最終話 睡〈Identity〉蓮

 雨は少しずつ強くなっていく。雨よけが必要なほどではないが、火照った身体や痛む傷に触れると気持ちがいいくらいの冷たさだ。

 ズキン、ズキン、と心臓の鼓動に合わせるように額が痛む。揺れる脳みそはだいぶマシになったが、それでもダメージはでかい。『俺』はいつもこんな力で、こんなふうに喧嘩をしていたのか。

 痛みを散らすために深呼吸をすると、睡蓮は茶化すように笑った。

「渾身のヘッドバットはいてえだろ、いい当たり方したもんな。 普通の奴ならもんどり打ってぶっ倒れるが……女になってもさすが俺だぜ、耐久性もバッチリじゃねえか」

「正直言うが、今にもぶっ倒れそうだっつーの……」

 でも、とアタシは足に力を入れる。ここで負けるわけにはいかない。充のことはもちろん、自分に負けるなんて、元に戻ろうが戻るまいが、悔しくて堪らない。それはきっと、睡蓮も同じなのだろう。すべての動作、呼吸ひとつとっても、本気が伝わってくるのだから。

 気合いを入れるために自分の頬を両手で叩けば、乾いた音と痛みが走る。

 だがその時、頬の痛みとは違う、ズキン、という引きつるような痛みが左目に走った。反射的にかばう。その痛みは睡蓮にも起こったようで、アタシとは反対の目を押さえている。

 痛みは長くは続かなかった。波のように寄せては返す痛みは緩やかに収まっていき、ほっと息を吐いた。睡蓮もひとつ深く息を吐き、頭を乱暴に掻きむしった後、前髪を鬱陶しそうに後ろに撫でつけた。

 この前髪を上げる動作は──本気になった時の癖みたいなもんだ。確実に、最短で相手を仕留めるために、視界を良くしている。

 前髪を上げた睡蓮は先ほどのような挑発する笑みを浮かべておらず、顎を引いて目を細め、唇は固く結んでいる。

 雨は少し強くなってから、そのままの勢いで降り続けている。生まれて初めて胸元まで巻いたサラシが、湿気のせいか汗のせいか、とにかく蒸れて不愉快だった。

 睡蓮が近付いてくる。普通に歩くようにこちらに歩みを進めてくるが、目だけは瞬きひとつせずアタシの方をじっと睨み付けてきている。

 そして人ひとり分くらいの距離までやってくると、少し身体を捻ってそのまま跳び上がった。アタシも睡蓮とほぼ同じタイミングに、睡蓮と同じ動作をした。

 捻りを加えて跳び上がり、膝を自分の身体に寄せる。ジャンプで一番高いところまで来れば、脚を伸ばしてそれを相手の背中に叩きつけた。

「ぐあッ!」

「うッ!」

 互いのかかとが互いの背中に食い込む。睡蓮からのはアタシの背中をしたたかに打ったが、角度のおかげかアタシが繰り出した方は睡蓮の脇腹に入り、それもかなりいいところに入ったらしい。

 アタシにもダメージはもちろんあったが、睡蓮は膝をついて脇腹を押さえている。アタシはすかさず、睡蓮の側頭部を遠慮なく思い切り蹴った。睡蓮は鈍い悲鳴を上げながら頭を飛ばしてその方向に倒れる。

「ヘッドバットの仕返しだぜ」

 そのまま胸ぐらを掴もうとするが、睡蓮はアタシの手を外側に弾いて、空いた胴体にタックルしてきた。運悪く肩がみぞおちに入ってしまい、衝撃と鈍痛が身体中に走った。そのせいで抵抗する暇もなく、アタシは高く持ち上げられてしまった。

「ヘッ、ずいぶん軽いじゃねえか、羽みてぇだぞ睡」

「気ッ色悪ィこと言ってねえで離せバカ!」

 この! と力一杯背中を叩くがまるで効いていない。「離せ!」とまた声高に放った時、ハッとある可能性が頭に浮かんだ。

 ……いやでも、待て、今離されたらこれ……どうしてこんなことになっているのかを改めて思い出してみると、ここからの最悪の展開が脳裏をよぎった。

「じゃあお望み通り離してやるよ」

「待って! 今のナシ!」

 そう懇願するが、睡蓮は「もう遅えよ」と笑い、空中に向かってアタシの身体を離しやがった。天高く放り投げられたアタシの身体は小雨の中を切り裂くように弧を描き、そのままの軌道で落ちていく。ちょうどその先には四人が立っていて、四人とも驚愕の色を浮かべながら飛んできたアタシを見ている。

 一瞬のことのはずなのに、世界がスローモーションに流れていく。やばい、やばい、こんな体勢じゃまともに着地もできねえ。おまけに、このままだと落ちる時に全員を巻き込む羽目になる。そんなことを考えているうちにも地面は迫ってくる身体を強ばらせ、着地への衝撃を和らげようとした。

 充と目が合った。そうだ、充なら──相棒の充なら、きっと受け止めてくれるかもしれない。目を見開いて合図を送る。充、頼む、頼む……!

「うわッ⁉」

「え」

 だが突っ込んでくるアタシに驚いたのか、充はおろか他の三人も素早くアタシを避け、そのせいでアタシはひとりでその後ろの植え込みに突っ込む羽目になった。

「ぎゃあああッ‼」

 バキバキ、グシャ、という葉や枝が潰れる音が聞こえ、陰にいた野良猫たちが尻尾を膨らませてその場から脱兎のごとく逃げていく。細かい枝やら葉やらが露出した肌を傷付けて地味に痛い。下手に動いたら酷いことになりそうで、上手く動けない。

「え……死んだ?」充のそんな声が聞こえ、すかさず「生きてるわ‼」と叫んで返した。

「誰か受け止めろよ! 充なんて目合ってたろ!」

「ごめん、つい……なんか怖くて」

「素直か!」

「ケツがしゃべってるみてえだぞ、睡」睡蓮がギャハハと下品に笑っているのが聞こえ、絶対に殺してやるという意思が強くなった。

 いて、いてて、と言いながらどうにか自力で植え込みから這い出した。

「死んだかと思った」ゼイゼイと大げさに息をしながら身体についた葉を取ると、「俺も殺したかと思った」という睡蓮ののんきな言葉が聞こえ、さらに苛立ってくる。

「もうやめてよ!」

 改めて構えをとろうとした時、華弥子の声が響いた。そっちの方に目をやると、華弥子が眉を吊り上げてアタシと睡蓮を睨み付けていた。アタシの方に駆け寄ってきたかと思うと、そのまま手を掴まれる。力は強いが、手が微かに震えているのが伝わってきた。

「睡、もうやめてよ……! 元が男だったとしても、今の睡は女の子なんだよ⁉ 男の人に勝てるわけないじゃない!」

「華弥子……」

 強気な表情と声色だが、目のふちには涙が溜まり、あふれ出しそうなのをどうにか食い止めているようだった。そんな華弥子の表情を見ていると、申し訳なさで胸のあたりが詰まる。顔を背けたくなるのを堪え、華弥子としっかり目を合わせた。

「でも、今は男だ女だなんて単純な話じゃねえんだ。 コイツは──睡蓮は、アタシ自身だから」

 そう諭すように言うと、華弥子の手から力が抜けていった。する、と自分の手を抜けば、脱力したように肩を落とした。わずかに俯いた華弥子の瞳からは、とうとう涙が流れ出す。

「ごめんな」

 小さく呟き、睡蓮に向き合った。睡蓮はコキッと首を鳴らし、アタシを待っている。斜に構えた舐め腐った態度だが、油断しているワケでは決してない。

 視界の端に映る充が、唇の中でアタシの名前を呟いたのがわかった。……そういや、充のケガを止血した時のリボン、まだ返してもらってねえな。……まあ、いいけど。

 そんなことをぼんやり考えながら、睡蓮に向かって拳を構えて走り出す。睡蓮も軽く身をかがめて迎撃態勢に入った。ギリギリのところまでアタシを引きつけて、そこから攻撃するつもりなのだろう。

 睡蓮は、アタシが自分だということを失念している。生憎だが、何をされるのかわかってて飛び込むようなバカじゃない。アタシはあと数歩のところで拳を収め、学ランを剥ぐように脱いだ。一瞬の出来事、睡蓮がアタシの企みに気付くよりも前に、アタシはそれを睡蓮の顔めがけて放った。

「うわっ⁉」

 肩まで学ランで覆われてしまった睡蓮は一瞬怯み、体勢を崩した。

 よし、とアタシは先ほどまで握っていた拳を開き、睡蓮とやり合った時よりも高く跳んだ。空中で両足を合わせ、学ラン越しの睡蓮の顔めがけてドロップキックする。顔の凹凸がわかるくらいまで足が食い込み、その勢いに押されて睡蓮は後方に吹っ飛んだ。睡蓮の手前に着地すると、今まで隠れていた肩や腕に雨が当たって冷たい。

「お前を持ち上げる力はなくても、身の軽さは今のがよっぽどあるんだよ!」

 そう言い放つと、睡蓮は仰向けのまま、自分の目隠しをしてきた学ランをずらして力なく笑い出した。

「ハ、ハハ……こりゃ驚いたぜ。 お前、足技のが向いてんじゃねえの?」

「ぬかせ、アタシが今まで拳で倒してきたのは、お前が一番わかってんだろうが」

 身体を起こして立ち上がる睡蓮。まだ足下がおぼつかないらしい様子を見て、すかさず次の攻撃をしようと飛びかかった。それに気付いた睡蓮はまた拳を振ったが、その拳と自分の顔の腕で受け止め、代わりに脚を高く掲げて首元に蹴りを入れる。

 睡蓮は肩を上げてそれを防ぐと、そちら側の手でアタシの足首を掴んで引っ張り上げた。

「痛い痛い痛い‼ 裂ける!」

 本来の位置よりも高いところに脚を持って行かれたせいで、もう片足ではつま先がギリギリ地面に触れてる程度だ。本当に痛い、ぬいぐるみだったら多分裂けてると思う。

「うるせえ! 裂けねえよ!」

「いや、脚ってよりも、膜の方が裂けたらどうすんだ!」

 後方から「あ⁈」という充の半分怒ったような声が聞こえる。睡蓮は「あ、そっか」と思いのほかあっさり納得し、ぱっとその手を離した。適当な位置で離されたせいで、脚からというよりも身体ごと落ちた。

 睡蓮、我ながらバカだな、という負の感心に混ざって痛みのせいで怒りが湧いてくる。

「このボケ!」

 お返しに睡蓮の足首を掴み、思い切り上に持ち上げた。睡蓮は間抜けな声を出してバランスを崩し、コントのように転んで膝をつく。そのまま睡蓮の膝を台にして跳び上がったアタシは、睡蓮の顎に膝蹴りを食わせてやった。

「ぁぐッ⁉」

 潰れた蛙のような声を発し、思い切り首を上げる。だが睡蓮はすぐそこにきていたアタシの腰に手を回し、そのまま持ち上げた。なんだと一瞬困惑したが、睡蓮の身体が後ろに傾いていくのに気付き、最悪の結果が簡単に予想できてしまった。

 待て、と制止する前に、睡蓮は仰け反って後ろに倒れた。アタシの眼前にはまた地面が迫ってくるが、先ほどと違って素早い動きのせいで避けようがない。野性的な防衛本能が働き、ギュッと固く目を瞑って腕を顔の前でクロスさせる。

 それから少し遅れて、顔全体に強い衝撃が走った。鼻が潰れ、唇の内側でギリッという音が立つ。一瞬短いうなり声が聞こえた気がしたが、それはアタシの喉から出ていた。

「ジャーマンスープレックス⁉」

「あの野郎、喧嘩にプロレス技使いやがったのかよ!」

 睡蓮の腕が離れた時、充と端道の興奮を孕んだ声が聞こえた。

 ジャーマンスープレックスは、本来技をかけられる側の背中から後頭部にかけてを地面に叩きつけるのだが……睡蓮の野郎は、とっさにかけたせいでアタシを顔面から落としやがったのだ。

「ぐぶ……て、てめ……」

 鼻で息がしづらい。なにか生温いものが伝ったと思うと、それは少量だがポタポタと地面に模様を作った。色を見るに、今ので鼻血が出てしまったようだった。血の量を見るに折れているわけではなさそうだが、口の中にも生臭い鉄のいやなにおいが渡っていく。

 ぐい、と乱暴に鼻血を拭うと、手首の方にまで血が広がってしまった。

「うぐ……顎がぶっ壊れたかと思ったぜ……」

 睡蓮は睡蓮でアタシの膝蹴りが効いているらしく、顎を押さえて悶えている。

 ダメージの蓄積が激しく、上手く立てない。お互いフラフラと酔っ払いのような不安定な足取りになりながら、ようやく起き上がった。

 徐々に雨は強くなっていき、立ち止まっていると身体が濡れて冷えていく。戦意喪失したわけではないが、雨とダメージのせいで動きたいと思っても身体が動かない。それは睡蓮も同じらしく、アタシたちじゃまた睨み合っているだけに戻ってしまった。

「クソ……どっちも杢葉だとしたら、俺はどっちを応援すりゃいいんだ……⁉」

 そんなことを言う端道の声が聞こえる。正直言って、別にお前からは応援されなくても……と返したくなるが、今この状況でそんなことを言ったらさらにややこしいことになりそうなので、アタシもアタシと同じ表情をしている睡蓮も、あえて何も口にしなかった。

 だが、端道は「ん……?」と声を発した。その声に違和感を抱いて端道の方を見ると、奴ははっと何かに気付いたように顔を上げ、「オイコラ、杢葉!」と不躾に叫んだ。

 何だよ、うざってぇなと思っていると、代わりに睡蓮が「あぁ? ンだよ」と答えた。

「てめえら、一人の人間なんだよな?」

「そーだけど……あ、いってて……」

 少し動くだけでも身体が痛い。さっき睡蓮に蹴られた背中が、今更になって痛み始めた。

「じゃあ中二ン時、俺の上履きいっぱいに蝉の抜け殻仕込んだのどっちだ!」

 

 端道が発した言葉によって、シーンと場の空気が静まりかえる。少しの間を置いて、アタシと睡蓮はゆるゆると手を上げ、「こいつ」と言外に伝えるべく互いを指さした。

「テメェらァ‼」

 端道は激昂し、アタシたちに向かって怒鳴る。元々優しい顔立ちをしていないのに、キレてるせいで顔がなまはげみたいになっていておっかない。こっちがガキだったらチビるぞ、その顔。

「いや、俺じゃねえよ……睡の方じゃねえの、知らねえけど」

 しれっと押しつけてきた睡蓮に内心ムカつきながら、「いや、睡蓮だろ……」とアタシもなすりつけた。

「だってアレしたのは『杢葉睡蓮』なんだし……」

「お前も睡蓮だろ、一応……」この野郎、こういう時だけそんなこと言いやがって。

「殺すぞ‼」こちらに突撃をせんとばかりにキレまくっている端道をなだめるように、「まあまあ」と手を胸の前に掲げた。

「いや端道よ、蝉の抜け殻って栄養あんだぜ?」

「何言ってんだお前」

「黙ってろ! ……その、なんだ。 ほんのささやかなプレゼントだよ、あんとき誕生日だったろ、お前」

 あくまでもにこやかに話すが、端道はさらに顔を赤くして震えている。

「俺の誕生日は十二月だぞコラ……あれは夏休み前のことだろうが……」

「ありゃま……」

 間違えたな、これ。顎に手をやって打開策を考えるが、思いつくはずもない。もはや端道は怒りを通り越して呆れているのか、「お前ら二人揃って……」とため息を吐いた。

「……ん、二人?」

 端道はまた何か考え込むように俯き、先ほどと同じようにまた顔を上げ、今度は充に話しかけた。

「おい日野、改めて訊くが……杢葉は今ふたりいるんだろ」

「え? う、うん」充は戸惑いながらも答え、端道は「じゃあよ……」と続けた。

「男の方か女の方か、どっちか片方よこせよ」

「……は?」

 変な空気の静寂が流れる。何を言っているんだろう、このバカは。片方よこすも何も、そもそも自分が振られてるってことを忘れてんのか? 都合のいい脳みそだな。

「だっておかしいだろ! 俺たちは振られたのに、ふたりとも日野が好きなんて!」

 その端道の言葉に、華弥子も西園も気付かされたようで、揃って充を責め立て始めた。

「そうですよ、あなたばっかりズルいです! 睡蓮様を私に!」

「いや睡を私に!」

「ざけんな、どっちかは俺のだ! 大体、年数で言や俺が最初にアイツに出会ってて……」

 何言ってんだ、そしてなんなんだこいつら。そもそもアタシも睡蓮も充が好きだから振ったってこともう忘れてるのか?

 徐々に戦意が萎んでいくのがわかる。睡蓮もそうなのか、すっかり戦闘態勢を解いて呆れた表情をしていた。開いた口が塞がらない、というのはまさにこのことだろう。

「あぁもう……うるせえな!」

 突然、充が声を荒らげた。三人はもちろん、アタシも睡蓮も驚きで肩をビクッと揺らした。普段は冷静沈着な奴なのに、三人に無理に詰め寄られたせいでキレてしまったのかもしれない。いずれにせよ急に充がキレるなんて珍しいから、全員充の言葉を黙って待つしかできなかった。

「なんなんだお前ら! 何が半分よこせだよ、『睡蓮』だろうが『睡』だろうが、俺は絶ッッッ対に渡さねえからな!」そう啖呵を切った充は、今度はアタシたちの方に向き直した。目尻も眉もキッと上げて、また口を開いた。手にしたアタシたちの帽子を強く抱いている。

「俺は……俺はお前が男だろうが女だろうが、どっちでもいいんだよ! ……俺は、『杢葉睡蓮』が好きなんだ!」そう言い切った充は、いつになくスッキリした表情をしていた。

 やっぱり、充も充で悩んでいたのかもしれない。親友への恋心にも、分裂したアタシたちのことも、口にしないだけでずっと気にしていたのだ。

 充、と声を出そうとした瞬間、端道が充の胸ぐらを掴んだ。

「調子いいこと言ってんじゃねえぞ日野! そんなんはなぁ、どっちからも好かれてる奴しか言えねえんだよこの野郎! イケメンはいいよなぁ、バーカ!」

「耳元で怒鳴ってんじゃねえ! こっ酷く負かされた上にフラれたくせに未練がましいんだよ!」

 ……なんか、力が抜けてくる。

 さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへ行ったのやら、充と端道が今にも殴り合いそうな雰囲気でがなり合っている。さらに火がついてしまったのか、そこに華弥子と西園も混ざって、四人はアタシたちそっちのけで言い合いをしている。

 本当になんなんだ、こいつら。何がなんだかよくわからないが……なんだ……? アタシたちの決闘のために呼び付けたのに、主役(?)のアタシたちを置いて、何をしていやがるんだ。そもそもこいつら……どっちかよこせだのなんだのと勝手なこと言いやがって……大体、アタシも睡蓮もとっくに肚は決まってるっていうのに……

 隣に立った睡蓮と顔を合わせる。睡蓮も睡蓮で、眉を顰めて今の状況を飲み込めていないようだった。きっとアタシも、同じ表情をしているのだろう。とにかく、腹なのか頭なのか所在はわからないが、じわじわ沸々と苛立ちがどこかにこみ上げて熱くなってきた。


「てめえら……『俺』は充が好きだって言ってんだろうがぁ~‼」

 示し合わせたわけでもなく、アタシと睡蓮は同じ言葉を同時に叫んだ。それに共鳴するかのように、公園全体を覆うような鋭く大きい閃光が真上で広がった。これは、まさか。この覚えのある景色が脳裏にちゃんと記憶として蘇る前に、アタシの身体を衝撃が包んだ。

 身体が焼き切れるような感覚、脳がショートしそうなほどの激しい痺れ。そして、鋭いのか鈍いのかわからない、身体を包み込む激痛。

 ──雷だ。また、雷に打たれたのだ。だが、前に打たれたものよりもずっと重くてずっと長いような感じだ。

 そしてアタシが雷に打たれたということは、睡蓮も巻き込まれている。直感でそれがわかり、ギギギ、と錆びたブリキのロボットのように首を軋ませながら睡蓮の方を向いた。

 睡蓮は、下の方に視線を下ろし、目を見開いてそこをじっと見つめていた。

 つられてそちらの方を見ると──睡蓮の手と、アタシの手が溶けてくっついていたのだ。手から腕、腕から肩、とくっついていき、下半身も同じようにくっついていった。

 いや、くっついているというよりも──『アタシが睡蓮を吸収している』のだ。吸い込まれるように、抵抗なく睡蓮の身体がアタシの中に入ってきている。これは、一体……

《戻っていってんだ》睡蓮の声がした。

 耳で聞こえたというより、頭の中に直接話しかけられている。口にはしていないのに、睡蓮の考えていることが通じている。今までこんなことはなかったから、吸収されているせいで起こっているのだろうか。

《なんだ……睡が本体だったのかよ》

 へら、と眉毛を下げて笑う睡蓮は、表情に似合わず目だけが悲しそうに細められていた。「おい……睡蓮」

《バカ、睡蓮はテメエだろ》その言葉に、目頭がジワリと熱くなっていく。

『俺』は一人だけなのに、あんなに元に戻りたいと思ってたのに、ようやく戻れるはずなのに、どうして──どうして、寂しいなんて思ってしまうんだろう。

《……元に戻るだけだぜ》

 泣きそうなアタシを察してか、そう言った睡蓮は今度はいつも通りに──覚えがあるその表情を作って、明るく笑った。

「……そうだな」流れ込んでくる睡蓮はアタシの──俺に顔を近付けてくる。

《楽しかったぜ》

 吸収されてもう形がないはずなのに、手を強く握られたのだけはわかった。俺も、精一杯歪んだ顔を笑顔にした。

「じゃあな、『睡蓮』」

 収まっていく閃光と痛みに紛れて、『睡蓮』も俺の中に消えていく。

 そのまま、俺は意識を失った。


 *


「……れん、睡蓮…………睡蓮‼」

 目を覚ますと、雨は止んでいた。あの時と同じように、充が俺の身体を抱えている。今にも大きな声を上げて泣き出しそうな充を安心させようと、「おう……」と掠れた声で小さく答えた。

 それなのに充は俺の身体を強く抱きしめながらわっと盛大に泣き出してしまった。なんで泣くんだよ、と呆れながらも、雨のせいで少し下がった体温とか、湿気や土のにおいと混ざった充のにおいが心地よくて、あえて何も言わなかった。背中に手を回してポンポンと叩いてやれば、さらに声を上げて泣き出す。

 充を撫でた自分の手を、太陽の出ていない空にかざしてみる。ごつごつして骨の張った、まぎれもない男の──俺の手だった。

「戻ったんだ……」

 額の痛みも、鼻を埋める血のにおいも、『睡』の時のままだ。だけど、身体は確かに『睡蓮』に戻っている。

「ん……睡蓮、なんだこれ……」

 充が俺の髪に触れる。目の前に出されたそれは、シワのよったリボンだった。

「これ……」身体を起こし、どうにか自力で座ってリボンを充の手ごと握った。

 充は俺の顔をマジマジと見つめ、「睡蓮お前、目の傷が……」と言って俺の左目に触れた。そこまでして、やっと、俺──『アタシ』のことに気付いたようだった。

「当たり前だろ、俺が『睡』だったんだから」

「そ、か……」

 生きてて良かった、と脱力したように呟いた充は、またぼろぼろと涙を溢れさせた。泣くなよと言って涙を拭ってやっても、すぐに止まりそうにはなかった。

 ドサ、と何かが落ちる音が、充の後ろから聞こえた。反射的にそちらを向くと、華弥子が膝をついて俯いていた。

「な、んだ……本当だったんだ、私の好きな睡は、本当に……」

 はらはらと花びらが散るような涙を流している。騙していた罪悪感が募って、なにか言おうと充に支えられながら華弥子の方に近づいていく。俯いたままの華弥子になにか言わないと、と口を開いた。

「かや……」

「澤邑先輩!」

 耳が痛くなるほどの大声を発しながら、西園が俺と華弥子の間に割って入り、華弥子の手を取った。え、何、と固まっているうちに、西園は華弥子に向かってまくしたてる。

「性別は違えど、私たちは同じ人に恋をしたもの同士! 私も睡蓮様という王子様があの人のものになってしまった今……支え合って生きてくことが大切だと思うのです!」

 ……ん?

 また何を言っているんだこの女は。そんな思考回路になるなんて本当こいつは都合のいい脳みそして……

「西園さん……」

「え、華弥子?」

 おい華弥子、お前もか。なんで感動に身を震わせられるんだよ、なんで目をキラキラさせてるんだよ。俺が言うのもなんだけど、お前らそれでいいのかよ。

「……ねえ、あの」声をかけても、ふたりは自分たちの世界に入り込んでいるようで、まったく聞く耳を持とうとしない。というか、そもそもないのかもしれない。

「大丈夫です、私は百合漫画にも多少精通しているので!」

「……ん? 待ってユリって何?」

 ねえ、と声をかけると、西園は「百合に挟まる男は四肢をもがれて極刑に処されるんですよ‼」と言い放ってきた。えぇ……なにそれ、怖い。

「さぁ、澤邑先輩」

 西園と華弥子は手を取り合い、立ち上がる。キャッキャッと仲睦まじく楽しそうにしながら、二人とも妙に清々しい顔で公園を出て行った。

「……何だったんだ」

「嵐だろ……」

 ハァア、と大きなため息を吐く。そういやあいつら、支え合うとか言っておきながら端道はしっかりハブってたな。かわいそうな奴、なんて思いながら端道の方を見ると、端道は端道で俺たちの方を眉間にしわを寄せながら見つめてきていた。

「……マジだったんだな」

 おそらく、分裂のことだろう。「そうだよ、信じられねえとは思うけどよ」と返すと、端道もさっきの俺たちと同じような大きいため息を吐いた。

「はぁ、クソが……言っとくが杢葉、俺はお前を諦めねえぞ」

 一瞬充を睨みつけると、俺を指さし、真剣な表情でそう伝えてくる端道。

「うーん、ダサいパンツ履いてる奴はちょっと」

「てっ、テメエ!」

 顔を真っ赤にして俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてくる端道を見て、「おい!」と充が俺の腕を引き寄せる。端道の手は空振りし、虚空を引っ搔いただけだった。

「すッ、睡蓮は! 睡蓮は、俺のモンだぞ!」

 威嚇する犬か猫のように睨みつけてそう言っているが、言い慣れていないせいで声が裏返ってるし、なんなら端道以上に顔が真っ赤だ。

「……うん、そうそう」

 俺が頷けば、端道はカッとこめかみに青筋を立てた。表情は完全に怒っているが、今にも泣き出しそうに目を潤ませている。「クソがッ!」と吐き捨て、そのまま走り去った。あいつが落としていった涙が、キラキラと反射して足跡代わりに地面にシミをつくった。

 なんか、初めて端道のことを憐れんでる気がする。何度アタックされても振り向く気はさらさらないが。

「……ん、あのさ……」充が小さな声で、もにょもにょと曖昧なしゃべり方をする。

「ん? なに、どした?」

「今は勢いで言っちまったけど、俺たちって、その……付き合う、ってことでいいわけ……?」

「……あー」改めて考えてみると、恥ずかしさが募ってくる。言われてみれば確かにそうだ、両想いなんだし、流れ的には付き合うことになるよな……?

 充はというと、恥ずかしそうにしながらも期待に満ちた目を向けてきている。かわいい、と反射的に変な声が出そうになり、下唇を噛んでやり過ごした。

 なんだこいつ、すげーかわいいぞ。いや、前々から顔は結構イイと思ってたけどよ……なんか急にすごいかわいく見えてきた。なにこれ? 恋するとみんな視界がこうなったりすんのか? すげえなコレ。

「……これは俺から言いてえから言うけどよ」

 充の腕を解き、ちゃんと身体を向き合わせれば、充はきょとんとした表情で俺を見てくる。あー、と意味もなく発声練習をした。

「──好きだぜ、充。 俺と……俺と、付き合ってくれ」

 充は俺の言葉に驚いて、一瞬目を見開いた。かと思うと、すぐさまその目から涙が溢れ出す。オイオイ、また泣くのかよ、と手に持っていた『睡』のリボンでそれを拭った。涙が滲み、そこから布の色が濃くなっていく。

「お前……こんなので拭くなんて、出会った時と全然変わってねえよな」

「うるせえな……で、返事は? どーなんだよ」

 拗ねたふりをして唇を尖らせる。充はまだ止まらない涙を拭い、赤い目のまま笑った。

「……うん。 俺も、睡蓮が好きだよ」

 また一粒、充の瞳から涙が零れ落ちた。

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