第7話 親〈best friend〉友

 怪我はすっかり治り、なんとか登校できるまでに回復した。まだ肋骨のあたりは痛むが、どうやら折れていたわけではなかったらしい。だけど母さんからは「しばらくは喧嘩なんてするな」と釘を刺されてしまった。

 ずっとベッドにいたから暴れたいのに、なんて考えながら学ランに腕を通す。そんなに日が経っているわけじゃないのに、学ランを着た感じは妙に懐かしく、少し窮屈にさえ思えた。治りかけの傷がかゆくて、ついつい絆創膏の上から指でかいてしまう。

 部屋を出ると、同じタイミングで睡も隣の部屋から出てきた。すっかり傷跡を隠すのにも慣れたのか、毎日少しずつ準備時間が短くなっているようだった。

「よお、睡」手を上げて声をかける。

 だが睡は何も返事をせず、じっと俺の方を見つめてくるだけだった。見つめてくる、よりも、睨みつけてくる、と言った方が正しいかもしれない。

「オイ、なんだよ」顔を覗き込むように距離を詰めた時、睡は驚きの言葉を発した。

「アタシ、充のことが好きだから」

「……は?」

 その言葉に虚をつかれてしまった俺は間の抜けた変な声しか出せず、睡はそのまま俺の横を通って下の階に下がっていった。

「……なんだよ、それ……」

 

  *

 

 充に出会ったのは、高校に入学して二ヶ月ほど経った頃だった。俺は番長である図部さんに運良く気に入られ、舎弟として少しずつ学校内外にも名前が広まっていた。

 夏が到来し始めていたその日、俺はたまたま上級生たちが固まって何かをしていたのを見かけた。

 そいつらは図部さんとは対立関係にあり、正直言って俺も嫌いだった。リンチ、窃盗は当たり前、下に見た奴らのことはとことん痛めつけるような奴らで、校内でも評判は良くない。様子を見るにどうやらまた誰かをいじめているようだった。

 やるならタイマン、リンチはご法度。それが俺のルールだ。迷わず駆け出した俺は、拳を振りかぶったひとりの頭にその勢いのまま飛び蹴りを食らわせた。変な声を発し、そいつはその場に崩れ落ちる。

「なんだテメェ!」

「リンチなんて汚ねえな、やるならタイマンでやれよ。 なァ、先輩方?」

 突然のことに狼狽えるお仲間たちを睨みつける。そのうちひとりが「コイツ、図部の腰巾着の一年だ!」と声を上げた。

「お? 図部さんバカにすんなら相手になるぜ」

 ゴキ、と指を鳴らす。うぅ、と唸って連中は後退りし、最初に倒した男を引きずって逃げて行った。最後に「馬鹿野郎!」なんて吐き捨てていたが、負け犬の遠吠えにすぎない。

「おい、大丈夫か?」先ほどまでリンチされていた男に手を差し出す。

 頭を抱えて蹲っていたが、俺の声を聞いて怯えた様子のままゆっくり顔を上げた。

 濡れたような艶のある黒髪は乱れ、整った顔は血や泥で汚れている。鼻のあたりが赤く腫れ、鼻血も出ているようだった。襟の部分に付けられたバッジは俺と同じ『壱』の文字が彫られている。同学年か、見たことねえ奴だな。

「あ……ありがとう」

 俺の手をとったその手は柔らかくて、喧嘩慣れしていないのはすぐにわかった。

「お前、鼻血出てんぞ」

「え、あぁ……」

 ぐいぐいと無理に拭っているが、そんなことで鼻血が止まるわけがない。あの柔らかい掌に血が広がるだけだった。

「あぁもう、そんなんしても止まるわけねえだろ」

 えーっと、と自分のポケットを漁る。普段はティッシュやハンカチなんて持ってないのだが、たまたま白い布が入っていた。

「ほれ」いつの鼻に無理矢理押し付ける。相手は頭を下げてその布に手をやった。

「大丈夫か? 保健室連れてってやるよ」

「あり、がとう……ん?」

 鼻を覆いながらも、血がついた布を少し広げられる。細長い形のそれは、ハンカチやタオルとは全く違う姿をしている。あ、と口から小さく漏れた。

「……これ、何の布?」

 くぐもった声をしながらそいつは質問してきた。あー、と少し躊躇い、白状する。

「それ、サラシ」

「……さらし?」

「腹に巻いてたんだけどよ、暑くてさっき外したんだ」

 そう。俺は汗で蒸れたサラシを、人様の顔面に押し当てたのだ。つい反射で渡してしまったが、考えてみりゃ普通に奇行だ。気付かれる前に保健室に連れて行こうと思ったのに……勘の良い奴め。

「ん、ふ……あははッ!」

 だけどそいつは怒るでも引くでもなく、鼻血にまみれたサラシを手にしたまま大笑いし始めたのだ。堪えきれないのか肩を跳ねさせ、大口を開けて笑っている。

「サラシって! アハハハハ、やば、ツボった、むり」

 ゲホゲホと咳き込みながら笑うそいつは、こんなに愉快なことはない、とでも言いたげにずっと笑っていた。

「んな……んな笑うことかよ!」

「いや、悪い。 だって、面白すぎんだろ……」

 笑ったせいで余計に広がった鼻血を拭い、そいつは俺の方に向き直した。

「はぁ……お前、名前なんてーの?」

「あ? ……杢葉、睡蓮だけど」

「杢葉睡蓮って……あの杢葉?」

「ん、知ってんのか?」

 ああ、と頷くそいつは珍しい生き物を見たような目をしていて、やっぱり俺は有名人なんだな、とつい鼻を鳴らしたくなった。

「図部さんの舎弟で……そんですげえ強くて、すげえバカって有名だぞ」

 ガク、と身体のバランスが崩れる。強いはともかく、バカって何だよ!

「誰だ、それ言ってたの! ブッ飛ばしてやる!」

「俺が聞いたのはクラスの奴からだけど、図部さんがそう言ってるって聞いたぞ」

「図部さん……」

 なんだあの人。たしかに俺は勉強ができる方ではねえけど、この学校ではマシな方だぞ。

 ハァ、と溜め息を吐き、「お前は?」と名前を訊ね返した。

「日野充。 よろしくな、睡蓮」

「ケッ……充、お前喧嘩初心者だろ。 仕込んでやるよ」

「別にいらねえよ、痛いのは嫌いだ」

 それが、俺と充の出会いだった。

 

 

 一年の暮れにもなると、俺と充はすっかり親友にまでなっていた。元々センスがあったのか喧嘩も強くなり、裏表なく真っ直ぐな気性の充は図部さんにもすぐに気に入られた。

 そんな充との関係は俺にとっても心地よかった。

 充は、ベラ高に来るには優等生すぎる奴だった。それもそのはず、元々は秀麗高校に推薦で合格していた奴なのだから。秀麗高校といえば、この辺じゃ偏差値もトップクラスの進学校だ。その学校に推薦で合格なんて、相当優秀なはずだ。

「それがお前、なんだってまたベラ高なんかに来たんだよ」

 秀麗高校、というのに驚いて、思わず俺は思ったままを口にしてしまった。充が気まずそうに視線を泳がせて、初めて自分が何かしら地雷を踏んだことに気付いた。やべ、と思いながら他の話題を探そうとするが、そのうち充はぽつぽつと語り始めた。

「俺、元々いろんなことが人並みでさ……その中でも勉強はまあ、人よりちょっとできる、って程度だったんだよ。 でも、卑怯な奴見ると放っておけねえタチでさ」

 話を聞くと、充はやっぱり中学でも優等生だったらしい。そしていじめなどを見て見ぬ振りができない性分だった。いじめやリンチなんかを見るとつい突っ込んでいっちまうことも多く、そのおかげかそこそこ人望もあったという。

「でもまあ、いじめっ子や不良からしたら俺みたいなのはうぜえわけだ」

 充が秀麗高校に合格した時、もともと充をよく思っていなかった不良たちの反感を買ってリンチに遭ってしまった。それでも充は、満身創痍になりながらも多勢相手に辛勝したらしい。

「ま、今思えばあんなのはガキ同士の小突き合いみてえなもんだったけどな」なんて充は笑ったが、俺は眉間にしわを寄せて黙って聞くことしかできなかった。

 だがその不良グループのリーダーの親は地元でも権力者で、その圧力によって充が一方的に暴力事件を起こしたことにされてしまった。そのせいで推薦も取り消しになり、その時の充には定員割れになったベラ高しか選択肢がなくなっていた。

「正直、最悪だと思ったよ。 母さんも父さんもショック受けて泣いてたし、こんな不良ばっかの学校、なんて思ったりもした。 正直、入学して最初の頃は辞めたくて仕方なかった」

 そりゃそうだろう。不良のせいで、不良の学校にぶち込まれることになるなんてたまったもんじゃない。秀麗高校とベラ高なんて、治安も偏差値も天と地のほどの差がある。

 でも、と充は続けた。

「ベラ高に来て良かったよ。睡蓮に出会えたんだから」

 そう言って笑った。その言葉に気を良くした俺が「運命の出会いに感謝しろよ」なんて言ってみせれば、充はそうだな、と笑った。

 

  *

 

「杢葉さん!」

 学校に来ると、いつも以上にベラ高の連中が俺の周囲に群がってきた。おそらく、端道を倒したことが広まったのだろう、あの日屑ヶ谷にきた連中もいれば、いなかった奴も関係なく道を塞いで尊敬の念を次々口にしていく。

「あの屑ヶ谷の番長を倒すなんて流石です!」

「やっぱ俺らの番長だもんな、一生ついて行きます!」

「あの女の子誰ッスか⁉ 紹介してください‼」

 なんか今変なのいたな。

「あぁもう、いちいち騒ぎ立てんじゃねぇよ」

 無理矢理隙間を作って進んでいく。それでもやっぱり混み合っていて、教室につくまで大分時間がかかってしまった。教室に着いてもやっぱりクラスメイトたちがわっと群がってきて、なんか、動物園の餌とかになった気分だ。

 だけど、一人だけ俺の方に寄ってこない奴がいた。充だ。

 いつも通り自分の席に座り、机に顔を伏せている。この騒ぎの中なら起きそうなモンだが、それがかえって俺に不信感を抱かせた。充はよく寝てはいるが、喧噪の中寝続けられるような図太さはないのだ。

 まぁたまたまだろう、とは思いながらも、「オイ、充」と机を軽く蹴って声をかけてみる。それでも充は顔を上げず、「んー」なんて寝言なんだか返事なんだかよくわからない声を発するだけだった。

 なんだ、こいつ。変なの。

 

 

 充の様子は、一日ずっとおかしかった。常に俺の横を当たり前みてえな顔して陣取っているくせに、今日は話しかけてみても適当な返事をするばかりで、場合によっては話しかけようとすると逃げ出す始末だ。

 ずっとそんな態度なモンだから、俺も苛立ってくる。怒らせたんなら謝りてぇから無視されても困るし、なにより親友に避けられるのは、流石に俺でも堪える。

「充、お前今日どうしたんだよ?」

 昼休み、思い切って充に聞いてみた。充はそっぽを向いたまま「別に……」と機嫌悪そうに返事するだけで、俺の中で募っていた苛立ちは、怒りとなってあふれ出した。

 ゴン、と強めに机を叩くと、充は肩を跳ねさせてようやくこちらを見た。俺のその行動に後ろで騒いでいたクラスメイト達も驚いて静まり、背中にたくさんの視線が刺さる。

「充ぅ……テメェ、いい加減にしろよ」

 胸倉を掴もうと手を伸ばす。だが充は後ろに下がって俺の手から逃げ、そのまま立ち上がった。おい、と今度は肩に手をやるが、それもサッと避けた。だが眼だけは俺を捉えていて、じりじりと後ずさって逃げようとする姿は野良猫のようだった。

「コラ、充」

 思い切って腕を広げ、胴体を捕まえようとする。だが今度は普通にそれを跳ねのけられ、こんなのを繰り返すうちにさらに充の考えていることがわからなくなっていく。

「な、なにが起きてんだ……」

「わかんねえ……」

 ボソボソと後ろから声が聞こえてくる。俺でも何をやってるのかわからなくなってきてんだから、他の奴らにわかるわけがない。

 膝を曲げ、脚に力を入れる。充は一瞬視線を下げ、俺と同じように軽くかがんだ。

「充……」

「……」

 少しの間、互いに相手の四肢のわずかな動きも見逃さないというようにタイミングを計る。膠着状態にある俺たちのせいか、教室の空気がビシッと張り詰め、唾を飲む音まで聞こえてきそうだった。

 そんなことをしているうちに昼休み終了のチャイムが無機質な音で響く。

 その瞬間、俺は充の方に向かって飛び出した。充は一瞬遅れて駆け出し、扉を開けて教室から出ていく。素早く閉められた扉を蹴れば、けたたましい音を立てて外れて前方に吹き飛んでいった。隣の教室に入ろうとした先生が悲鳴を上げて転んだが、俺は小さくなっていく充の背中を追いかけた。

「待てコラァ‼」

 どんどん近づいていく。一瞬視線だけ振り返った充はやべ、と唇を動かし、適当な教室に飛び込んだ。俺もそれになぞってその教室に入る。

「うわっ⁉」

「杢葉さんと日野さんだ!」

「な、なんだお前ら‼」

 喚くそいつらを無視し、充はベランダにつながる扉に身体を滑り込ませてベランダに出た。俺はぐちゃぐちゃに並べられた机の上を飛び石代わりに伝う。たまたま開いていた窓から俺もベランダに出て、さらに充を追いかけた。

「コラ、充! なんで逃げンだよ⁉」

「睡蓮が追いかけて来るからだろ‼」

「止まってもどうせ逃げるクセに‼」充はさらに逃げ、俺はさらに追いかける。

 息が上がる。身体が熱い。腕も脚も痛むし、端道にやられた肋骨も軋むようだった。

 なんでこんなことしてるんだ、と改めて考えるが、考えれば考えるほどわからなくなってくる。今はただ、脚が千切れても充を捕まえなければ、という思いに囚われていた。

 ベランダを駆け抜け、行き止まりに来た時にまた校舎内に入った。今度は空き教室になっていて、ラップが張られただけの窓は簡単に破って侵入できる。

「わっ!」

 置かれていた備品に足を引っかけた充は、勢いのせいもあって盛大に転んだ。

「へへ、追い詰めたぜ」

 俺は充の上に覆いかぶさった。充は抵抗して殴ったり蹴ったりともがくが、逃げられないようにがっちり捕まえて馬乗りになった。

「充! なんで逃げたんだよ!」

「うっ……うるせえな! お前が追いかけて来るからだって言っただろ!」

「いでッ! テメッ、好きで追いかけたわけじゃねえよ、このバカ!」

「バカはお前だろ⁉ ぐっ……」

 今まで充と喧嘩したことなんてなかった。そりゃ多少言い合いしたことくらいならあるけど、こんな風に殴り合うことなんてしてこなかった。

 だけど今は、いつもやっているような激しい喧嘩じゃなくて、ガキみてえな暴言とめちゃくちゃに拳を振るい合ってるだけだった。

「うわっ、お前ら何してんだ?」

 驚いた声をあげて俺たちを見下ろしていたのは、五味先生だった。片耳だけ着けたイヤホンがだらりとぶら下がり、手には新聞と赤いペンを握っている。まさかこの人、ここで競馬の中継でも見てたのか?

「ご、五味センセ……」

「おいおい、お前ら……ん?」

 五味先生は俺たちのことをじっと観察したと思うと、ハッと目を見開いた。

「あぁ~、いや。 悪いな、お前らがそういう関係だったとは知らなんだ……」

「……は?」

「いや、いいんじゃねえか? そういう時代だよな、うん、先生は応援するぜ!」

 なんか変な勘違いしてねえか、このオッサン。

「あ、でも……男同士でも防具は必要だから気をつけろよ?」

「防具ってなんだよこのセクハラ親父‼」

「そりゃお前防具ってのは」

「言わんでいい!」

 立ち上がり、ひどい勘違いをしている五味先生に詰め寄った。充も一緒になって五味先生に睨みをきかせている。

「何勘違いしてんのか知らねえけど、少なくとも今アンタが考えてるようなことはしてねえからな⁉」

「本当だよ‼ 今日び生徒にそんなこと言ったら一発アウトだぞ!」

「あ、なんだぁ」

 ほっとあからさまに安堵の息を吐く五味先生。「さすがに校内での不純同姓交友はよくねえからな」なんて言ってるが、結局わかってんだかわかってねえんだか……

「まあなんだ、夫婦喧嘩は犬も食わねえってな! ほどほどにしとけよ~」

 そう言ってハハハ、と笑う五味先生。だが俺と充はその発言に固まり、ぽかんと口を開けているのに何も言えなくなってしまっていた。

 充の方を見る。充も同じタイミングで俺の方に顔を向け、目が合った瞬間じわじわと顔が赤くなっていった。俺の顔も、それどころか耳や首まで熱くなってるから、同じような色になっているかもしれない。

「え……何? ひょっとしてお前ら、マジで……」

「ち、ちが……ッくねえけど、違うからな!」

「どっちだよ⁉」

 充は気がついたように顔を上げると、そこから逃げ出してそのまま廊下を駆けていった。

「あのやろ、また……!」

 俺は五味先生から手を放し、また充との鬼ごっこを再開する羽目になった。

「充! お前また逃げやがって!」

「うるせえ! もう自分でもよくわかんねえんだよ!」

 ざわざわと騒ぎながら教室から顔を出した野次馬たちに見られながらも、俺と充は気にせずに走り続けた。

「待てよ! 逃げるほど俺が嫌いかよ!」

「んなわけねえだろ! だから自分でもわかんねえって言ってんだよ!」

 そのまま階段を昇っていく。今までの疲労に加え、充に殴られた傷や端道にやられた傷が痛んで苦しいが、がむしゃらに充を追いかけた。充は充で判断力が鈍っているのか、立ち入り禁止のテープを飛び越えてその階段を昇っていってしまった。

 しめた、この先は俺のテリトリーだ。充の野郎、この先の屋上が施錠されてるって忘れてやがるな。

 階段を昇りきると、そこにはどうにか扉を開けようと体当たりする充がいた。

「もう観念しろや、充」

 俺がわざと足を鳴らしながら近付くと、充ははっと顔を上げた。

「す、睡蓮……」

「屋上が封鎖されてんのは知ってんだろうが」

 充は何も答えずにそこから逃げ出そうとするが、「待てよ」と制止すれば難なく捕まえられた。腕をつかんで自分の方に引き寄せると、もう逃げられないことを悟ったのか、充は脱力して「ごめん」と小さく呟いた。

 急にしおらしくなった充を見ているとなんだか俺も毒気が抜けてきて、はぁ、とひとつ息を吐いた。

「充、お前、屋上に出たことあるか?」

「は? ……ねえに決まってんだろ、いつも施錠されてんだから」

「ふうん……」俺は充の腕から手を離し、いつも通り決まったタイルを剥がした。埋まっている鍵を取り出し、充の眼前に掲げる。

「お前、もしかして」

「ん。 コレ、ここの鍵」

 驚いて目を見開く充を横目に鍵を開ける。そのまま充を屋上に押し出し、俺も扉の先に足を踏み出した。少し湿った風が吹いている。充は俺から逃げてたことなんて忘れているように、ただただ今まで未知の空間だった屋上に感動している。

「すげえ……初めて屋上来たよ」

「だろうな、ここの鍵は俺しか知らねえから」

「そもそも、なんで睡蓮が屋上のこと知ってんだ?」

 俺は、番長を継いだときに図部さんから言われたことをそのまま話した。屋上の鍵を何代か前の番長が盗んだこと、以来ここが番長だけの憩いの場になっていること。

「それ……俺に話してよかったわけ?」

「よくはねえよ、本来なら番長だけに伝わる秘密だからな」

「じゃあ、なんで教えてくれたわけ?」

 俺は錆付いたフェンスに寄りかかり、少し言葉を探してから答えた。

「……お前のことは、そのうち連れてくるつもりだったんだよ」

 そう、充にはこのことを話したかった。別に隠し事をしたくないとかそんな理由ではなく、なんとなく充にもこの場所を知ってほしいと思ったのだ。骨の浮いてるソファだとか、趣味の悪いエロ本だとか、そんな他愛もないことを、充と共有したい、なんて考えていた。

「ま、それだけじゃねえけどな」

 こっち来い、と指を振って誘導する。簡易的だが屋根の付いたソファを見た充は、「こんなモンまで……」と感動を通り越して呆れ返っていた。

「いーから来い」ソファにどかっと座り、充にも隣に座るよう促す。

 充は遠慮がちに視線を泳がせるが、観念したように俺の隣に座った。やっぱりヘタッタクッションが心地悪いのか、眉をひそめている。

「んな怯えんなよ、とって食おうってわけじゃねえんだ。 ……で、お前。 なんだってさっきは俺から逃げ回ってやがったんだ?」

 思い切って切り込んでみた。充は下にしていた視線を一瞬俺の方に向けると、狼狽えて立ち上がろうとした。おおかたまた逃げ出そうとしているんだろうが、ここまで来てみすみす逃がしてやるような俺じゃない。

 乱暴に充の胸ぐらを掴み、ソファの方に引きずり下ろす。逃げられないように背もたれに空いた方の手を置いて囲うと、改めて充の顔を自分の方に引き寄せた。

「テメェ大概にしろよ。 俺だって秘密を話したんだから、お前のを聞く権利があるぞ」

 充はうぅ、とひとつ呻くと、「わかった、わかったよ……」と観念したように手を上げた。

「とりあえず、どいてくれよ……近いんだって……」

 気まずそうにしながらも頬を染めた充の様子を見て、今の距離感にがおかしいことに気づいた。相手を凄む時ならいつものことだが、照れている充を見て俺もなんだか恥ずかしくなってくる。

 充の上からどくと、充は少しずつ順を追って話し始めた。

「睡に……どっちが好きなのか、って聞かれたんだよ。 睡蓮と睡、どっちが、って……」俯き、申し訳なさそうに眉を下げている。その様子を見るに、あんまりいい回答はしなかったのだろう。

「それで、俺……答えられなかったんだ。 俺が好きなのは睡蓮だけど、じゃあどっちも睡蓮ってなると、やっぱりさ……」

 充の言わんとすることはわかる。俺だって同じ状況になったら、充と同じような態度をとってしまうかもしれない。

「そしたら、俺、その……」

 もごもごと口の中で何かを言っているが、上手く言葉として聞き取れない。俺はその煮え切らない様子に少し苛立ちながらも、催促することなく充の言葉を待った。

 充は覚悟を決めたように深く息をひとつ吐き出すと、俺の方に顔を向けた。そのまっすぐな視線は、告白してきた時のそれと同じだった。

「キスされた。 睡が、俺にキスしてきたんだ」

「……あぁ?」

 ガン、と頭を殴られたような感覚だった。キス? 充に、睡が? キスってあれだろ、魚じゃない、あの、アレだろ? 唇同士をくっつける、やつ。

 思考がどんどん真っ白になっていく中、わずかに残った冷静な俺が睡の様子がおかしかったのもそのせいか、と呟いた。何も言わなくなった俺を見て申し訳なさそうに俯く充。

 いや、いや、燃え尽きてる場合じゃない。頭を二、三度大きく振って充に向き合った。

「テメェ、黙ってやられたってのか⁉」

「やられたってなんだよ!」

「油断してる時こそ奇襲仕掛けられるって何度も教えたろーが!」

「キスのこと奇襲って言う奴お前くらいだぞ!」

 俺の心の中はもう、再度湧いてきた充の態度に対する苛立ちとか、今朝の睡の一方的な発言とか、充にキスした睡への嫉妬とかとか、そんなのでぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。

「ッ……なんだよ、それ……」

 ガキみてえな感情だとはわかっているが、俺は悔しくてたまらなかった。女だから堂々と充の隣を歩けるはずの睡が、自分なのに憎くて恨めしくて、そして何より、羨ましかった。

「睡蓮、お前……うわっ⁉」

 俺は感情に任せるまま、充の顔を掴んだ。そして自分の方に無理やり引き寄せると、ビビッて目を瞑った充の唇に──

「……ッ」

 ──キス、できなかった。

 怖気づいたわけじゃない。ただなんとなく、こんなことをしたくないと思ってしまったのだ。薄く開いた目から見える充の顔は、どこか不安げな表情を湛えていた。そんな顔をされてしまうと、したいもんも出来る訳がない。

 俺は充の顔から手を放し、ソファから立ち上がった。

「……睡蓮」

 充はなにか俺に言おうとしたが、結局何も口にせず俯くだけだった。そのせいもあって、前と似た、居心地の悪い沈黙が屋上に広がっていく。

「……睡がよ、お前のこと好きだとさ」

「え」

 フォローのつもりでもなんでもないが、俺は聞いたままのことを充に伝えた。充はようやく顔を上げ、また俺の方を見た。俺も充の方に向き合い、言葉を続ける。

「俺も……いろいろ考えたよ。 なんで充に告白されてから変なのかってな」

 そう、ずっと変だった。睡との間に漂う妙な空気に違和感を抱き、俺が西園に告白されても眉ひとつ動かさなかった充に苛立った。そして端道との決闘の時、俺を不安げな表情でも見守ってくれる充に対して、変な幸福感を覚えた。

「充、俺さ──」

 風が吹く。湿った空気を割るような、爽やかな風だった。充は俺の言葉を固まった表情で待っている。たった二文字を伝えたいだけなのに、時間が流れるのが遅く感じる。

 その時、俺の携帯が鳴った。初期設定のままの耳障りな着信音が、俺たちの神妙な空気をぶち壊してしまった。

「……んだよ」

 着信は小柴からだった。タイミングの悪さに開口一番怒鳴ってやりたくなったが、あくまで冷静に対応する。

《杢葉さん、日野さんてどこにいるか知ってますか?》

「充? 今一緒にいるけど」突然自分の名前が挙がったことに、充は首をかしげた。

《いえ、そうじゃなくて……日野さんに会いたいっていう女の子が来てて、でも日野さんどこにいるのかわかんないんですよ。 杢葉さんなら知ってるかなって》

「……あぁ、ちょうど今一緒にいるから、連れてくよ」

《じゃあ、校門のトコにいるんで、あとはよろしくお願いします!》

 小柴の声を聞いて通話を終了させると、急に身体から力が抜けていった。それは充も同じらしく、背もたれに身体を預けてため息を吐いている。


 *


「睡蓮様!」

 校門まで行くと、そこには例の西園美波がいた。睡かとも思ったが、考えてみればアイツは連絡もなしにわざわざこんなとこまで来ない。ベラ高に女ひとりで来るなんて、ライオンだらけの檻に肉を一切れだけ入れるようなものだ。

 俺を目にして笑顔を咲かせると、こちらの方に寄ってくる。俺たちを呼び出した小柴は軽くこちらに会釈をすると、校舎の方に戻っていった。

「で……何、今度は何の用? わざわざ昼休み抜けてきたのか」

「いえ、午前授業だったので。 ……それに、今日は睡蓮様に用事があるわけではないんです」

 西園は充の方に身体を向け、「あなたに用があるんです」と言った。充は先ほどと同じように首を傾げた。西園は眉間にしわを寄せ、衝撃の言葉を放つ。

「あなた、もしかして私に気があるんですか?」

「は?」

「あん?」

 今度は何を言っているんだろう、この女は。呆れて口を開けたまま充の方を見ると、充も鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

「み、充……」

 俺に声をかけられてハッと我に帰った充は、「ち、違うぞ⁉」と謎の言い訳をし始めた。わかってるけど、と俺が言う前に充は西園の腕を掴み、「ちょっと来い」と走り出す。

「オイ、充!」

「睡蓮はそこで待ってろ!」

 なんかデジャヴだな、前と立場が違うけど。そんなことを思いながら、俺は二人と距離を開けてこっそり後をつけて行った。



 充が足を止めたのは、前に俺が西園を連れてきた例の公園だった。そして前とまったく同じ場所で向かい合ったふたりを確認すると、俺は入り口の木陰に身を潜めてふたりの会話に耳を傾けた。途切れ途切れだが、充分声が聞こえてくる。

「なんだって、俺がアンタのこと好きだと思ったんだよ?」

 充はハッキリとそう言い切った。西園の表情は見えないが、おそらくまた自分の世界に浸っているんだろう、ということはなんとなくだが想像できる。

「私が睡蓮様に告白したあの日、あなた、私のことを一瞬睨み付けてきましたよね?」

 ……え? そうなの? 俺も気付かなかったことに、なぜ西園は気付けたんだろう。

「……」充は眉を顰めながらも、黙って西園の言葉を聞いている。

 どうやら話を聞くに、充はあの日、俺に告白してきた西園に対して一瞬だけ敵対心を向けていたらしい。俺はなんとなく理由がわかったが、西園は西園でなにか盛大に勘違いをしているようだった。

 それにしても──そうだったのか、俺が気付かなかっただけで、充も充で嫉妬してたのか。なんて、状況に似合わない嬉しさがじわじわとこみ上げてきて、頬が緩む。

「ふたりの男性から取り合いされるなんて……少女漫画みたいで素敵ですが、でも私は睡蓮様一筋なんです!」

 西園のとんちんかんな発言に思わずそうじゃねえよと突っ込みを入れたくなるが、充が「いや、別にアンタの事が好きなわけじゃねえよ⁉」とでかい声で俺の代わりに突っ込んだ。

「じゃあ、あの時の表情はなんだったんですか?」

「それは……」充は屋上の時と同じように、言いづらそうに視線を泳がせていた。だが今度はすぐに答えを出す。

「……俺は、睡蓮が好きだからだよ」

 その言葉に、ドキ、と胸が鳴る。自分の中で新鮮な甘い感情が湧いてきた違和感の中、充に好きと言われると嬉しくなってしまう自分に気付いた。

 やっぱり俺は、充のことが……

 改めて自分の充に対する感情について考えていると、それを邪魔するかのように甲高い悲鳴が聞こえ、それと同時にバサバサッとカラスやら鳩が飛んでいった。声の主は大体想像がつくが、一応確認する。

 充は胸に手を当て、お化け屋敷で驚かされた奴のような表情を西園に向けていた。やっぱりあの声は、西園だったか。

「BLにおいて女は当て馬確定なのに……」

 またあの女は、変な方向にショックを受けているようだった。てか、びーえるって何? 何の話? と充の方を見たが、充も充でわかっていないようだった。

 西園は俯いてぷるぷると小刻みに震えたかと思うと、バッと顔を上げて「絶対負けません!」と先ほどの悲鳴よりも大きな声で意気込み、そのまま走り去って行った。

 その背中を目で追い、姿が見えなくなると、充はため息を吐いてベンチに座り込んだ。俺も充と同じタイミングでため息を吐く。

 なんだアイツ、相変わらず嵐みてえな女だな……なんて思いながら、改めて自分の想いについて考える。充に伝えられなかったその言葉を、まるで他人事のようにぽつりと呟いてみた。

「……俺は、充が好きなんだな」

 自分で発したその言葉は、胸の奥にすとんと落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る