唇のカタルシス
@8163
第1話
百円ショップで買ってきた赤いランチボックスに白い石膏を流し込み、紙粘土で象った女の唇を押し付けた。本物よりは大きいが、上唇の皺をリアルに作りたかったので少し大きくなったのだ。もっとも、実在の女も口は大きいイメージで、特に下唇は厚く、めくれ気味で、所謂、タラコ唇だ。が、造るのに、その下唇は難しくなかったが、上唇とその皺、そして、その奥に覗いている歯。女は喋る前に口を少し空け、白い歯を見せるのだ。そのイメージを具現化するのは、なかなか大変で、どうやっても上手く行かず、先に歯茎と歯を作り、その上に乗せるように層を重ね、やっと思う形になったのだ。それでも、象牙質の白い歯の、あのツルツルとした質感は表現の仕様がなく、出来ることなら入れ歯でも持ってきて埋め込みたかったが、それも違うような気がして止めた。イメージは陶器か磁器、白い茶碗に口をつけた感じなのだ。
口を空けると言っても薄く、顎を上下に開けるのではない。上唇が下唇と離れ、M字に空き、そこに白い歯が覗くのだ。月齒類の、あの二本の前歯が唇の奥に引っ込んだ感じで、歯は唾液の水分で光り、入り口は紅い色で彩られているのに、奥は翳になって暗紫色の口紅に見え、余計に白い歯が映える。
ツルツルとした歯の触感。これは実際に舐めた記憶に基づいている。初キスが、いきなりディープキスになり、舌で唇と歯をなぞるように舐めた。俺だってのっけからそんなことはしたくはないが、まだ二十歳なのに、女にはキスの経験があるらしく、それが癪で舌を入れたのだ。相手の男も知っている。後輩の佐藤だ。女とは同期入社の同い年。別に二人の恋路の邪魔をする気はサラサラ無かったのだが、女は佐藤を振り、俺に近づいてきた。
大概の想像はついていた。若い佐藤は体の関係を求め、多分、女が拒否したのだろう。俺は当て馬か、良くて白三角か黒三角の、競馬で言えば対抗馬にもならない位置になるのだろうとは想像がついた。馬鹿にしてやがる。けれども、当て馬だけは御免被りたい。それに、若い女にひれ伏したくはないし、中年オヤジみたいな金ヅルも御免だ。最も悔しいのは、女の目論み通りに佐藤が嫉妬を募らせ、恋に狂って己を見失い、俺と女の関係に気付き、敵愾心を向けて来ること。そして二人の男が一人の女を巡って恋の鞘当てを繰り広げる三角関係だ。
冗談じゃない。男二人に決闘でもさせようと言うのか? そうなったのなら、女のナルシズムは満足するのだろうが、女を取り合う男は、牝を取り合う動物と同じだ。まあ、そうなんだが、その戦いに負けるのは嫌だが、勝っても嬉しくはない。漱石の"こころ"ではないが、カインの末裔を思い知るのは御免だ。
石膏が固まり、紙粘土を抜いた。上手く剥がれずにカスが残るのではと危ぶんだが、そんなことは無く、仕上がりは良い。この窪みにシリコンを流し込んで行く。これも百円ショップで買ったアルミ鍋にシリコンの粉末と水を入れて混ぜ、弱火で温めて溶かす。スプーンで掻き回していると液が透明なので、ゼリーか寒天のようで旨そうだが、甘い匂いはしない。
最初は2次元だった。アンディー・ウォーホールのモンローの唇を真似て描こうとしたが、モンローの開けっ広げなセクシーさは、女のそれとは違った。ただ、ポスターには唇紋が赤く、ひび割れのように描かれており、それが、舌でなぞった記憶と繋がつて甦り、塑像を造る動機になったのだ。
次は、空想でしかないが、3Dプリンターで作れたらと思って調べたら、貸してくれる所はあったが、データを入力する必要があり、不可能と知れた。唇だけでなく、全身のデータさえあれば瓜二つのフィギュアの制作も不可能ではなく、そう言えば、女性器のデータをネットに公開した事件を思い出し、動機はどうであれ、考える事は同じなんだと妙に納得した。
さて、唇だが、透明のままにしておく積りはない。彩色をするのだが、これも百円ショップでファンデーションと口紅を幾つか買い揃え、細い口紅の筆も一本用意した。白い歯はどうしよう。良いアイデアも思い浮かばないし、絵の具を塗るか紙を貼るか、小麦粉を練って薄く伸ばし、貼る手もある。水餃子の、あのヌルッとした感触が舐めた歯の感触に近い気がするが、まあ、最後に決めればいいさ……。
あれ以来、ディープキスの後、女は誘いに乗っては来ない。デートどころか会社でも目を合わそうとしない。これ見よがしに避けている。次のデートでは肉体を求められるのは明らかで、もしデートOKなら、それは二人関係がが次の段階に進む。それをOKする事になるからだ。女は、俺が佐藤と女の関係を知る筈がないと高を括っている。だから"そんな安っぽい女じゃないわ"と、カマして来ているのだ。それは同年の佐藤に対する扱いと同じ、言うなれば普通の反応だが、年上の俺と佐藤の扱いが、犬に"待て"をするが如く同じなら、俺はナメられていることになる。それでディープキスの暴挙に及んだのだが、効き目があったのかどうか、分からない。とにかく、同じ男性なのだが、別な男であるのを主張した訳さ。
女は二十歳。遊びたい盛りだ。ドレスアップしてクラブへ行ったらしいとの噂もある。普段、グレーのタイトスカートに紺色のブレザーの制服姿しか見ていないので、ヒラヒラのドレスはイメージが変わるかも知れない。着飾ってクラブなんかを彷徨くのは、度重なると感覚が麻痺し、毎日出掛けないとソワソワと落ち着かなくなり、中毒性がある。男にも、そうゆう風なものがあり、キャバクラや風俗に嵌まった奴が空が暗くなると落ち着かなくなり、挙動不審になるのを見たことがある。アルコール中毒や麻薬中毒と同じか、ギャンブル依存症に近いのかも知れない。
恋も同じで、中毒や病気の扱いで良いのかもしれない。ごく稀に、その病気のまま死んでしまう奴がいるから、それが理想の恋なんだと言えば共感を得られるからか、それこそが幸せの見本だとばかりに共通認識になっている。だが、嘘だろう。しかも嘘と知りつつ声高に言う奴がいて、鼻持ちならない。病気になれば薬を飲むか手術をするのか、入院するのか長期療養で湯治場にでも行って温泉にでも入るか、それでも治らず死に至るのか。佐藤が怪しくなって壊れた。辞表を出して会社を辞め、田舎へ帰って兄の電気工事を手伝うと言う。尤もらしい言い訳だが、失恋の痛手がそこまで深い傷だったのかと、過ぎてから気づくなんて何たる不覚。ある作家の言葉だが、女は恋愛のプロだ。素人の男が敵う訳がない、と。教えてやっても納得しないだろうが、プロにアマチュアが負けても恥ではない。当たり前なのだ。女は佐藤を嫉妬させる為に俺を利用し、まんまと罠に嵌まり、俺は知りつつ、それを面白がったのだ。ディープキスを仕掛けて反応を楽しみ、それはそのまま佐藤への女の仕掛けになったり、俺への反発が佐藤に向けられなかったとは断言出来ない。折角入った大きな会社を退社させ、若い、有望な青年の未来をねじ曲げてしまったのかも知れない。そんな、一生を賭ける恋愛なんかじゃないのに、きっと……。
ファンデーションの材料は土か砂か、そういった物らしい。山奥の鉱山みたいな所で取ると、テレビで言ってたのを観たことがある。よほど粒子が細かいのか、パフに取って塗ると、驚くほど伸び、吸い付くように広がる。試しに自分の頬に塗ってみると、テカりがなくなり黒子も消え、これなら二枚目に変身出来るかも知れないと思えたが、そうではない、本当は女の下唇を吸い上唇を舌でなぞった時、唇と鼻の下の境目の肌も食み出して舐めてしまって、そこにはザラザラとした髭の剃り跡のような感触があり、塗ればその感触を覆い隠して滑らかな肌にしてくれる。そういった類いな事だ。誤魔化しだ。多分この唇の記憶も誤魔化しの一種だ。それは解っている。
口紅は、初め赤を塗り、次は紅、オレンジ、果ては黄色までしたが、どうも違う。ウオーホールのポスターの全体は黄色、唇紋は紅、バックの色は水色の青。それで不都合なく決まっていた。2次元をそのまま3次元にすれば良いと考えたのだが、全く違った。大きさもあるが、これに口を近づけキスをしようとは思わない。例えば、お土産の民芸品に感じる色気とダッチワイフのそれとの違いみたいなものか、それでも、濃い色の方がリアルだが、いくらリアルでも本物ではない。謂わば作り物のリアルさが必要で、本物を彷彿とさせる距離みたいな物がなくてはならない。それは付加価値のようなものでも代替可能かなぁ、とも考え、桃色、ピンクにしてみた。案外、これで行けそうな気がしている。
思いあたる前兆はあの時しかない。忘年会に佐藤は出て来なかったのだ。時間になっても姿がないので幹事の係長が心配し出し、立ち上がって仲の良い同僚に尋ねようとしたら、丁度に、立ったままの係長の携帯に連絡が入り、「佐藤か! どうした!」と、大きな声で話し出した。少し離れた所に座っている女を盗み見ると、目を伏せ下を向いて膝にハンカチを広げていた。他の人達は雑談に余念がなく、大声の係長を気にする風もない。これから飲んで食うのだ。一人くらい欠席でも関係ない。ガヤガヤとした雑音のなかで係長の声がますます大きくなり、「来れないのか!」と、怒鳴るように叫んで電話は終った。女は耳を澄ませて聴いていたに違いない。二人に何かあり、佐藤は女と顔を合わせたくないのだ。けれども、女の方は、そ知らぬ顔で座っている。佐藤が欠席だと分かっても動じた気配はなく、誰にも覚られないと考えているに違いない。つまり、こっぴどく振ったか別れ話をしたのか、二人の関係は終ったと言う事だ。
この時点では、俺は喜んだ。本命馬を最後の直線で追い込み差しきって勝ったのだ。嬉しくない筈がない。当て馬どころかウイニングランをして忘年会の座敷を一周したいくらいだ。勿論、そんなことをしたら女に俺がどこまで何を知っているのかがバレ、ディープキスの意図まで勘ぐられる事になり、こちらの手の内が全て知られ、アドバンテージは無くなる。もう佐藤は考えなくて良いのだ。女の手札、一番厄介で強くて、ゲームをひっくり返す切り札は相手の手にはない。それを、こちらが知っているのだ。佐藤がこちらの手札になったわけではないが、それが相手には無い。ジョーカーを引く心配はないんだ。もう女の心理は裸同然。焼こうが煮ろうが勝手なように思えた。ところが、そうはならなかった。
よく、恋愛で、振ったとかフラれたとか言うが、語源からすると女にフラれたは正しいが、男にフラれたは間違いだ。元々は女が着物の袖を振って男たちの気を惹いたのが始まりで、そこから振り袖と言う言葉も生まれたのだとすると、連想するのはフラダンスとかフレンチカンカン、フラメンコなんかも同じような目的の踊りなのかも知れない。ヒラヒラと袖を振り腰を振りドレスの裾を振る。誘っているようだが、その実、フラメンコなどは挑戦的で激しい。男など寄らば切るぞと言わんばかりの雰囲気だ。先ずは脅して篩に掛け、選別してしまおうとの魂胆なのかも知れないし、あのクルクルと回るターンは闘牛士と同じで、赤い布をヒラヒラさせて誘い、すんでの処でヒラリと身を交わすのも一緒だと考えても間違いではないだろう。そうだとすると、闘牛士が猛牛の尖った角を紙一重で身を避けるスリルは、男よりは女の方が実感として楽しんでいるのではないだろうか。佐藤も、女にヒラリと身をかわされ、怒って自滅した。ところが、女は味を占めたのか、そのスリルが忘れられないなのか、俺にも同じ手を使う気だ。このまま突進しても逃げるばかりで埒は開かない。もっとも、追う気も失せた。あの佐藤との張り合いがディープキスをさせ、あわよくば女を手に入れようと燃えたのだ。火をつけたのは嫉妬だ。恋ではない。ただ、厄介なことに、そこから愛が生まれないとは言い切れない。
細い筆で唇に、奥に向かって太くなるように、ひび割れのような唇紋を入れる。そのギザギザな線は山の稜線なのか谷なのか、見た目はそうだが、実際に舐めてみれば判るが、トゲなどなく、ふっくらとした唇と同じで柔らかく滑らかだ。ぷっくりとした下唇は吸い込んでしまって慌てたが、上唇は舌先で輪郭をなぞるようにし、そのあと唇紋を確かめるようにした。舌先で微かに舐め上げるようにしたので女の口の空きが少し広がり、上下の歯に隙間が生じ、そこに舌を滑り込ませた。そうして、女と舌を絡ませようと探したが、追いかけても逃げるばかりで、捕まえて舌と舌とでの会話は出来なかった。ここでようやっと女と佐藤が唇だけの、フレンチキスのような接吻しかしてなかったのかと気づいたが、もう遅い、今さら紳士ヅラは出来ない。さらに大胆になり、顔を背けて逃れようとするのを左手で防ぎ、右手は耳を親指で撫でたり人差し指で眉をなぞったりして、目を閉じているのを良いことに、至近距離で顔を眺め口を吸い唇に舌を這わせ女の舌を追った。だから唇のオブジェも記憶を頼りに創造出来ると思っている。だがもう、それも終りだ。女は、それを咎め非難するような態度だが、そうではない。ここから恋愛の駆け引きが始まるのだ。押したり引いたり、拗ねたり喜んだり。また、最初からシンデレラごっこをするのかも知れない。御免だ。それとも、唇だけではなく、次には顔を作り胸を、腹を、脚を作って全身を完成させなければならないのだろうか? そうしないとカタルシスは得られないのだろうか……。
了
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