第19話
高所恐怖症じゃなくて本当によかったと思う日がやってきた。高いところが怖く感じる人が世の中には一定数いるのだと、昔ソクさんから教えてもらったことがある。
スイの生まれ育った村は平坦なところで、周りの森もあまり高低差がなく、高所に行きたければ家の屋根の上に登ったり、森の木々の上に登るくらいしか体験できる場所がなかった。
そのため高所と言ってもたかが知れてる高さであり、自分がどの程度の高さまでなら恐怖を感じずにいられるのかなど知るよしもなかったが、今日ついに間違いなく、スイは高所にいる。
ネーロンの街を北から徒歩でしばらく道なりに進むと、少しずつ草木の生えない地帯に入る。代わりに大きめの石や岩が道の端に転がるようになり、さらに進むと地面が乾いた土壌へと変わってくる。
その頃には、街を出た時に遠くのほうに見えた灰色の山が、壁のように立ち塞がる距離にあった。景色の一部だったはずの岩山が目の前に広がっていたのだ。
昨日買いそろえてもらったばかりの短剣と弓を身につけ、山道をスイたちは歩いていた。
およそ七合目あたりまで来たところで一旦休憩することになったのだが、道を少しでも逸れると即死覚悟の断崖であり、馬車一台分が通れる道幅がかろうじてあるだけだったので、休憩するにも気が休まらなかった。
なぜこんなところに来ているのかと言うと、都であるアストロンへ行くという最大目的の旅において、道中で消化すべき別の目的のためである。
スイはわずかに白くなる息を漏らしながら両手を擦り合わせた。
季節は冬。ネーロンでは上着を着ていれば寒さに耐えられる程度の気温だったが、そこから北へ歩き続け、さらには登山まですれば気候はあっという間に変化してしまう。
五合目を過ぎたあたりから息が白み始め、指先の冷えを感じるようになった。
カルラとルトアを見やると、二人とも鼻の頭を赤く染めている。きっと俺の鼻も赤くなってるんだろうな、と思いながら口を開いた。
「フィーリスってこんな危険な場所にも行かなくちゃならないんだな」
道中で消化すべき目的、フィーリスの浄化の仕事のことだった。昨晩、宿で聞いた話によるとこの山の頂上に行かなくてはいけないらしい。
「これはまだいいほうだな。前に鍾乳洞の奥に入った時はマジで死ぬかと思ったし」
「あの時は大変でしたねぇ。まさかドラゴンがいるだなんて思いませんでした」
顔を顰めるカルラにルトアは軽く笑い、ポーチからネーロンで購入した水筒を三つ取り出した。
通常の水筒と違って温かい飲み物を保存しておけるようにと、製作工程で魔力が込められていると聞いて即決で購入するのを横で見ていた時には、こんなにも早く活躍する場面がくることになるなんて思わなかった。
スイはルトアから水筒を受け取り、ドラゴンって本当にいるんだ……と頭の隅で思いつつ、水筒に口をつけた。時間が経っても温かいままの飲み物に感動を覚える。
魔力にはこんな使い方もあるんだな。今度試しに何か作ってみようか?
二口ほど飲んでホッと息をつくと、先程より濃い白さの息が立ち上った。
休憩を終えて再び歩き出す。
フィーリスであるカルラとルトアの用事なら俺が完全武装する必要はないように思うけど、ルトアの説明によるとこの先には魔物がいるそうだ。二人の仕事ついでにスイも魔物狩りをしてみてはどうか、ということらしい。
短剣はいつも腰にぶら下げていたから、ないとむしろ落ち着かないので、村にいた時と同じように寝る時も身につけている。
弓は矢筒もあってかさばるため日常的には持ち歩かず、二人のどちらかのポーチに入れてもらっていた。そして必要な時にだけ出してもらうので、今日は完全武装ということになる。
物の体積と質量を無視して何でも入るポーチを見るたびに、早く手に入れたいという気持ちが湧き立つ。それがスイのやる気に変換され、たくさんの魔物を狩ってやるぞという意気込みの源になっていた。
しかし、この山に魔物がいると聞いていたのに八合目に差し掛かった現在も、まったくと言っていいほど魔物どころか生き物の気配を感じないことに、いささか拍子抜けである。警戒を怠ったりはしないけど、街を出た時の意気込みをそのまま維持し続けられるほどスイは武人ではなかった。
「なあルトア。聞いてもいいか?」
先頭を歩く双子の片割れに声をかける。
「はい、何でしょう?」
「本当にここに魔物っているのか?全然出てきそうにないけど……」
「一応今も瘴気の広がりは感知してるので、この山に魔物がいるのは確かなんですが……。そうですね、こんなに上まで登っても一匹も出ないのは少し気になります。カルラはどうですか?」
ルトアは立ち止まると何かを探すようにキョロキョロし始める。カルラはルトアの背後に回ると意識を集中させるように目を閉じた。
数秒の後、二人はお互いの顔を見合わせる。
「……いや、オレも同じだ。山のあちこちに瘴気を感じるけど発生源がわからねぇ。ここまで来て何も出ないならこのまま頂上まで行くしかねぇだろうなー」
「ですね……。スイ、もしかしたら私たち、ちょっと厄介な仕事を引いてしまったのかもしれないです」
眉を下げてわずかに微笑むルトア。困ってるような、案外そうでもないような、よくわからない笑顔だ。
「厄介っていうと?」
「強い魔物がいる可能性があります。もしくは狡猾な魔物です。通常、魔物というのはあまり知能が高くはありませんが、時折そうではない亜種が現れることがあるのです。この山にいる魔物はそのどちらかか、両方か……。とにかく一筋縄ではいかないかもしれないので覚悟しておいてください」
「うん……わかった」
初めての魔物狩りがこんなことになるとは思わなかった。まだ見ぬ魔物に怖気づきそうになりながらも、今一度気持ちを引き締める。
三人は頂上を目指して足を進めた。
特に何もないまま頂上に辿り着くと、そこには信じられないほどの緑が生い茂っていた。乾燥した土と岩しかなかった山道の果てに、このような景色が広がるとは誰も予想できなかった。
どこにでもあるような草原なのだが、しばらく目にすることのなかった緑色に思わず感嘆のため息を漏らす。所々に低木が生えており、中央に小高い丘がある見晴らしのよい場所だった。
冷たい風が吹くと葉のざわめきがどこまでも鳴り響く。
スイが目の前の草原に見惚れていると、横からルトアとカルラの緊張した声が聞こえてきた。
「カルラ、あれですね?」
「ああ……しかしでけぇな。何食ったらあんなにでかくなるんだよ」
「大きいだけで、私たちの邪魔をしないでくれるといいのですが」
「友好的なやつなら苦労はしねぇけどよ……」
二人の視線の先を追っても、そこには小高い丘しかないのだが、話の内容からして見逃すようなものではないと思う。
二人には見えていて、俺には見えない何かがあるのか?
そんなスイの戸惑いを嘲笑うかのように、突如として丘全体が大きく盛り上がった。
「な……!?」
スイは驚きで口を閉じることも忘れ、その光景に目を疑った。
丘が動いているのだ。グググと盛り上がり、周りの草木より短く生えそろった一面の緑の葉を揺らすと、ゆっくりと頭をもたげてこちらを見た。
そう、こちらを見たのだ。
敵意に満ちた二つの光が。
「スイ! 一旦引きますよ!」
ルトアが素早く来た道を引き返す。ほぼ同時にカルラも踵を返していた。
「えっ、でも……!」
半身を捻りながらも足を動かそうとしないスイに、カルラも声を荒げる。
「おい早くしろ! あんなのに攻撃されたらひとたまりもねぇぞ!」
二人はそれでも一向に逃げる気配のないスイを連れ戻そうと手を伸ばす。
スイは目の前の巨大な生き物に向き直り、弓を構えた。
「だってあれ、苔ウサギだろ!?」
叫ぶのが先か、弓を引くのが先か。
そんなことをいちいち考えてられる余裕などなく、目標物に矢が当たったか確認することなく次の矢を弦にあてがう。カルラたちが何か言うより速く、スイは弓を引き絞った。
放たれた最初の矢は左目を貫き、二射目は脳天に当たり弾け飛ぶ。
「くっそ……頭硬すぎだろ!?」
巨大な生き物は左目を負傷したことにより太く長く咆哮すると、その場で激しく身悶えた。スイは三射目を構えながらギリっと歯を食いしばる。
頭蓋に矢が通らないならば今度は右目を狙おうとしたのだが、こうも激しく暴れられては狙いがつけられない。頭を低くした一瞬の隙に射るなんて芸当、そこまで弓が得意ではない俺には無理だ。
ナッドなら上手くやっただろうか?
緊迫した状況下でかつての親友の弓さばきが思い出される。
とにかく当たる確率を高めるためにスイは右目があるほうへと向かって走り出した。
濃い緑色の苔を背負ったような体躯はゆうに四メートルは超え、横に回り込むだけでもかなり距離がある。
普通、目は的が小さい分当てづらいものだが、今回の的は全体的に大きいおかげでスイでも難なく射ることができたのだ。しかしそれは相手が暴れていないことが大前提だ。
呼吸をすると冷たい風が口から喉を通り肺に溜まり、吐き出される息は真っ白な蒸気となって霧散した。
そこでスイは自分の呼吸が荒くなっていることに気がつく。
走りはしたが息が切れるほどの距離ではなかった。ではなぜか? その問いに答えるように胸の鼓動が早まる。
———これは恐怖だ。
見た目は苔ウサギだとしてもこれほどの大きさのものには出会ったことがない。最初は無我夢中で弓を射れたが、一度冷静になると恐怖で体がひるみそうになる。
だけどここでひるんだらダメなんだ。少しの恐怖は発火剤になり得るけど、恐怖に支配されたら動けなくなってしまう。
しっかりしろ! 相手はただのでかい苔ウサギだ!
ひるみかけた自身を無理やり鼓舞し、目の前の獲物に集中する。そう、これは獲物なんだ。戦うべき相手ではない。獲るべき、獲物。
そう思うと心が少しずつ落ち着いてきた。今までと何も変わらない、狙いを定めて、射るだけだ。
スイは、目の前の獲物が左目に刺さった矢を取ろうとして頭を下げた瞬間を見逃さなかった。息を漏らさず、弦を目一杯引く。その刹那、右目に深々と矢が食い込み、痙攣を起こした巨体が声もなく地面に伏せた。
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