第6話 自〈awareness〉覚
睡蓮と端道との対決から、二日が経った。
睡蓮は怪我のせいで熱が出て、安静のために数日安静にするよう言われたらしい。あれだけ激しくやり合ってたくせに、次の日には熱にうなされながらも「焼肉が食べたい」なんて言っていた。我ながら……いや、今はアタシの身体ではないけれど、とにかくかなり丈夫な奴だと思う。
アタシはというと、「また拉致られる可能性があるから」という理由で、未だに充が家まで迎えに来ている。さすがに学校まで来られるのは困るから、帰りは適当な場所で待ち合わせをしているが。
そもそも拉致されたのはパンツを見られたからだが、そんなこととてもじゃないけど口にできないので甘んじて受け入れている。一応あれ以来、スカートの中のことは気をつけてはいる。
「そういやさ……睡蓮のやつ、芍薬牡丹のコに告られたって?」
端道との決闘の後、端道に告白された睡蓮が言い訳のように「女にだってモテんだぞ」と話していた。充が「あぁ、うん」と生返事のような返事をする。
「睡蓮、なんか最近モテるよな」
ため息交じりにそう呟く充は、元気がないように見えた。その表情を見ていると、説明できない嫌な感じが胸の中に生まれ、この話題を出したことを後悔した。
「……いや、アタシも睡蓮だって」お前は忘れてるみたいだけど、という嫌味を付け足せば、「そうだった」と困ったように充は笑った。
「でもやっぱ、同一人物には見えねえんだよな。 男と女だし」
眉を下げながらも充は笑ったままだ。そのヘラヘラした態度が気に食わず、アタシの中ではモヤモヤが増す一方だった。
確かに、今のアタシは女の姿だ。だけどただそれだけのこと。落雷のあの日から、『杢葉睡蓮』としての意識を失くしたことはない。
自業自得とわかりながらも苛立ってしまう。そのまま気持ちを乗せて足を速めた。
充に「おい、先に行くなよ」と制止されるが、充と一緒にいるときっとこの嫌な感情は増すだけだろう。言葉を無視してさらに足を進めた。
そのまま角を曲がろうとしたとき、同じように角から出てきた人にぶつかってしまった。
「あッ……す、すいません!」
軽くぶつかっただけだが、アタシの不注意だ。素直に頭を下げる。
だけど相手が悪かった。柄シャツにゴツいアクセなんてテンプレな派手な身なりをしたそいつは「うわぁ~いってぇ~!」と大げさにぶつかったらしい腕をさすり始めた。
「オイ、大丈夫かよお前~」
「いやー、これダメだわ。 折れてるかもしんねー」
「うわ~、こりゃお嬢ちゃんに詫び入れてもらわねぇとなぁ~」
横にいたお仲間らしき似た格好のふたりが棒読みの大根演技でそいつを心配し始めた。
テンプレに次ぐテンプレかよ。そんなわかりやすい手法でいいのかとこっちが不安になってくるな。
アタシに追いついた充はいち早く状況を察知したようで、「ほらな」と言いたげな視線を送ってきた。うるせえな、とそれを払うように手を振る。
はー……と溜め息を吐いた充が「あの」とアタシの一歩前に踏み出た。
「俺見てましたけど、そんなに強くぶつかったわけじゃないですよね?」
「あ? ンだお前、関係ねえ奴がしゃしゃってんじゃねえよ」
腕が折れたらしい男が充に詰め寄る。それもう相手見えてねえんじゃねえの?って聴きたくなるような距離だが、充は「ツレなんですよ」と冷静に対応している。
「フン、そこの嬢ちゃんには詫び入れてもらわねえといけねえんだよ」
「睡、お前ちゃんとごめんなさいしてねぇのか?」
「ううん、した」
「んじゃあこれで詫びってことに」
「ならねえよ!」
調子狂うぜ、と面倒くさそうに呟きながら、思い出したようにアタシの方に視線を向けてくる。反射的に一歩下がるが、嫌な視線は向けられたままだ。じろじろと舐めるようなゾッとする視線を上から下まで泳がせると、気色の悪い笑みと猫なで声を発した。
「よく見たらお嬢ちゃん、結構かわいいじゃねぇの。 こんなつまんなそうなガキじゃなくて、お兄さんたちと遊ぼうぜ~?」
手法といい言葉選びといい、あまりにも古典的なナンパだ。未だにこんなことする奴いるのか、と感心すらしてしまう。だがそれよりも先行して「めんどくせ」という声が小さく漏れてしまう。
「なんだとこのアマ!」
運悪くそれが聞こえていたらしく、やべぇ、と慌てて口元を覆うが時すでに遅しだ。男はさっきまでの態度とは一変してブチギレ始めた。それに共鳴するかのように、あとの二人も眉間に皺を寄せて威嚇してくる。
「舐めてんのかオラ! ぶっ殺すぞ!」
「そこまでキレることある? カルシウム不足?」
アタシの胸倉を掴もうとする手を避け、裏拳を頬に叩き込む。
「あ」
やっちまった。避けるだけでよかったのについ癖で攻撃してしまった。
裏拳を食らわせたそいつは予想通り「クソ女ァ!」とさらに頭に血を昇らせ、襲い掛かってくる。というか折れたとかって騒いでいた腕めちゃくちゃ振ってるけど、いいのかこいつ。
だけど目の前のこいつデタラメなパンチを繰り出してくるだけだった。当たらないことに焦ってさらに大振りしてくる辺り、喧嘩の経験は大してなさそうだ。正直言って、この前の屑ヶ谷の連中のほうがずっと骨があったな。
適当にそれをいなしていると、一緒にいた男たちも慌てて飛び込んでくる。
それに気づいた充が、回し蹴りをひとりの男の頭めがけて放った。パァンッという乾いた音と共にそいつは崩れ落ち、怯んだもうひとりの鳩尾に膝蹴りをぶち込む。
ヒュウ、と思わず口笛を鳴らしてしまった。さすが『俺』の相棒だぜ。──さて、いい加減こっちも終わらせるか。
大振りばかりなうえに疲れてきたのかパンチのスピードも緩んできていて、なんなく懐に飛び込めた。そのまま低く構えたこぶしを振るえば、簡単にアッパーを食らわせてやることが出来た。潰れた声を発しながら、なっていない体幹のせいでそいつはそのまま後方に吹き飛んでいく。
おぉ、と感嘆の声を漏らす充に「女の身体でも案外いけるもんだろ?」と笑ってみせた。
「こいつらどうするよ」
「まぁ、放っといていいんじゃねえの?」
踵を返そうとしたその時、「待てコラァ‼」という怒号がすぐ近くから飛んできた。
その声の方を見ると、アタシが倒したはずの男が顎を押さえながらよろよろと立ち上がっていた。目つきを見て、ヤバい、と一瞬で状況を理解する。こういう目をした奴はなにをしでかすのかわからない。この前の端道がいい例だ。
クソ、やっぱり力不足だったか。この前のもそうだが、得意のアッパーで倒せねえなんて屈辱だぜ。
「マジにキレたぜオイ……」
そいつは何かなにか棒状の黒いものを取り出した。一振りすれば、それはカシャンという音を立てて一気に伸びる。
それには見覚えがあった。時々使うやつがいるのだが──それは、警棒だった。警察が犯人と応戦するために作られた警棒は、シンプルな作りだが高い威力を持っている。重い代わりに一撃でも食らえば、相当なダメージを負ってしまうはずだ。
そいつは怒りのままそれを振りかぶる。明らかに狙いはアタシだ。この近さじゃ避けきれない。思わず目を瞑り、歯を食いしばる。ゴッ、という鈍い音が響く。
だが衝撃も痛みも訪れることはなかった。なんだ?とおそるおそる目を開くと、アタシと男の間に充が割って入っており、その頭には警棒の先が振り下ろされた後だった。
「充⁉︎」
警棒の先はぐいんと弧を描くように曲がっており、男は状況を飲み込めない、というふうな表情を浮かべて狼狽えている。
「オイオイ、こんな一撃で折れちまったぜ? 随分安モンをつかまされたんだな」
そう言いながら警棒を掴み、思い切り自分の方に引いた。男は「うわぁッ!」と情けない悲鳴をあげながら前のめりに倒れ込み、その顔に充の拳がしたたかに叩き込まれた。男はまた後方にのけぞり、今度こそ昏倒した。
その時、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。誰かに今の大立ち回りの様子を見られていたのか、通報されてしまったらしい。
「充、逃げるぞ!」
殴られたところを押さえる充の腕を引いてそのまま走り出す。がむしゃらに走りながら、「アタシを庇ったせいで、充が」という無力感で、視界が滲んでいった。
「ここなら大丈夫かな……」
人気のない路地裏に入ると、頭が痛むのか充は膝をつく。額には血がひとすじ垂れていて、その光景はアタシの緩んだ涙腺を刺激するのに充分すぎるものだった。
「充、今手当てするから待ってろよ」
「あ……? なにが……って、血か……」
額に触れて初めて血が出ていることに気付いた充は、動揺するアタシとは違って「いいよこんくらい」と雑に手で血を拭ってしまう。
「バカ、頭だぞ」
手当てをしたいのに、傷を押さえるものがない。そうだ、とアタシは咄嗟に自分のポニーテールをくくったリボンを解く。バサリと下りた髪を厭う余裕もなく、そのままリボンをぐしゃぐしゃに握って充の傷に押し当てた。水色のリボンに赤が滲み、充は「オイ、それ……」と慌てるが、「うるせえ」と涙声で遮る。
「大丈夫なのに、こんぐらい……」
「アタシのせいなんだから、黙って手当てされてろ」
ぱたぱたと地面に落ちていく涙も拭わず、充への罪悪感でいっぱいになりながら傷を確認する。殴られた時の音は派手だったがそんなに深い傷ではなかったようで、もう血は止まっていた。
ほ、と安堵の溜め息を吐くと、また一粒涙が零れてしまった。少し血が付いてしまった手でそれを拭う。
「血、止まったよ」
「おぉ、案外石頭だな、俺」
冗談を言っているがまだ傷は痛むらしく、眉間に皺を寄せている。そのまま「ちょっと休ませてくれ……」と言って充はアタシを横に引き寄せ、肩にもたれかかってきた。触れたところから充の体温が伝わってくる。また涙が出そうになったが、強く目を瞑って溢れそうなのを抑えた。
「ありがとな、充」
「ん……? あぁ、気にすんなよ」
穏やかに笑ういつも通りの充だったが、その後付け足した言葉にアタシはまた心を乱されてしまった。
「女にケガさせられねぇしな」
そう言った時の表情は、告白された時とまったく違うものだった。『好意を持った相手』にではなく、『守るべき対象』に向ける表情をしているのだ。
あくまでも充が見ているのは『睡』じゃなくて──『睡蓮』なんだ。
どうしてこんなに辛いんだろう。アタシだって確かに『杢葉睡蓮』なのに、なんで充はアタシを『睡』としてしか扱ってくれないんだろう。それが悔しくて、悲しくて、なによりこんなことを考える自分が情けなかった。
「充は……『睡蓮』が好きなんだよな」
「え、おう……」
唐突な質問に充は頭を上げ、驚きとかすかな照れを含んだ声で返事した。
「──じゃあ、さ」こんなことを質問しても充を困らせてしまうだけだろうに、アタシの口は回ったまま止まろうとはしなかった。
「『睡』と『睡蓮』なら……どっちが好きなんだよ」
一瞬、アタシたちふたりの間だけ、時間が止まったような心地がした。
充の方を向いてみると、ただただ困惑の色だけを浮かべながら、アタシを見ている。目が合うと気まずそうに顔を背け、肝心の質問には答えず「え、っと……」と申し訳なさそうな声で言うだけだった。
そんな煮え切らない態度の充を見ていると、うまく言い表せない苦しさが膨らんでいく。仮にこのことを睡蓮に訊ねられたら、充はなんて答えるんだろう。そう考えてもさらに気分が落ちるだけなのに、考えずにはいられない。
ふと、睡蓮と端道の対決の日のことを思い出した。満身創痍になりながらも端道に立ち向かう睡蓮。それを心配する充の目は、アタシに──今の『俺』に向けられることは、きっとないんだ。そう考えてみると、悲しみも悔しさも全部混ぜこぜになった、言いしれない黒い感情に襲われる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。充が好きなのは『俺』なのに。俺だって、充のことが──……
考えるよりも先に、身体が動いていた。目を合わせようとしない充の顎を掴んで無理矢理自分の方に向ける。驚きで大きく見開かれた充の瞳に映る『俺』は、また泣き出しそうな顔をしていた。
そしてそのまま──『俺』は充にキスをした。
音もなく交わらせた唇はあったかくて、心臓の奥が甘く締め付けられた。ほんの一瞬の出来事のはずなのに、とても長く感じる。触れた充の唇は表面がちょっと硬くて、少し皮がめくれていた。
「……え」
唇を離すと、充が頬をじわじわと紅潮させながらアタシを見つめていた。その顔を見て初めて、アタシは自分のしでかしたことに気付いた。
今、アタシ、充になにした?なんか……なんか唇に柔らかい感触が残ってる気がするんだけど、これ、やっぱそうだよな……?
自覚すると急激に体温が上がっていって、頭が沸騰しそうだった。のけぞるように充から離れ、恥ずかしさに身を任せるまま路地裏から飛び出す。
「睡!」
アタシを呼ぶ充の声も気に留めず、ひたすら足を動かした。恥ずかしさを振り切りたくて走りだしたのに、どんどん恥ずかしさがこみあげてくる。なんであんなことしちまったんだ、アタシは馬鹿なのか⁉ と自分を責めながら、がむしゃらに走り続けた。
冷たい風に晒され、熱のこもった身体の表面は冷えていく。それなのに、唇だけはやけに熱いままだった。
*
学校に着いてからも、「なんであんなことをしてしまったんだろう」と後悔しては恥ずかしさに身をよじらせ悶えていた。挙動不審なアタシをクラスメイトが心配するたびに「ごめん、なんでもない」と誤魔化してはいるが、ずっとこの調子なので結局怪しまれている。
休み時間も充とのことが頭から離れずにいた。
だって、だって、十何年生きてきて、初めてキスしたんだ。柔らかいんだが硬いんだか、なんか思ってたよりも変な感触なんだなとか、唇越しに当たった歯だとか、皮膚に触れた呼吸の生暖かさとか、ファーストキスがこの姿で、それより何より相手が……
う、うぅ、と低く唸る。近くを通ったクラスメイトが肩を揺らし、パタパタと怯えた足取りで離れていった。
「どうしたの? 今日ずっと変だよね」
机に肘をついてため息を吐いていると、前の席の澤邑
前に「あなたの方が魅力的だね」なんて言われたときはわけがわからなかったが、今では普通に「睡」「華弥子」なんて下の名前で呼び合うし、元々世話焼きな性格らしく結構よくしてくれる。だから今では、普通の友人関係だ。
遅刻の原因は変なのに絡まれてからの一連の流れのせいなのだが、正直に言ったところでさらに変な目で見られるだけだ、と思いそのまま嘘をついた。
「変?」
「ううん、髪下ろしててもかわいいし」
そう言って笑う華弥子。かわいい、と言われて複雑な心境になった。確かに男の時に比べたら相当かわいくなったとは自覚しているが、いざ言われると照れる。
女になってから気付いたのだが、女というのはお互いに対して普通に「かわいい」と言い合うものらしい。その上男同士よりもボディタッチなどのスキンシップが多く、抱き着いたり手をつないだり、その行為だけならまるで恋人のような距離感なのだ。しかもみんなそれが当たり前らしくツッコミも入れない。つくづく女というのは、(一応)男のアタシにとっては未知の生物だ。
ううんと心の中で唸っていると、後ろの方からきゃあという黄色い悲鳴が聞こえた。なんだと後ろを見てみると、ひとりの生徒を何人かが囲んでいた。みんな興奮した様子でなにかを大声で話している。
「じゃあ、あのイケメンくんと付き合えたんだ⁉」
「うん、まぁ……えへへ」
「すごーい! おめでとう!」
「い~な~、あたしも彼氏ほしい~」
どうやら、輪の中心にいる子に彼氏ができたらしい。その声を聞いた他のクラスメイトたちもわらわらとその子に群がり、祝いの言葉と共に詳しく聞き出そうと盛り上がっていた。
女というのは色恋話が三度の飯より好きな生き物だと勝手に思っていたが、女子高に来てからは三度どころか五度くらいの飯におかずをつけてもそれより色恋話が好きなのではないか、と思うようになった。まぁでも、女の話になるとすぐシモの話に繋げていたベラ高のやつらに比べたら百億倍かわいいモンだが。
「盛り上がってるなー……」
「そうだねえ、しかも女子高じゃ一瞬であぁいうのは広まるよ」
盛り上がりながら伝言ゲームのように他の生徒に話を繋いでいってる様子を見ていると、そうだろうな、と納得できた。
うんうんと頷いていると、華弥子が「睡は好きな人いないの?」と突然聞いてくる。
話の流れとしては普通なのだろうが、アタシにとっては爆弾を落とされたような感覚だった。なぜかって、反射的に充の顔が浮かんできたからだ。またさっきのことを思い出してしまいそうで、ぶんぶんと思い切り頭を横に振ってかき消した。
どうしたの、と不思議そうな目で見てくる華弥子に「そもそも、好きってどういう感じ?」と聞いてみた。華弥子はうーんと指を顎にあてる。
「その人のこと考えると胸が苦しくなる感じかな」
「苦しくなるの?」
「うん、でも嫌な感じじゃないよ。 むしろ嬉しい感じかなぁ、こう、じんわりあったかくなるような……」華弥子はそう話しながら、胸のあたりに手を当てた。
苦しくなって、でもあったかい……その言葉に、また充の顔が脳裏にちらつく。キスのことも浮かんでしまうが、深呼吸してちゃんと向き合ってみることにした。
充。親友で、頼れる相棒。不良らしくない優しい性格で、だけどちょっとタイミングが悪かったり抜けてるところがある。さらさらした黒髪はあいつの性格と同じようにまっすぐで、穏やかな目も同じようにまっすぐこちらを見つめてくる。
充のことを考えると、心臓がぎゅうと苦しくなる。でも全然嫌な感じじゃない、奥の方から暖かい何かが広がってくる。
「睡? おーい」
ひらひらと華弥子がアタシの前で手を振っている。ハッと我に返り、「いや、いないかな」なんてつい口をついて出た。
「華弥子はいないの? 好きな人……」
「んー? ふふふ、いるよ」
得意げに、でも少し照れた表情で笑う華弥子。そっか、いるんだ、なんて今ぐらいの年頃なら結構普通のことに驚いてしまう。
「告白とかはしないの?」
「うーん、告白は……しようか迷ってるんだよね」
「なんで?」
「だって失敗したとき、友達の関係が崩れちゃったら嫌でしょ?」
華弥子は眉を下げ、少し悲しそうに目を伏せた。
そうか、そうだよな。確かに考えてみれば、友達に恋するって、後のことも考えてみると大変だよな。告白を断ったら気まずくなるし、受けたとしてもそれがずっと続くとも限らない。むしろ一度付き合ってから別れた時の方が厄介なはずだ。
充もそういうのを覚悟した上で告白してきたのだろうか。仮にあれが勢い任せだったとしても、それまでかなり悩んだに違いない。親友に、ましてや、男相手に。
でも充に告白されたとき、不思議と嫌じゃなかった。困ったなとはもちろん思ったが、考えてみればアレはあの変な状況に対するもので、充からの告白自体は別に嫌なものじゃなかった。むしろ充足感というか、満たされた気持ちにさえなったのだ。
……じゃあ、なんだ? 結局のところ、アタシは……充のこと──
「……でも、その人好きな人いないって言ってたんだよね」
華弥子はなんでもないというふうな声色で、だけどアタシの反応を待っている、そんな瞳を向けてきている。転校初日にアタシに向けてきたあのじっとりとした奇妙な視線とよく似ていた。
「ん……じゃあ望みあるかもしれないじゃん」
「そうかも」
目を細めて華弥子が笑う。その時、ちょうど授業開始のチャイムが鳴った。
*
結局、充のことを考えていたせいかいつも以上に授業に身が入らなかった。
ここの教師はそういうのにはめざとく、ボーッとしていると尖った声で「話を聞いているのか」と何度も注意された。ようやくやってきた放課後の時間には、もうすっかり頭も身体も疲れてしまっていた。
帰るか、と立ち上がると、華弥子に呼び止められた。
「ねぇ、睡はこの後用事とかある?」
「別にないけど」
「じゃあ、ちょっと待っててもらってもいい?」
職員室行ってくるから、と片手に持った学級日誌を掲げ、パタパタと教室から出て行った。
すぐ戻ってくるだろうと思いながら待つ。そのうち教室からクラスメイトの大半が出ていき、掃除当番の子たちも帰って教室にはアタシひとりになってしまった。なんなら、近くの教室からも人の気配はなくなっている。
……遅いな。引き留められでもしてるのだろうか。
迎えに行こうかな、なんて思って立ち上がったとき、タイミングよく華弥子が戻ってきた。
「ごめん、先生に手伝い頼まれて……待たせちゃった……」
「別に大丈夫だよ」
それでどうしたの、と訊ねる。華弥子は「ええと」と前髪を触った。なんだか手をすりすりと色んなところに這わせ、そわそわとした様子だった。
なんだろう。今日のアタシが言えたことじゃないけど、妙な雰囲気をしている。
「ねぇ、華弥子……」
声をかけてみる。華弥子はひとつ深呼吸をすると、勢いよく顔を上げた。眉をきゅっと上げ、アタシの方をまっすぐ捉えた。
「私ね、私──」
その目には覚えがあった。脳裏をかすめたのは充の姿。華弥子が何を考えているのか、アタシにはわかってしまった。もしかして、華弥子。まさか──
「私……睡のことが好きなの」
ぐら、と足元が揺れたような気がした。予想どおりの言葉だったはずなのに、身体には動揺が表れてしまったらしい。
「ごめんね、急にこんなこと言われても、困るよね」
「ん……いや、えっと」
確かに驚いた。想像するのと、実際に言われるのでは全然違うのだ。まさか、華弥子に弧告白されるなんて、考えてもみなかった。充や端道、それに睡蓮に告白したとかいう女子。最近の睡蓮やアタシは、やけにモテてている気がする。
「……えっと、なんでアタシのことが好きなの?」
正直言って華弥子との付き合いは短い。学校では特に仲の良い友だちだが、学校外まで及ぶ付き合いですらない。正直言ってしまえば、学校内だけの関係なのだ。
華弥子は照れた様子で自分の頬を撫で、「前にね、ナンパされたことがあって……」と話し始めた。
「三人組の男だったんだけど、すっごくしつこかったの。 適当にあしらっても駄目で……」
話を聞いていると、その男たちはしつこく華弥子に言い寄り、追いかけ、人気のないところに差しかかったところで腕を掴んできたという。
「正直、すごく怖かったんだ。 それまでは同級生くらいしか男の人と関わったことなくて、大人の男の人ってこんなに力強いんだって……」少しだけ声が震え、思い出すかのように自分の手首をさすっている。
確かに、女の目から見ると男は怖い。初めて女の目で見た睡蓮も端道も、大きくて、威圧感があって、自然と身体が震えた。もちろん男全員がそう見えるわけじゃないが、知らない男、それも三人も同時に迫ってきたらそりゃ怖いだろう。
「でもね、そこで一人の奴を誰かが殴ったの」
声色が明るくなると同時に、華弥子が顔を上げる。その時、アタシの脳内をなにかが通過した。華弥子のその表情に、見覚えがあったのだ。
「そこからはすごかったの。 三人ともあっという間に倒されちゃって……しかも、助けてくれたのは女の子だったの」
「もしかして……それが?」華弥子は頷き、嬉しそうに「睡だったの」と言った。
そこにきてアタシはようやく思い出した。確かに、そんなことがあった気がする。一人の女に男が寄ってたかってて、不愉快で思わずぶっ飛ばしたことがある。そういえば、その時の女は芍薬牡丹の制服を着ていた。この辺じゃセーラーの学校なんて他にないから、なんとなく覚えていたのだ。
確かに華弥子を助けたのだろう。だけどそれは、男の時の話のはずだ。
「それ……助けてくれたの、本当に女だったの?」
「え? うん……それに、ナンパしてきた人たちが『杢葉睡』って言ったから、覚えてたんだ。 珍しい名前だし」
「そっ、か……」
分裂の時、目撃者だった充以外の人間の記憶が改ざんされていた。おそらく、華弥子の記憶も《睡蓮》が《睡》に書き換えられているんだろう。
「でも、正直もう会えないと思ってたの。 漫画みたいにかっこよかったから、もしかしたら夢だったのかも、なんて」
はにかむ華弥子の姿は、『恋する乙女』って感じで、何を言おうか迷っていた唇を閉じた。
「だから、転校してきた時びっくりしちゃった」
分裂した、なんて、言っても通じるわけがないだろう。助けたのはアタシだけど、アタシじゃない。そう言いたくても、どう表現しても、華弥子を傷付ける羽目になりそうだった。
どう伝えるべきか、頭の中に浮かんではシャボン玉のように弾け、何も上手い言葉が見つからない。
「……本当にごめんね、急にこんなこと。 返事は、すぐじゃなくていいから」
「か──」
華弥子には呼び止めようとしたアタシの声は届かず、そのままカバンを持って教室から出て行ってしまった。アタシもアタシで引き留める気力がなく、行き場をなくした手を下ろす。
……なんだろう、アタシ。やっぱりおかしい。告白してきたのは華弥子なのに──なんで、充のことが頭に浮かんでるんだろう。
華弥子がアタシに向けたあの瞳。熱を帯びたまっすぐな視線は、充がかつて告白してきたときに向けてきたものと同じだった。
だけどアタシにとってその瞳は、華弥子よりも充のものの方が熱くて尖ってて、心臓の──いや、身体の中にある自分でも知らない奥の方に刺さってて、決して抜けそうにないのだ。
その刺さったところから熱が上がり、ぞわぞわと湧き上がった電流のような甘いしびれが身体を震わせる。身体が、顔が、火照って震えて熱い。
──いっそ女だったら、こんな事で悩まなかったのかな──
もしかして、アタシが女になったのは……『充のため』なのかもしれない。
あぁそうか、気付いた。気付いてしまった。もう、前には戻れない。
アタシは──『俺』は、充が好きなんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます