第8話



 まず最初に思ったのは『これ夢だ』だった。


 時間が経つにつれて、妙に覚えがある今の状況に、唐突にそう理解したのだ。



 冷たい地面。動かない体。

 夢だと理解してしまえばいくらかは気持ちに余裕が生じる。


 だとしても動かない体でどんどん地面に吸い込まれていくのは、例えようのない恐怖があった。

 頭ではわかっていても恐怖心というものは本能に似たところがあり、そううまくコントロールできない。


 夢のくせに不便だな、と思った。



 でも夢なら、昨日と同じ夢ならきっとあるはずのものを恐怖と戦いながら必死に探した。


 眼球だけは動かせたので、可能な限り視界の端を探る。


 昨日は見ることが叶わなかった暖かい光の正体をスイは見た。






「ピィ」

「ううー……。おはよう、クアン……」


 目を覚ますと体が重かった。

 それはクアンが布団の上で飛び跳ねているからではなく、体調が悪いわけでもなく、寝不足の時みたいな気だるさだった。


 寝不足というのも例えでしかなく、睡眠時間は足りているはずなのにどうして、と動かない体に鞭打つように上体を起こすと、少しずつ体が言うことを聞いてくれるようになってきた。


 夢の中でも動かせないのに、それが現実になったりでもしたらまったくもって洒落にならない。

 そこでふと、今朝見た夢の最後を思い出した。


「あれ?……どうなったんだっけ?」



 最後に見たはずの暖かい光の正体がどうしても思い出せなかった。いくら思い出そうとしてもわからない。むしろ思い出そうとすればするほど詳細が抜け落ちていくような、そんな感じだった。

 

 二日続けて見たせいか何となく気になったけれど、思い出せないならしょうがない。スイは頭を切り替えて、よしと立ち上がるといつも通り朝の支度を始めた。





「だからさー、スイもそう思うだろ?」


 いつも通りの朝は突如として形を変え、何故かナッドと一緒に朝食を囲んでいた。


「うんうん、そうだな」

「おいコラ、適当に返事すんな」


 正式な婚姻はまだとはいえ、ほぼ新婚のナッドと二人で朝食を食べていることに違和感しかないのだが、これは彼なりの気遣いなのかもしれないと気づいたのはだいぶ時間が経ってからだった。


 ナッドがコシェと暮らし始めたら、もちろんお隣さんではなくなるのだろうし、今までみたいにスイとしょっちゅう一緒にいることもなくなってしまう。友情自体がなくなるわけではないがナッドの優先順位は当然変わるだろう。



「ちゃんと聞いてるよ。それで? 靴下に穴が空いてたんだろ?」

「靴下じゃねえよ、ズボンだよ。しかも穴も空いてねえ」


 だから一緒にいれる間はなるべくその時間を作ってくれようとしていたわけだが、そんなに勘が鋭くないスイはこの時、特に用事もないくせに延々と喋り続ける目の前の友人をただの変な奴だと思っていたので、かなり適当に相槌を打っていた。


 そんなスイに対して本気で怒るでもなく、まったくこれだからスイは……と肩をすくめるだけなのは、長年一緒に過ごしてきてスイの性格をよくわかっているからに他ならない。


「スイは本当にいないのか、気になってる奴とか」

「またその話? いないよ、残念ながらね」

 自分の婚姻が決まったからなのか、この手の会話が増えた気がする。俺にも幸せになってもらいたいというナッドの気持ちが見えるから、迷惑ではないけど何度聞かれてもいないものはいない。ごめん。



 そうかー、と初めから答えは分かりきっているのに毎回残念そうにするナッドは、コップに口をつけながら窓の外に目を向けた。


 口をつけてはいるのに全然飲む気配のないまま、ぽつりと呟く。


「なんとなくだけど、スイはこの村じゃなくて……もっと遠いところで運命の出逢いとかありそうだよな」


「……え? 何それ」

 俺のイメージが迷子すぎる。


「いや、なんとなくだぜ? あんま真面目に捉えるなよ?」

 ははっと笑ってコップの中身を飲み干す様子をじっと見つめた。

 もしかして昨日の酒がまだ抜けてないのだろうか。


「うん、でも……そうだな。村の外に興味はあるかも。この村が嫌とか、そういうわけじゃないけど、ちょっと見て回るのも楽しそうだよな」

 生まれた時からずっと、行動範囲は村とその周辺の森だけ。時折訪れる旅人たちが聞かせてくれる話はどれもこれも魅力的だった。


 そこでふと、今言ったことが実現可能な状態になったことに気がつく。


 親兄弟はいない。ナッドは所帯をもった。

 今なら何も心配することなく、思い残すこともなく、安心して旅に出ることができるんじゃないのか? クアンは元々この村の出身でもないし問題なく連れて行けるだろう。


 チラリとクアンがいるほうへ意識を持っていくと、すかさずテーブルの上の手首を掴まれた。ナッドが訝しげにこちらを見る。


「考えついたら即行動ってのは止めろよな? せめておれの結婚を盛大に祝ってからにしろ」


 考えを見透かしたように真っ先に釘を打たれた。ナッドは本当に鋭い。

 スイは小さく笑うとゆるりと首を振る。


「そんな、今すぐ出て行くとかそういう話じゃないよ。そういえばそういう選択肢もあるんだなって思っただけだし、ナッドの結婚を見届けもせずにどこかに行ったりしないよ」

「そうか? スイは目を離すと何しでかすかわかったもんじゃないからなぁ」

 腕を組んで感慨深げに頷くナッドに、スイは苦笑する。



「心配性だなぁ。そうだ、ナッドはもう見た? 昨日村に来た旅の人」

「いや? 見てないな。誘い風か?」

「うん。俺もチラッとしか見てないんだけど、たぶん村長の家に泊まったんじゃないかな」


 村長の家には立派な客間がある。何人もの大所帯でなければ招き入れることが可能だ。


「おじさんだったよ。ソクさんよりは若そうだったけど」

「ふーん。この後コシェのところに行くから、その時に少し覗いてみようかな」


 基本的に旅人や商人が頻繁に訪れることはなく、外との繋がりがあまり多くないこの村の住人にとって、数多の情報や品を有する彼らは必然と好奇の対象であった。




 朝食を食べ、少しの間二人で談笑し、ナッドが帰って行った後、スイは魚を釣りに森へ出かけた。そこそこの収穫を手に村へ戻ったのは空が鮮やかな茜色に染まる頃であり、家の前に誰かがいることに気づいて足を早めた。


 なんと家の前にいたのは例の旅人の男であった。まさかそんな展開を想像していなかった、もとい想像できるはずもなかったスイは、文字通り目が点になってしまった。

 驚いて足を止めたスイに男が気づいて近づいて来る。


「やあ、君がスイだね? はじめまして。私は昨日こちらへ来たばかりの旅の者だ。コウラクという」


 さして大きくもない声量なのに聞き取りやすい声で男は言った。



「はじめまして、スイです」

「すまないね突然訪ねてしまって、驚かせてしまったかな? でもどうしても君に会いたくてね、こちらの娘さんに案内してもらったのだよ」


 スイはそこでようやく、コウラクと名乗った男の斜め後ろにいる人物を見た。村長の娘だった。彼女はスイに向かって軽く会釈をすると、少しだけ前に出た。


「ごめんなさい。留守だったから帰ろうと思ったのだけど、コウラクさんがあなたを待つと言って……」

 少し困ったように視線をスイからコウラクに移し、またスイを見る。


 スイはとりあえずコウラクに用向きを尋ねることにした。

「待たせてしまったようですみません。それで……どういったご用件でしょうか?」


「ああ、実は君が所有している鳥を見せてもらいたくて来たんだよ。とても美しい羽根を手にしている者を見かけてね、それを近くで見ることができず落胆していたんだが、話を聞けば加工品ではなく実在する鳥の羽根だと言うじゃないか! ぜひとも旅の土産に一目見させてはくれないだろうか?」


 少しばかり興奮気味に両手を広げてみせる。ベルトの上に乗った腹肉が強調され、今にもそのベルトが千切れてしまわないか心配になる。



「えっと……」


 おそらくクアンの羽根のことで間違いないだろう。ナッドに渡した羽根をたまたまどこかで見かけたようだ。

 この様子だと見るだけに飽き足らず、自分も羽根が欲しいと言い出すかもしれない。クアンから抜け落ちた羽根はもう手元に一枚もないのだが、本当に見るだけで満足してくれるだろうか?


 どうしようかと考えあぐねていると、村長の娘が遠慮がちにコウラクの前に進み出た。

「あの、もうすぐ日が落ちますし、彼も今しがた帰って来たばかりですので、明日改めて伺うのはどうでしょうか?」


「うーむ。私は今すぐにでも見たかったのだが……」

 口髭を撫で、スイが持つ籠から漂う魚の独特な生臭さに一瞬だけ眉をひそめ、すぐにニコリと笑った。


「そうだな、今日は突然すまなかったね。また明日出直すとするよ」


 意外にもあっさりと身を引いたコウラクに少し驚きつつも、スイは軽く頭を下げてその横を通り過ぎた。コウラクが村長の娘と歩き出す足音が後ろのほうで聞こえた。



 玄関の扉を開け、明日どうするか決めないといけないことに頭がいっぱいだったので、扉が開いて室内が見えた瞬間にコウラクが目ざとく振り返っていることに気づくことはなかった。

 

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