第5話 博〈gamble〉打

「よぉ、杢葉睡」帰宅途中、突然屑ヶ谷の連中に取り囲まれた。

 なんだ畜生、女になってもこいつらに絡まれなきゃいけねえのかよ、と内心苛立ちながらも、それを悟らせないように冷静に「なんの用だよ?」と訊ねた。

「ウチの頭からお前を連れてこいって厳命されててな」

 ついてきてもらうぜ、という言葉とともにアタシの肩に手が置かれる。その手つきが不愉快で、反射的にその手を払い落としてしまった。それが気に障ったらしく、「このアマ!」と胸倉を掴まれた。だけどそいつの腹を力いっぱい蹴れば「ぐはぁっ!」と声を漏らしながら手は離れる。

「クソが!」

 鞄を投げ捨て、次に襲ってきた奴の顔めがけて拳を振るう。

 だが、思っていたよりも腕に力が入らなかった。ゴスッという鈍い音と手ごたえはあったが、思い切り振りぬくことが出来なかったのだ。殴った相手も少し呻いて口元を拭うだけで、改めて殺気立った視線を向けてくる。

「あ……?」おかしい。いつもだったら今の一撃で、呻くこともさせず充分ダメージを負わせられるはずなのに。うまく顎を捉えられなかったせいかもしれない。

「調子乗ってんじゃねえぞ!」

 また別の奴が飛び掛かってくる。怒りに任せた右の大振りは隙だらけで、すんなり懐に潜り込めてしまう。膝を曲げて腰を支え、その顎に向かって渾身のアッパーを打ち込んだ。

 よし、今度こそイイのが入った!

 だが──後ろによろめいただけのそいつも、顎を押さえながらこちらを睨みつけてくる。倒れることも衝撃で膝が笑うこともなく、血すら出していない。

「な……なんで……」

「ハハ……どうしたオイ、女のパンチなんて効かねえぞ!」

 そこでようやく気付いた。

 女になってからまともにやり合ってなかったから気付かなかったが、よく考えれば男女で力の差があって当然なのだ。狙い澄ましたはずの一発が効かなかったのは、力不足のせいだったのだ。

「悠長に考え事かよ⁉」

 次々と攻撃が降ってくる。まともにガードすると衝撃に耐えきれない。幸いこいつらに比べたら身体が小さいおかげで小回りが利くので回避を繰り返しながら、じゃあもう仕方ねえ、と覚悟を決めた。

「よっ」

 爪先を上に向けたまま振り上げる。ローファーの先端がそのまま目の前にいた一人の股間に深く食い込んだ。

「あ~~~~~っっっ‼」

 今までにない大絶叫を上げ、その男は股間を押さえながらその場に倒れこんだ。ピクピクと身体を震わせて「あ……あ……」と呻くそいつに心の中で「わかるぞ」と頷く。

 金的はご法度、という暗黙のルールが喧嘩には存在する。もちろん狙ってくる奴もいるが、基本的にはみんな狙わない。

 なぜかというと、「ものすごく痛いから」だ。

 頬や鳩尾を殴られるのとはわけが違う。一瞬思考が止まり、身体の内側が割れたんじゃないかと錯覚し、爆発のように不快感が広がる。汗が吹き出し、場合によっては嘔吐することすらある。そして少し回復すれば、同じ苦しみを味わわせようと相手の金的も狙う。

 世界一不毛な循環を繰り返してしまうと、喧嘩どころではなくなる。自分が狙わない代わりに、相手にも狙わせないようにするのだ。

「だけどまぁ、仕方ねえよな」

 怯えて一歩引いた屑ヶ谷の連中は、今の金的への攻撃に「嘘だろ……」と絶句している。先程投げ捨てた鞄を拾い、高く声を上げた。

「あんまり武器とか使いたかねーんだけどよ……野郎どもが女ひとりに手上げてんだから、これくらいのハンデはアリだよな」ずる、と鞄からあるものを取り出して見せる。

「テメェ、それは……⁈」

 それは──鉄板だった。分裂前と同じように、いまでも鞄には鉄板を仕込んでいるのだ。改めて仕込み直し、腰を据えて構える。風が吹けば、ポニーテールとスカートが風に靡いた。

「後悔させてやるぜ」



「オラオラ! さっきの威勢はどーしたぁ⁉」

 ヤケクソになって飛び込んでくる奴の頭を思い切り鞄で弾き、目測を誤って拳を空振りさせた奴のこめかみにかかとを叩き込む。久々の喧嘩で血が滾ったアタシは、好きなように暴れた。

「アタシを連れて来いって言われたんじゃねえのかよ!」

 よろめいた男の鳩尾に前蹴りをかませば、そのまま後ろに倒れる。

「クソ……女のくせになんて強さだ……!」

「これじゃあ、端道さんに顔向けできねぇ……」

 ……端道? 端道ってまさか、中学の時のあの端道か……?

 聞き覚えのあるその名前に気を取られてしまい、動きが止まる。その時、見計らったようなタイミングで、今までで一番大きな風が吹いた。

「うわっ!」

 制服のリボンが持ち上げられて顔に当たり、視界がふさがれてしまった。それと同時に、腰回りを冷たい風が這ってふわりとスカートの裾が舞い上がる。その瞬間、一切の思考が止まり、ただスカートが元の位置に降りるまで固まるしかなかった。それは屑ヶ谷の連中も同じだったようで、風が去るとともに少しの間静寂が訪れる。

「──水色の、縞パン……」

 誰かがぼそりと呟いた。

「~~~~ッ! 見たな⁉ 見たな⁉ 全員ブッ殺す‼」

「すみません!」

「許して! ごめんなさい‼」

 その場の全員が一斉に土下座を始めるが、今のアタシにはこいつらをぶっ殺さないと気が済まないという強い意思があった。今日は体育があり、次が教室移動だったからと慌てて着替えたせいで見せパンを履き忘れたのだ。

 元男とはいえ、いや、元男だからこそ、男に下着を見られる屈辱や恥ずかしさは強い。

「待て!」

 その時、一人が顔を上げた。鼻血を出しているが、アタシが殴ったからなのか他に理由があるのかはわからない。なにかろくでもないことを企んでいそうな顔をしている。

「オイオイ、あの杢葉が縞パン履いてるなんて傑作だぜ」

「縞パンのなにが悪いんだよ!」

「悪くはない、むしろイイ! ……じゃなくて」しれっと勢いのままに性癖を暴露したそいつはひとつ咳払いをして言葉を続けた。

「元とはいえ番長で通ってたお前が縞パンを履いてるなんて知られたらどうなるかなぁ?」

「ぐっ……いつもじゃねえ! 今日はたまたま母さんが買ってきてたやつ履いてて……普段はもう少し、無地とかそういうのだ!」

「お前、自分で墓穴掘ってるのわかってるか?」

「ほんとだ……」

 つい口が動いてベラベラと言い訳にもならない余計な言葉をベラベラと話してしまった。

「無地……」

「無地だとよ」

「それはそれで……そそるモンがあるよな」

 勝手に顔を上げて好きに喋る奴らに「殺すぞ‼」と恫喝する。

「このことをでかい声で触れ回ってもいいんだぜ? 杢葉睡は縞パンを履いてるってな!」

「うぅう……!」

 別に縞パンを履いてることが恥ずかしいのではない。むしろ縞パンとは素晴らしいものだ。清純さの中に背伸びした雰囲気があり、それは男のロマンでもある。

 だが──男に戻ったとき、「杢葉睡蓮は女モノの縞パンを履いてる」なんて噂にでもなっていたら? 男のロマンだからって男が履いてるとなると、その瞬間変態の烙印を押される可能性がある。そう思うと、降伏しか道がなかった。

「くそっ……わかったよ」

 こうして、アタシは屑ヶ谷の連中に捕らえられてしまったのだ。


 *


 今アタシは、屑ヶ谷の体育倉庫に軟禁されている。ヤニ臭の中に運動用具やカビにおいが混じっていて、何度も咳き込んだ。おまけに暑くて、額に汗が滲んでいるのが自分でもわかる。

 アタシの監視にあてがわれたらしい男たちの値踏みするような視線が不愉快で、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。

「体育館には百人を超える不良たちがいる。 間違っても逃げようなんて考えるなよ」

 連れてこられたときに言われた言葉だ。本当にそんなにいるのか定かではないが、敵の本拠地で逃亡を図ったところで捕まるのは目に見えていた。睡蓮は来るだろうが、本当に体育館にそれだけの人数がいたとしたら、さすがに一人で勝てるとは思えない。せめて充も来るか、アタシが隙を見て助けに入れれば……

 それになにより、端道のことだ。どうやら屑ヶ谷にいるのは本当らしく、時々他の奴らの会話に奴の名前が出てくる。最近やけに屑ヶ谷の連中に狙われると思っていたが、『杢葉睡蓮』と犬猿の仲であるアイツがここの頭になってたとしたら、なんとなく理由もわかる。

 でも、自分は手を出さずにどうして舎弟たちにやらせているんだろうか。アイツは汚い奴だったが、他人に自分の獲物を易々と譲るような奴ではなかったはずだ。

 そんなことを考えていると、倉庫の扉が開いた。

「端道さん! お疲れ様です!」

 そこに立っていたのは、端道だった。中学の時よりも身長が伸び、ガタイが良くなっている。似合ってもねえのにヒゲなんか生やして、煙草を吸っている。

 頭を下げた舎弟たちに返事もせず、落とした煙草を踏み潰して消した。それが合図だったようで、舎弟たちは倉庫から出て行く。後ろ手に扉を閉め、一歩も踏み込めばすぐにアタシの目の前に立ちはだかった。

 二人きりの体育倉庫はさっきよりもずっと息苦しい。鋭い眼光でアタシを見下ろす端道を負けじと睨み返すが、まったく動じていない。

 奴の頬には、傷ができていた。それにはには覚えがある。卒業式の日の決闘で、《睡蓮》が思い切り殴った時、転倒した勢いでコンクリートに顔を擦ってしまっていた。おそらく、その時の傷だろう。

「杢葉……睡……」

 地響きのような低い声でアタシの名前を呟く端道。それに共鳴するかのようにアタシの心臓も身体全体に音を響かせた。

 初めて睡蓮と対面した時に感じた不安混じりのそれとは違う、純粋な恐怖。

 男の時ですら喧嘩は互角だったのに、今は男女で力の差がある。やられたらひとたまりもない。

 おもむろにしゃがみ込んだ端道の顔がアタシの眼前に迫る。恐ろしさから逃げ出したくて、ぎゅっと目を瞑った。倉庫の嫌なにおいと、鼻を突き刺すような香水と煙草の混じったにおいが、これが現実だということをアタシに植え付けた。

 助けてくれ、誰か。睡蓮、充──……!

「すまん!」

「……え?」

 予想外の言葉に思わず目を開けると、端道が顔の前で手を合わせアタシに頭を下げていた。

 なんだ? なんで謝ってんだこいつ? 外道のクセにプライドだけは一丁前にあった端道が、それも女になっているとはいえ自分の昔のライバルに謝罪なんかしてるんだ?

 頭の中にクエスチョンマークが溢れるアタシをよそに、端道は言葉を続ける。

「巻き込んで本当に悪い。 でも杢葉と戦うにはこれしかなかったんだ。 あ、そういえば入院してたっておばさんに聞いたけど大丈夫?」

 今度は謝罪だけではなく心配の言葉まで投げかけてきた。というか、なんでウチの母さんと仲良く喋ってんだよ、こいつ。

「端道……おまえそんなキャラだっけ」

 中学時代とかなりギャップがある端道に驚きを隠せない。この変な状況も相まって、少しでも自分の中の疑問を解消しようと思ったことを素直に訊ねた。

「なんだよ、確かに睡蓮の方とは仲悪かったけど、睡とは仲良かったじゃねえか!」

 不機嫌そうに眉を顰めているが、キレているというよりも呆れている感じだ。先ほどまでの威圧感は消え、なんだが話しやすい雰囲気になっている。

 にしても……アタシとコイツの仲が良かったとは……分裂のせいでそういうことになってるとしても、中学のことを思い起こすとゾッとする状況だ。

 それでも、なにかしら情報を得られるかもしれない。「あー、そうだな、ごめん」と適当に話を合わせた。

「でも端道さ、なんで睡蓮のこと嫌いなのにアタシとは仲いいの?」

「いやぁ……だってお前はいい奴だし。 それに俺は女子供には手を出さねえ主義だしな」

 現段階で出してるだろバカ。てか、お前そんな爽やかな笑顔できたんだな。見てると恐怖で吐きそうになるわ。

 まあいいや、とアタシは一番聞きたかったことを質問することにした。

「あのさ……なんでわざわざアタシを拉致してまで、睡蓮に喧嘩売ってんの?」

 そう問うと、端道は急に神妙な顔になった。そして頬の傷に触れ、とつとつと話し出す。

「これはお前を信用して話すんだが……この傷は卒業式の日の最後の決闘で、アイツに付けられた傷だ」

 やっぱりそうか、と事実を確認し、会話の相槌を打った。

「あの日からアイツを忘れた日はなかった」

 そんなに恨みを抱いていたのか。元々繊細な顔立ちでもねえんだから今更傷のひとつやふたつどうってことなさそうだが……

 端道は傷に触れていた手を胸元で握り、話を続けた。

「ずっと想い続けてきたんだ、俺にこんな傷を付けたアイツを……」

 ……ん? なんか……なんか、様子がおかしいぞ。想い続けて……ってなんだよ? ていうか、なんでこいつ顔赤い……ん……

 なぜか顔を赤らめる端道を見ているうち、アタシは最悪な仮説に辿り着いてしまった。まさか、と嫌な汗が頬を伝う。

「アイツと離れてから気付いたんだ……」

 オイ、やめろ。やめろ、やめてくれ。

「待て、端道……お前、何を」

「俺は──杢葉睡蓮が好きだ」

 頭の中で爆発音が鳴り響いた。そんなものないはずなのに、閃光が目の前で広がったようで、チカチカと視界が点滅する。

「お……お前待てよ、本当に。 す、好きって……睡蓮を? お前が?」

 だって、《睡蓮》とはライバルだったはずだろ。お互いを嫌い合って、憎み合って、顔合わせりゃそのたびに周りを巻き込んで盛大にやり合ったはずだ。それなのに、好きって……すぐにでも昏倒して意識を失いそうだ。いや、いっそのことそれならそれでどんなに楽か。

 アタシのそんな様子に気付いていないのか、つらつらと端道は話し続ける。

「そう……俺は、血で血を洗う争いを繰り広げたあの男を愛していたんだ!」

 どうやら話を聞くに、今まで《睡蓮》の前に姿を見せなかったのは、いざ会ってしまえば照れと緊張でままならなくなるから、という理由があったらしい。

 文字通り絶句するアタシを意に介さず、追い討ちのように端道は睡蓮への愛を漏らした。

「あの彫刻のような肉体美、それについた傷は今思えば薔薇の花弁のようにも思えた……。俺を睨みつけるあの鋭い瞳も、低く俺の名前を呼ぶあの声も、全てが俺の鼓膜といわず瞼の裏と言わず焼き付いているんだ……」

 これはなんの拷問ですか?

 勘弁してくれ、なんで男にしかモテねぇんだ。マジで泣きたくなるよ。というか実際、ひんひんと小さく泣きそうな声を上げてしまっている。

 だが先ほどまで虚空を見つめながら睡蓮に思いを馳せていた端道は、一転して唸るように声を低くしながら話し始めた。

「だが、アイツは……俺の気持ちなどつゆ知らず、日野とかいう男と……!」

 グッと血が出そうなくらい強く拳を握っている。

 なるほど、睡蓮と充がデキていると勘違いしているらしい。なんでデキてると思うんだよと訊ねると、「日野が奴に告白しているのを聞いた舎弟がいたんだ」と答えられた。

 あの時「誰かに聞かれてたらどうすんだ」なんて考えたが、その予感が当たったということだ。改めて充のタイミングの読めなさを恨んだ。

「じゃあ、今更睡蓮とコンタクトとったのは……」

 端道は頷き、アタシの言葉の続きを自分で繋いだ。

「杢葉には、俺の純情を弄んだ報いを受けさせてやらなければ気が済まん」

 予想はしていたが、なんて自分勝手なんだ。元々そういう気質だというのは知っていたが、これじゃ看護師に優しくされて勘違いするバカ患者とかと同じじゃねえか。

「アイツもお前と同じく入院明けらしいな。最近はまともに喧嘩を買わないってのは、傷でも痛むのか?」

「そんなところを狙う外道さは相変わらず変わってねえな」

「……」黙るなよ、正論だろ。

 でも、確かにあんまり喧嘩をしたなんて話は睡蓮からも充からも聞かない。ガラにもなく最近妙に考え込んでるみたいだから、もしかしたらそれが原因なのだろうか。

「お前を拉致したのは、ヤツが助けに来るとわかっていたからだ。アイツが身内を大切にしているのは知っている。よくよく考えてみれば正直そういうところも魅力的な──んんッ!」

 咳払いで誤魔化そうとしているが、丸々聞こえているので無駄である。

 白い目で端道を見つめていると、扉の向こうから「端道さん!」という声が聞こえる。端道が扉を開けると、「来ました」と睡蓮のことであろう情報を簡潔に話した。

「何人だ?」

「杢葉ひとりです」

 それを聞いてニヤリと笑った端道は、「お前の兄貴を半殺しにしてやるから楽しみにしてな」と吐き捨てて出て行った。

 アイツ、切り替え早えな、なんて感心していると、端道を呼びにきたらしい舎弟に「お前も来い」と無理やり腕を引っ張られた。

「痛えな、女の子は丁寧に扱わねえとモテねえぞ」

「フン、モテねぇなんて今更だ。 女子に触ったのもこれが初めてだから正直すげぇドキドキしてる」

「なんかお前、可哀想な奴だな……」

 ようやく出られた外は倉庫よりもずっと空気が清浄で、胸いっぱいその空気を吸い込む。

 道の真ん中で肩で風を切って歩く端道は、中学の時と比べてひとまわりもふたまわりも強くなっているのが肌で分かった。おまけに睡蓮のことが好きとか、マジでなんなんだ。

「睡蓮……相当厄介だぜ、こりゃ」唇の中で小さく呟いた。


 *


 指定された通り、葛ヶ谷の体育館にやってきた。建て付けの悪い扉を力任せに開いてみれば、体育館が埋まりそうな数の葛ヶ谷の生徒がいた。奴らは俺を視認すると、じろじろと俺を観察し始める。無数の目が俺に向いているが、それに気付かないフリをしてわざと胸を張った。

「オイ、端道のヤローはどうした⁈」

 そう訊いても誰も答えることはなく、代わりにニヤニヤと嫌な笑みを浮かべるだけだ。ただでさえイラついているというのに、片っ端からぶん殴っていってやりたくなる。

 その混み合った人が、徐々に後ろから割れていく。その奥からは、見覚えのある男が出てきた。気味悪く口元に弧を描きながら出てきたソイツは、確かに端道だった。

「久しぶりだな、杢葉」

「端道……!」

 その後ろ、端道の舎弟らしき奴に連れられて、睡も現れた。不安そうに揺れる睡の瞳を見て、怒りが強まった。学帽の隙間から力いっぱい睨み付けると、端道はわずかに眉を顰めて顔を天井に向けた。

 ハァー……という長い溜め息を吐いたかと思うと、今度は煙草を一本取り出した。その煙草に火をつけようとしているが、カチカチカチカチと何度もライターを押しても火がついていない。……なんだこいつ、やけに挙動不審だな。

「……なにしてんの? お前」

「……フン。 久しぶりだな、杢葉」

「そのやりとりはさっきやっただろ」

 本当に大丈夫かこいつ。なんか周囲の奴らも不思議そうな目で見てるぞ。つか、よく見たら煙草逆さじゃねぇか。まさか、またなんか企んでるんじゃねぇだろうな。

「オイ、俺は来たんだから睡は解放しろ」

「そ……んんッ、そういうわけにはいかねえよ。 人質なんだからな」

 そう言って端道は睡のポニーテールを弄ぶ。それに反応するかのようにカッと頭に血が上った。思わず足が一歩前に出てしまうが、充に頼んだことが完了するまでは安易に動けない。苛立ちを募らせながらも、出した足を元の位置に戻した。

 睡、もう少し耐えてくれ。そう伝わるように睡のほうを見ると、睡もなにかを訴えたそうな視線を送ってきた。おそらく助けを求めているのだろう。

 あぁ、助けてやるぜ、と言う意味で頷くと、睡は眉を顰めて頭を垂れた。敵陣のど真ん中にいるんだから、相当辛いだろう。

「……相変わらずのクソ野郎だな」

「あいにくお前相手に通じるのなんてこれくらいだからな」

 そうそう、と端道はそのまま言葉を続けた。

「お前よォ……あの日野とかいう舎弟とデキてんだって?」

 その俺を挑発する言葉に、「マジかよ!」「あの杢葉がか⁉」と屑ヶ谷の連中が一斉に爆笑し始める。端道も笑ってはいるが、あの意地の悪いカラスの様な目つきは俺に向けたままだ。それと同時に、苛ついたように頬をピクピクと震わせている。

 強く拳を握る。絶対に息の根を止めてやるという強い殺意を抱えながら、言葉を発した。

「舎弟じゃねえ。 充は、俺の──俺の親友だ」

「そうは言っても、お前だって多少は特別な感情抱いてんじゃねぇのか?」

 不愉快そうに眉を吊り上げ、どこか探るような発言をする端道。その言葉のせいで、周囲ではさらに笑いが起こった。

 だけど、俺の一言でそれはあっけなく静まった。

「……あぁ。 そうかもしれねえな」

 また全員の目が俺に向けられる。先程の嘲笑や敵意ではなく、純粋な驚きの視線だった。端道はもちろん、屑ヶ谷の他の連中や睡も同じような表情を俺に向けた。

「は……嘘だろ?」

 端道のその声はやけに掠れていて、覇気の色がなくなったのがわかった。だけど、そんな端道の変化なんていちいち気にしていられない。

 もう我慢の限界だった。俺への中傷に対してじゃない。充が愚直に俺にぶつけてくれた想いを踏みにじるような発言に対しての怒りだった。端道をブッ殺さねえと、俺の気は済みそうにないのだ。

 だが、抱いているこの怒りは少し変だった。いつもなら烈火のごとく怒って、端道の顔面に厭わず拳をたたき込んだだろうに、なぜか今は自分でも不思議なほど落ち着いていた。

 ──いや、もしかしたら。今までの怒りを超えるそれのせいで、余裕すら生まれてしまったのかもしれない。

 暑苦しくて酸素の薄い体育館だ。おまけに奥が見えないくらい大勢の人間の圧。睡を人質に取られているプレッシャー。息苦しくてたまらないはずなのに、俺の胸の奥はしみひとつなく澄んでいた。

 もう、充を待っている時間はなかった。一刻も早く端道を殴り飛ばしてやりたくて、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 ポケットに手を突っ込み、そしてまた一歩、また一歩と地面を踏みしめ、まっすぐ端道に向かっていく。誰も俺を止めようとはしなかった。そうして、端道の前になんなく辿り着いた。

 端道からは香水の香りが漂ってきた。ツンと鼻腔を刺すそれと煙草のにおいが混じり合って、不快なにおいになっていた。

 中学の時までは俺の方が背が高かったはずなのに、今は端道の方が少しばかり目線が上だ。だけど悔しさなんて微塵も感じなかった。学帽の鍔を親指で押し上げ、端道の唇から落ちそうな煙草を奪った。

「煙草も髭も香水も、お前には似合わねえぜ」

 その言葉を言い終えると、火のついた部分を端道の額に押し付けた。ジュウ、という肉の焼ける音とにおい。熱さに耐えかね、潰れた声を短く上げると身体をのけぞらせた。

「ぐッ──‼ っ、ぶっ殺せ!」

 その言葉と同時に、端道の舎弟たちが雄叫びを上げながら襲い掛かってくる。ひとりでこの人数はかなり骨が折れそうだが、俺なら倒せるだろうという根拠のない万能感と自信があった。腰をかがめ。改めて拳を握り込んだ。

 だがその瞬間、体育館の扉が大きな音を立てながら開いた。

「睡蓮!」

 そこには、充が立っていた。

 充の声に驚いて、俺を取り囲んでいた端道の舎弟たちは臨戦態勢を解いた。できた隙間を縫って人混みから抜けると、そのまま充の元へ向かった。

「おせぇよ、充」

「悪い、でも準備は万端だぜ」

 そうか、と安堵の溜め息交じりに頷いた。そして改めて端道の方に向き合い、声を張った。

「ベラ高にはちょっとした伝統的な催しがあってよ。 喧嘩賭博っつーんだが、ちょうどそれが今日あってなァ」

 その言葉と同時に充の肩に手を置いた。充はそれが合図だとわかってくれたようで、ひとつ頷いて入口の方に顔を向け、「入れ!」と叫んだ。

 扉が開く。その狭い入り口から入ってきたのは、学ランに学帽の厳つい集団──ベラ高の生徒たちだった。

「杢葉さん!」その集団の先頭にいた小柴が俺を呼んだ。

「オウ小柴、どれぐらい連れてきてくれたんだ?」

 はい!と小柴は元気に返事すると、「全員で八十人です!」と子犬のような笑顔を見せた。

 八十人という人数を聞いて、屑ヶ谷の連中はどよめいた。

「嘘だろ」

「この短時間でかよ……?」

 ざわつく舎弟たちに向かって、端道が「なにビビってやがんだ!」と一喝するが、端道自身も焦燥の色を浮かべている。

「別に手出しはさせねぇよ。 お前と違って俺は正義漢なもんでな」

「杢葉、テメェ……!」

 睨み付けてくる端道を気にせず「それでよ、最近盛り上がってねぇみてえでさ」とわざと話し続けた。

「せっかくだし、盛り上げんの手伝ってくれよ」

 学ランと学帽を脱ぎ、「持っててくれ」と充に預ける。

「出張試合と行こうじゃねえか。 『遍羅暴高校番長対屑ヶ谷商業高校番長』でな」

 俺のその言葉に、後ろに控えているベラ高の生徒たちがワァッと歓声を上げた。

「何ィ⁉」

「念のため言っとくが、俺とテメーのタイマンだ。 だけど、睡やウチの誰かに手出したら、こいつらがお前らを殺すぜ」背後を親指でさせば、ベラ高の奴らが「おう!」「屑ヶ谷の雑魚なんかに負けねえぞ!」という声が次々に上がった。それに対して、屑ヶ谷の連中も怒号を飛ばしてくる。

「いいか、オッズを考えて賭けろよ! ……ちなみに、俺が勝つけどな」

 声高々にそう言うと、端道は怒気を孕んだ声色で「……やってやるよ」と服を脱ぎ捨てる。

 端道の身体は、中学の時とは比べものにならないほど鍛えられていた。腕や胴回りなんて中学の時の二倍はあるんじゃないだろうか。『筋骨隆々』という言葉がぴったり当てはまる肉体だ。強くなっているのが一目でわかる端道の身体に、喧嘩好きの血が滾った。

「ただし条件がある、睡と日野以外は全員出て行け。 もちろんウチの連中もだ」

 突飛な発案をした端道はこめかみに青筋を立てており、明らかにキレていた。

 その言葉に周囲がざわつく。「舎弟の前で負け姿を晒したくねえんだろ!」というベラ高の声に、「なんだコラ! 端道さん舐めてんじゃねえぞ!」という屑ヶ谷の反論がぶつかる。それに俺が「静かにしろ!」と喝を入れると、不服そうに声が沈んでいった。

「俺は構わねえぜ、充、睡、お前らはどうだ?」

「あ、あぁ」

「……うん、いいよ」

「よし、じゃあ他の奴らは出ていきな」

 そう指示すれば、全員ぞろぞろと体育館から出て行った。出口に向かう屑ヶ谷の連中の中には、「調子乗ってんじゃねぇぞ」とすれ違いざまに耳打ちしてくる奴もいた。

 そうして、俺たち以外の全員が体育館から掃けた。人がすし詰めになっていたはずの体育館だったが、実際はかなり広々としていて、暴れるのにぴったりだ。

 シャツも脱ぎ、上半身は腹に巻いたサラシだけになると、端道は睨み付けていたはずの顔をバッと顔を覆ってボソボソとなにかを呟き始めた。なんだかさっきの挙動不審な様子に似ている。何を言っているのかは聞こえないが、睡は聞こえているのか、やけに冷めた視線を端道に向けていた。

 少し置いて、フゥ……と深く息を吐いて落ち着いたらしい端道は、またあの鋭い眼光でこちらを睨み付けてくる。だけどその視線は俺を通り越しており、どちらかというと俺の後ろに控えている充に注がれているようだった。

「杢葉、テメェ……そんなに色んな奴を誑かして楽しいのかよ」

「……あぁ?」

 唐突に意味不明なことを口走った端道に「なに言ってっかさっぱりだぜ」と返すと、端道は「だからよ……」と眉間に皺を寄せた。

「俺を弄んでおきながら──他の男にまで手出してんじゃねえって言ってんだ‼」

 その言葉と同時に、端道の拳が飛んでくる。油断してしまった俺の頬にその拳がモロにめり込み、身体が後方に飛ばされた。そのまま倒れると、背中をしたたかに打ってしまう。

「がはッ⁉」

 なんだ、これ──今まで体験したことのない、重い拳だ。

「睡蓮‼」

 睡が俺の方に駆け寄ろうとするが、「近づくな!」と端道が睡に向かってジッポを投げた。それは大きな金属音を立てながら床に当たって壊れる。頑丈そうな鉄製のジッポが一瞬で粉砕され、睡は「うっ」と怯えた声を発した。

 端道が目を逸らした一瞬の隙をついて、奴の懐に飛び込もうと跳んだ。

「あ」

 だが拳が思いのほか効いていたのか足がもつれてしまい、転びそうになる。ヤバい、とまっすぐ手を伸ばして何かを掴むが、そのまま地面に倒れ込んだ。掴んだそれも俺と一緒に地面に落ちるが、手に被さったそれはなんだか生温かい。

「ぎゃーーーっ‼」端道の悲鳴が上がる。

 その声になんだと顔を上げると、端道の下半身はパンツ一丁になっていた。

 転んだ拍子に端道のズボンを思い切り下ろしてしまったのか、と気付くが、それ以上にそのパンツに意識を持っていかれてしまう。黄色の地に赤く細長い模様が散りばめられているそのトランクスは、端道のセンスのなさを俺たち三人に露呈させていた。

「え……端道お前……究極的にパンツだせえな……それ何の柄? 唐辛子とか?」

「うるせえ! 悪いか!」

 否定しないってことは合っているようだ。

「腰パンなんてしてるから……」

「黙れっての‼」

 ぶん、と大きく振り下ろされた拳を避ける。端道がズボンを直している隙を突いて、睡が改めて駆け寄ってきた。

「睡蓮、よく聞け。 端道は睡蓮に惚れてんだ」

「……ハァ⁉」

 惚れてる? 端道が、この俺に?

 いやいや、嫌いなはずだろ。だって中学時代は顔合わせりゃ喧嘩してたし、喧嘩のたびにお互い殺す気でやってた。そんな端道が、俺のことを好き?

「……なんか、今日ってそういう日なのかな」

 なんだか気力が一気にしぼんでいく気がする。それにしても、充といい端道といい、なんだってそんなに俺にそういう感情を抱くかね……西園はまぁわからんでもないんだが。

「んで、充に嫉妬してんだよ。 親友な上に充に告白されたって知って……」

「なるほどなぁ……」

 さっき充を睨んでたのはそういうことか。意中の相手に他に相手がいるからキレるなんて、理不尽な……いや、充と睡に苛ついてガキみてぇな態度とってた俺が言えた話じゃねえかもしれねえけど。

「何話してやがんだァ?」

 俺と睡を踏み潰そうと端山は足を振り下ろした。俺も睡も迫る殺気に気付いて咄嗟にお互い後ろに引く。俺たちがいたところには、端道の足を中心にヒビが入った。それを見てサーッと血の気が引いたのが自分でわかった。

 なんつー馬鹿力だ……こんなん喰らってたら睡ともどもお陀仏だったかもしれねぇ……

「立てこのクソ野郎!」

「いっ……!」

 髪を鷲掴みされて無理矢理立たされる。持ち上げられてしまいそうなくらいに掲げられ、抵抗虚しくそのまま鳩尾にさらに重い一発を食らってしまう。

「うッ、ぶ……!」

 喉が焼けるように熱い刺激性の液体がこみ上げてくる。外的要因からくる吐き気をどうにか元の場所に戻し、喉を押さえながら端道の腹を蹴った。

「ぐッ!」

 どうにか端道の手から離れるが、たった二発のパンチで既に立つのも苦しい。昔よりも明らかに強くなっている端道が、今の俺には恐ろしい怪物にさえ見え始めてしまっていた。

 立とうとしても、うまく下半身に力が入らない。頬も腹も気絶しそうなほど鋭い痛みに支配されていて、いっそのこと気絶しちまえたら、なんてバカなことを考えてしまう。

 ドッ、と右膝が地面についてしまった。今更気付いたが、口の中は血液特有の生臭い味と味で充満している。睡と充が俺を呼ぶ声が聞こえるが、聞こえるだけでそれ以外の情報は何も頭に入らない。

「傷が疼くんだよ……お前につけられた傷は、なにも頬の傷だけじゃねえんだぜ」

 そう言った端道は頬を一撫でし、俺のほうに向かってくる。一歩、また一歩と近付かれるごとに、痛みが増していくような気がした。そのせいで視界がぼやけていく。

 端道は片脚を高く掲げ、俺の頭に狙いを定めた。「死ね」と一言低く呟き、それを思い切り振り下ろした。空気を割る音が聞こえる。

「じゃあ……また増やしてやるよ」

 俺はギリギリまで端道の脚を引きつけ、寸前で奴の懐に飛び込んだ。勢い任せに空振った脚のせいでバランスを崩し、驚愕の色を浮かべる端道の顎に下から拳を突き上げた。まともに食らわせたアッパーは端道の頭をガクンと後方に吹き飛ばし、そのまま身体ごと倒れ込んだ。

「端道ィッ‼」

 俺はそのまま端道の腹に馬乗りになり、力いっぱい頬に拳を入れた。何度も何度も、煮え立つ血に従うまま殴り続ける。

「あ、がッ……クソがァッ‼」

 だが、やられっぱなしの端道ではない。脇腹に拳を叩き込まれ、俺は短い悲鳴を上げて猛攻の手を止めてしまった。最初の二発ほどではないが、それでもイイところに入れられてしまったせいか、痛みで脂汗が噴き出す。

 俺を振り落とした端道は、ボコボコになった顔で俺を睨み付けてくる。普通の奴ならとっくに戦意喪失しているというのに、相変わらず頑固で頑丈なヤローだ。

「睡蓮!」

 充の悲痛な声が体育館にこだまする。ハッと反射的に充を見ると、俺の服を強く握りしめ、今にも泣き出しそうな情けねぇツラをしている。その横に立つ睡も、俺じゃなくて充のそんな様子を見ていた。

 だけどその顔を見て、なんでか俺の胸中は妙に穏やかだった。普通なら罪悪感とかでいっぱいになるはずなのに、充のその顔を見てると……

 ──見てると、「守ってやらねぇと」なんて思っちまう。

 変だな、俺。充に告白されてから、ずっと変だ……でも、今はすげぇ心地良い。

「充、見てろよ」

「え……?」

 充の方に顔を向ける。痛む腹を押さえ、血が溢れる頬を無理矢理吊り上げ、親指を立てた。

「俺が勝つ‼」

 充はぐっと唇を噛み締める。袖で目元を拭うと、「わかってるよ!」と力強く頷いた。

 そんな充を見てほっと安堵の息を吐いた俺は、端道に改めて向き合った。今までで一番大きく強大な殺意を向け、端道は俺を睨み付けた。

「杢葉ァッ……俺は、お前が嫌いだ……」

「俺だってお前が嫌いだぜ、端道」

 互いに歩みを進め、人ひとり分の距離まで近付いた。互いしか映っていない瞳を睨み合い、しばしの沈黙が訪れる。そしてどちらともなく同時に蹴りが飛び、俺と端道の脚が鈍い音を立ててかち合った。強い衝撃に耐えかねて脚が跳び、二人してよろめいてしまった。

「はッ、は、ァ……お前みてぇな、クソヤローに……なんで俺ァ、惚れちまったんだ……」

「……」

 強烈なパンチを繰り出す手で顔についた血や涙を拭う端道は、もう俺の目には強大で恐ろしい怪物には映っていなかった。

 脚がガクガク震え、立つので精一杯だ。肩で荒く息をする俺の背中の向こうから、「睡蓮……」という睡の声が小さく聞こえる。

「ふぅー……決めようぜ」

 両手で髪を掻き上げ、後ろに撫でつける。端道も顔を拭っていた手を握りこみ、改めて戦闘態勢に入る。たった数発の殴り合いなのに、互いに身体はボロボロだった。

 ──一瞬、端道は背中に手を回したが、俺はそれに気付けなかった。

 互いに拳を振るう。その直後、俺のあばらからバキッという嫌な音が鳴った。それと同時に、今までされた攻撃の中で一番の激しい痛みが脇腹を中心に全身に広がっていった。

「が、あァッ……‼」

 一瞬早く俺を捉えた端道の拳は、俺のあばらに強いダメージを与えたのだ。

 意識が飛びそうな痛みを放つそこを抑え、その場に崩れ落ちそうになるがどうにか踏ん張った。おかしい、あの手負いでこんなパンチが出せるなら、最初の二発で俺は沈んでいるはずなのに、と冷静に情報を処理しながら顔を上げる。

 次の一発のために構えた端道の拳には、いつの間にかメリケンサックがはめられていた。

「こ、の……どこまで、汚えんだ……」

「うるせぇ‼ ゲホッ……こうでもしねえと、お前は、殺せねえんだよ……!」

 じわじわと痛みが増していくあばらをさすり、声を裏返らせながら「殺してやる!」と叫んだ。

「俺の台詞だボケ‼」

 再度、互いの拳が交差する。だが俺の顔を狙う端道とは違い、俺はその拳の照準を端道の腕に定めていた。メリケンサックを装備しているその腕を拳で弾く。手から抜けたメリケンサックはどこかに飛んでいき、端道の胸には大きな空間ができた。

「な──」あっけにとられている端道の懐に入り込み、距離を縮める。

「あばよ」

 膝を曲げ、拳を強く握りこんで下に溜める。膝のバネを駆使して跳び上がり、それと同時に腕も力いっぱい突き上げれば、今までで一番力のこもった強力なアッパーが端道の顎に入り、最高の一撃を食らわせることができた。

 端道は白目を剥き、ドドドッと盛大に音を立ててそのまま吹き飛んで倒れた。

 ハァ、ハァ、と痛みのせいで短い呼吸を繰り返しながら、端道の顔を覗き込む。口の端からあわが溢れているが、黒目をわずかに俺の方に向けた。

「よぉ、端道。 顔に傷が増えて男前になったじゃねえか」

「こ、の……クソやろ、ぉ……」脳しんとうを起こしているのか、喋る声からはすっかり圧力が消えていた。

「約束だ、睡は返してもらうぜ」そう言い置き、充と共に睡の元に向かう。

 自分でもわかるくらいふらふらと脚が覚束ない。よろめいて倒れそうになり、身を任せて倒れてしまう。だが、すんでのところで俺の肩をなにかが支えてくれた。安心するにおいと心音に包まれ、どこか懐かしい気持ちにさえなった。

「おい、大丈夫かよ……」

 俺を抱きとめてくれた充は、安堵と心配が入り交じった表情をしていた。「ん」と短く返事をすると、「大丈夫じゃねえだろ」と睡も俺が立ち上がるのを介助してくれる。

 内心穏やかになり、やっと終わった、と安心の涙が出そうになる。

 だが、突然背後からガタガタッという不穏な轟音が聞こえてきた。嫌な予感がし、反射的に振り向いた。

 そこには──六段ほどの跳び箱を高く掲げた端道が立っていた。

 あんな激しいダメージを負っておきながら、よく立ち上がったな、なんて思わず感心してしまう。武器としては頓知気なチョイスのそれを振り下ろそうとする端道は、まさにバーサーカー状態だった。

「テメェら、全員……死ねェーーーーーッッ‼」

 狙っているのは俺たち三人だろうが、その狂気の瞳は充だけを捉えていた。

「充!」

 俺は咄嗟に睡を突き飛ばし、充の身体を抱えて横に跳んだ。思わず自分の身体を下敷きにしてしまったが、勝利の興奮からか痛みをあまり感じなかった。

 バキバキに破壊され、ただの木屑となってしまった跳び箱。だけどクッションのある一段目は他に比べたら壊れ方はマシで、端道はそれを手にしてまた充に向かって振りかぶった。

 だがダメージのせいで動きが鈍く大振りな端道は隙だらけで、勢い任せに体当たりして跳び箱を思い切り蹴飛ばした、サッカーボールのように跳ねた跳び箱は壁に激突して割れ、クッション部分だけになってしまった。

 ヤベ、他校の備品壊しちまった。……でもまあ、元はと言えば端道が悪いんだからいいか……正当防衛だよな、たぶん。

 そう自分に言い聞かせ、端道の方を見る。端道はここにきてようやく戦意を失ったのか、膝をついてうなだれていた。

「ハァ……お前なー、さすがにむちゃくちゃだぞ」

 そう説教するが、端道は色を失った顔でぼそぼそと呟くだけだった。

「そんなに……ソイツがいいのかよ」

 その言葉に釣られ、充を見る。まだ状況についていけてないらしいが、持っとけと頼んだ俺の服はしっかりと腕に収めていた。なんだかその様子がおかしくて、ふっと笑いを零してしまう。

「……わかんねえよ。 でも、充は俺の親友で……相棒なんでな」

 縋るような表情で俺を見上げる端道。その表情は痛いくらい切なくて、こいつの気持ちは本物なんだな、とわかった。

「いつまでたっても外道だから、お前は弱いんだ」

 俺はあえてそう辛辣に吐き捨て、「さすがにメリケンは痛ぇな」とわざとらしくアバラをさすった。

 諦観の失笑を浮かべる端道は、一言、「悪かったよ」と呟いた。

「あとやっぱあのパンツはだせえって」

「やっぱ死ねお前……」

 ハッとようやくこちら側に戻ってきた充が、「睡蓮、大丈夫かよ」と肩を貸してくれる。睡ももう片方の肩を支えてくれる。

「大丈夫だよ、言ったろ? 勝つって」と笑うと、充は頷いた。

 体育館の扉を開けると、俺の勝利を待ち望んでいたベラ高の生徒が待ち構えていた。

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