ある英雄の結末
朧げな意識の中で、見も知らない誰かの瞳の色だけが、微かに記憶に残っていた。
赤みがかった透き通った色の瞳。ぞっとする程に美しく、暗い中でも微かに光を反射するそれは、それ自体が二つの宝石の様であった。
大丈夫だよ、君は助かる。君が助けた男の子も無事だよ。
暗い海から引き揚げられた砂浜でそう言って、少女はナギの頭を撫でていた。
命を救われた。それを悟り何かを言おうとするが、気怠くて言葉が口から出てこない。意識が闇に沈む中で、声は楽し気に笑っていた。
しばらくゆっくり休んでいていいよ。私はもう行かなきゃだけど、私の事は忘れてくれたって構わないから。
意識が闇の底に沈んでいく。宝石の瞳と温かな声だけがそっと頭の中に残り続けていき、そうしてナギは眠りについた。
***
「……っ」
目が覚めると、ナギは白い天井を見上げていた。
体中が軋む様に痛い。腕には天敵の針が刺さり、栄養液か何かがぽたぽたと点下している。ゆっくりと体を起こすと急に頭に血が上り視界の端でがチカチカと光が瞬く。
「あら、目が覚めまして?」
声はベッドの隣から聞こえてきた。視線を向けるとそこにいたのは、晴天が広がる窓を背にした二人の女性だった。
一人は白金色の髪をした少女。ネックリボンのついた淡い緑色のワンピースに身を包んだまだ幼さの残る顔立ちの女の子だった。
もう一人は燕尾服を着た細身の女性だった。肩にかかる程度の短髪に目には片眼鏡、見た目にはナギと同じぐらいの背丈に見える。
フィーネ・アインホルンとその従者、フォッケウルフ。フィーネは椅子に座ってナギの方をじっと見ていた。
「フィーネ……なんで……」
「どうやら元気そうですわね。助けてくださった方に感謝する事ですわ。それがなかったら今頃、助けに行った子供と一緒に海の藻屑でしてよ」
「助け……?」
「あら? 覚えておりませんの?」
「……」
覚えていない。朧げに誰かに助けてもらったような気はした。しかしその記憶がひどく朧げだ。
「どなたかお知り合いの方ではなかったのですか?」
「……ああ」
「そうですの。まあそれはいいですわ。それよりも貴方が寝ている間に大変な事になっていましてよ」
フィーネがそう言うと、フォッケウルフがナギの手元に新聞を置いた。
ナギが眠っていた間に発表された号外。その見出しを見てナギは小さくため息をつき、その中に目を通す。
最強の王者ミヅチ・ナギ。八百長発覚。
今まで何度も金で自分の勝利を売ってきたと、彼の身辺の調査を行ったリカルド市長が証言。
出身は下層の灰域。ゴミ溜め出身の腐った性根が明らかに。
そんな内容がのべつ幕なしに書き綴られていた。全てを読む前に気が滅入ってしまいナギは深く息を吐きながら新聞を置く。
「無様極まりないですわね」
「お嬢様。ミヅチ様は病み上がりです」
「だから何ですの。貴方が所々であえて勝ちを譲っていたことぐらい私は知っていましてよ」
「……気づいていたのか?」
「まあ……私も風に言われて初めて気づけたという感じですが」
フィーネの言葉にナギは思わず息を詰まらせる。
ずっと上手く騙せていたつもりだったが、戦っている当人にはばれていたらしい。
「何か事情があることぐらい察しておりましたし、高みで戦い続けるには政治も必要だろうと理解していましたわ。そういうところも含めて、私はミヅチを好敵手だと思っておりましたの」
そう言ってフィーネは、少しだけ悔しそうな顔をした。
「どうして……もっと上手くやれませんでしたの」
「……」
本当に、フィーネの言う通りだと思う。
今までずっと上手くやれていたのに、こんなところで躓いてしまった。
「お嬢様」
「え? なん――ぇぶ⁉︎」
突然背後から脳天にチョップを落とされ、フィーネはお嬢様らしからぬ悲鳴を上げる。
「な、ななな何するんですの⁉︎」
「最初に約束しましたよねお嬢様。相手は病人ですから言葉には気をつけてくださいと」
「あう……」
痛いところを突かれて顔を引き攣らせるフィーネに、フォッケウルフは軽蔑する様な視線を向けてため息をつく。
「反論できない相手にグチグチグチグチと……完全敗北した腹いせですか? 器が小さい事この上ない……」
「ま、待ちなさい! 私は仮にも貴女の主人ですのよ! その口の利き方はなんですの⁉︎」
「自分が不利になった瞬間に主従関係を振り回すような人には、一度従者のありがたみを理解させる必要があるのかも知れませんね」
「嘘嘘嘘! 私がぜーんぶ悪いんですの! これからはプリンもケーキも残さず食べますから許してくださいな!」
「お嬢様甘い物好きでしょうが。ぶっ飛ばしますよ」
表情を変えないまま静かに怒気を放つフォッケウルフ。どちらが主人か分かったものではない。
「なあ、それで俺は今後どうなるんだ? その……こんな騒ぎを起こして」
「……市長は軍に通報すると喚いていましたわ。息子に怪我を負わせた貴方を罪人にして殺してやると」
フィーネの言葉に背筋を強ばらせるナギ。しかしフィーネは言葉を続ける。
「ご安心してくださいませ。幸いにも軍が動くような事にはなっておりません。前科者にはならずに済んでおりますわ」
「そう……なのか?」
「お嬢様や風様、その他有志の方々の除名嘆願がありました。それに、アーサー・ロナポルドも」
「何?」
ここでアーサーの名前が出てきた事に少なからず虚を突かれる。あの男なら、市長同様に激昂していてもおかしくなさそうだが。
「自分の力がまるで通じなかった事、ミヅチ様に手心を加えられていた事、その辺りに色々と思う事があった様です」
「まあともかく、貴方はひとまず脛に傷を負う様な事は避けられましたの。ですがそれでも全てを守り切る事は出来ませんでしたわ」
一拍置いて、フィーネは下らなそうに呟いた。
「アヤクモリンの登録解除及び、上層区画の居住権剥奪。怪我が治り次第、貴方はここを追放されますの」
「……」
それは予想していた結果だった。ナギはフィーネの言葉を静かに聞き入れる。
「そうか。分かった」
「驚かないんですの?」
「別に大したことじゃない。ただ今まで十年かけて積み上げてきた全てが失われるだけだ」
「認識が甘いですわね。貴方は二度とこの場所には戻ってこられない。騎手であることを辞めて、貴方に何が残って?」
「筆を持てば画家だし包丁を持てばコックだ。何にだってなれるさ」
「あらそう、それは良かったですわね」
呆れ交じりに愚痴をこぼすフィーネに、ナギは質問を投げかける。
「リンは? あいつは今どこに?」
「あの子は今、ミヅチ様を探し回って軍から逃げ回っております」
「逃げ回……どういうことだ?」
言われた内容が呑み込めず戸惑うナギに、フォッケウルフは言葉を続ける。
「貴方様の数々の不祥事を、あの子は何一つ信じておりません。ミヅチ・ナギの汚名を晴らそうと必死になって街中を走り回り、また貴方に会おうと探し回っているのです」
「このままではあの子まで潰れてしまうかもですわね。まあミヅチ抜きのアヤクモなんてどーでもいいのですが」
そう言ってフィーネは立ち上がる。病室の出口に向かうフィーネに付き添って、フォッケウルフも歩き出した。
「それでは伝える事も伝えましたので私は帰りますわ」
「もう行くのか?」
「ええ。騎手ではなくなった貴方にもう用はありませんもの。今後会う事もないでしょうね」
「そうか。今までありがとう。元気でな」
「これはこちらの台詞ですわ。では……」
さようならと、少し寂しそうに小さく呟いてフィーネは病室を後にする。
自分しかいない初夏の病室は、少しだけ物寂しくなった気がした。
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