取った充に、睡蓮も同じように帽子を投げ渡した。
「来いよ睡蓮、元々こういうつもりだったんだしな」
そう言って挑発のつもりで笑えば、睡蓮も息を漏らして笑う。だが依然として、睡蓮の目は獲物を捉えた獣のままだった。脚を開いて膝を曲げ、体重を下半身に預ける。そうやっていつでも飛び出せるように構えると、睡蓮も同じように構えた。
しん……というヒリついた静寂が訪れる。灰色の空も、湿った空気やそのにおいも、湿気のせいで変に跳ねた髪も、ほかの四人の呼吸音も、そういったものとは別のところにアタシたちの意識があるような、そんな不思議な心地だった。
誰かが固唾を吞む音が聞こえてきそうな雰囲気の中、音も出さずに飛び出した。
アタシが先だったのか、睡蓮が先だったのかは定かではない。もしかすると、二人同時だったのかもしれない。あんな果たし状を渡し合うくらいだから、充分あり得ると思う。とにかく、どちらともなく飛び出したアタシたちの身体がかち合った。
睡蓮が大きく掲げた拳を、躊躇なくアタシめがけて振り下ろしてきた。アタシは睡蓮の腕を蹴り飛ばす。強い意志を持って軌道に乗せた睡蓮の拳は身体が潰れたんじゃないかと錯覚するくらい重く、睡蓮と同じようにアタシの身体ものけぞって吹き飛んだ。
吹き飛んだんじゃないかと思わず自分の脚を確認してみると、衝撃のせいで足がビリビリと痺れている程度で、問題はなさそうだった。
睡蓮が体勢を整えるよりも先に走り出し、睡蓮の懐に潜り込む。睡蓮は慌てて防御しようとするが、一拍早くアタシの拳が睡蓮の肋骨にめり込んだ。睡蓮は低く短い悲鳴を上げ、一歩引いてアタシから距離をとる。
「いっ……てぇ、なァ……! ……睡テメェ、わざと狙いやがったな……⁉」
膝をつき、脇腹を抑える睡蓮は、地を這いずるような怒りに満ちた声でそう言った。
睡蓮の肋骨がまだ治りきっていないのは知っていた。「自信がねえのかよ」と痛みに耐えながらも悪態をつく睡蓮を見て、思ったよりも平気そうじゃねえかと心の中で呟く。
「いつもだったらこういうのは気が引けるけどな……自分相手にわざわざ気を遣う必要はねえだろ?」首をかしげてそう言えば、睡蓮も「そりゃそうだ」と笑った。
その瞬間、睡蓮は本当に肋骨が痛いのかと聞きたくなるような素早さでアタシの前まで飛んできた。
マズい、と直感的に逃げるために後ずさろうとするが、睡蓮はアタシの頭部を両手で掴むのが早かった。アタシの視界いっぱいに映った睡蓮の顔は、自分でも知らなかったような恐ろしげな表情をしていて、唇が「逃がすかよ」と動かされたのを確かに見た。
睡蓮は自分の頭部を後方に反らし、勢いをつけてアタシの額に打ち付けた。かなり重いヘッドバットだ。
ゴッという鈍い音とそれに反した鋭い痛みが脳に響き、一瞬意識がトびかけた。だが華弥子と西園の短く高い叫びが鼓膜に刺さり、それのおかげかなんとか正気のままでいられた。
先ほどの睡蓮と同じように後退し、痛む頭をさする。ぐわんぐわんと脳がゆすり動かされて気持ち悪いが、ここで降参するなんて番長の名が廃る。
「……ッ、オイオイ……お前も案外乗り気じゃねえか。 安静にしろって言われてただろうによ……」
「へっ、そんなん気にしてられるかってんだ」
してやったり、という顔の睡蓮を見ていると、苛立ちの中に『楽しい』という感情が生まれたのが分かった。充のことを取り合って、こうしているはずなのに……今まで体験してこなかった『自分』との勝負に、身体が喜びで震えだす。
ぽつ、と空から降ってきた雫が、アタシの頬を濡らした。
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