6-1
ついに迎えた大会当日。
細川は会場の最寄り駅へ向かう電車に揺られながら、人のまばらな車内で四人座席の窓際に腰掛けて外を眺めている。
大会前日であった昨日は疲労を溜めないように無理のない練習量に抑え、睡眠をしっかり摂り英気を養った。
「幸也?」
細川の隣でスマホを弄っていた和美が、会話が欲しそうに話しかけた。
何、と細川が振り向くと、スマホを弄る手を止めて訊く。
「昨日はぐっすり眠れたか?」
「まあ、それなりに。緊張はしてたけど中々寝付けないってことはなかった」
「そうか。じゃあ万全だな」
我がことのように笑顔になる。
「そういう和美はどうなのよ?」
和美と細川の向かいに座る奈保が、疑う視線で和美を見つめる。
「自分は緊張で眠れなかったとか言わないでよ」
「心配すんな。ちゃんと七時間以上寝てきたぜ」
「ならいいけど。細川君のコンディションも大事だけど、和美が記録を落としたら生徒会に難癖つけられかねないからさ」
「わーてるよ。それで奈保はどうなんだ、絶好調か?」
「絶好調とは言えないけど、ばっちりコンディションは整ってる」
奈保はそう答えて、自信ありげに口の端を吊り上げた。
そういえば、と和美が何かを思い出した顔で話し出す。
「コンディションのことだけど。奈保に選んでもらってやつキツくて痛くないから着け心地良好だぜ」
「は? 何の話?」
訳わからない様子で奈保が眉を顰める。
和美は脇の下を摩った。
「前のブラはこの辺が擦れて痛かった時があったけど、今日着けてるブラは安定感があって擦れないんだよな」
「ふーん。細川君が慌てて窓に顔を逸らしたからブラの話はやめようか和美」
細川を横目に見ながら和美を諭した。
幸也も免疫つけれくれ、と和美は愚痴りながらも、斜め上に視線を上げて次の話題を考えた。
しばしの沈黙の後、細川に朗らかな笑顔を向ける。
「なあ幸也?」
細川が窓から和美に視線を移した。
「何。土屋さん?」
「昼食はどうするか決めてるか?」
「会場の近くにコンビニがあるからそこで買って食べようかと」
「クッキー焼いてきたから昼に一緒に食べようぜ」
「そうなんだ。ありがとう」
「大会前日にクッキー作る和美の余裕が羨ましいわ」
呆れと感心の混じった目で奈保が和美を見つめた。
いやいや、と和美は謙遜するように顔の前で手を振る。
「クッキーぐらいなら作り慣れてるから大した手間じゃねーよ」
「だからって、わざわざ作ってくる必要ないでしょ」
「幸也が食べてくれると思ったら作りたくなってよ。それにこの前に美味しいって言ってくれたからさ」
言ってから、照れたように微苦笑した。
奈保が顔も知らぬ人間の結婚話を聞いたみたいに白けた面持ちになり、細川に棒読みで言葉を投げる。
「細川君。幸せ者ねー」
「そ、そうかな?」
自分自身を幸せだと思っていない細川が実感のなさそうに訊き返す。
「せいぜい食べ過ぎて眠くならないようにね」
「あ、うん。わかった」
「心配するな幸也。砂糖控えめだから眠たくなるってことはないはずだぜ」
「そ、そうなんだ」
楽しげな和美と白ける奈保の板挟みに晒されながら、細川は相変わらず気の利いた返しが出来ない。
その後は会場の最寄り駅に着くまで、奈保が無理やり話題の軌道修正をして大会のルールを確認し合って場を繋げた。
三人が駅を出て十数分ほど歩くと、目的地の建物が車道を挟んだ反対側の道沿いに建っていた。
四角く白い三階建ての雑居ビルだ。左隣のマンションビルの半分ほどの高さしかなく大分こじんまりとした佇まいだ。
「あれが会場か。意外と小さいね」
横断歩道の歩行者信号が切り替わるのを待ちながら、細川が雑居ビルの外観に感想を言った。
外壁に『3F 脳のスポーツクラブ』とゴシック字体で書かれた看板が出ている。
「平田さん。確か、三階のフロアが会場だよね?」
細川が尋ねると、奈保は苦笑した。
「規模が小さくて拍子抜けしちゃったかな」
「そんなことはないけど、建物一つ貸切るのかと思ってたから意外だな、と」
「もっと大きな大会になれば大きな施設を貸し切ることもあるけど、競技自体が場所を取らないからフロア一つでも事足りるんだよ」
奈保が説明すると同時に信号が切り替わった。
三人は横断歩道を渡って雑居ビルに近づく。ガラス扉の入り口を潜って三階までの階段を昇ると、貼り紙のされたスチールドアが現れる。
貼り紙には『SCC会場』とマジックペンで記されていた。
ちなみにSCCとは『Speed Card Challenge』というトランプ記憶の大会正式名称の略称である。
奈保が細川を振り向く。
「細川君に会わせたい人がいるの」
「会わせたい人って?」
「私と和美の師匠」
師匠という呼び方に細川は厳格そうなイメージを思い浮かべる。
奈保がドアノブを掴んだ。
「中で大会の準備をしてるから挨拶しておきましょ」
どんな人物か知らされていないにも関わらず細川は俄かに身構えた。
奈保がドアノブを回す。
「失礼しまーす」
礼節をもった言葉を掛けながら入室する。
開幕前の会場内の様子が細川の目に入り、右端のホワイトボードの前で熱心にマジックペンで書きこんでいる男性に視線が留まった。
すらっとして背の高い細身をモスグリーンのトレーナーで包んでいる。
男性が会場に入ってきた三人に気が付き、ホワイトボードから顔を離して振り向いた。
「やあ、おはよう。平田くん、土屋くん。それともう一人」
緩く間の抜けたような笑顔で出迎えた。
奈保が男性に近づいて細川のことについて話した。男性が頷きながら聞き、奈保の話が終わると細川に向かって微笑みかける。
「君が細川くんだね。脳のスポーツクラブの代表をしている青森圭です」
「あ、ええと。細川幸也です」
細川は何と返せばいいかわからず、戸惑い気味に名乗った。
「平田くんと土屋くんの紹介で大会に参加するんだよね?」
「は、はい」
「本当だったら定員がいっぱいだったから参加できないんだけど、平田くんから事情を聞いてね。飛び込みでの参加を許可したよ」
「ありがとうございます」
「感謝されるほどでもない。大会での結果次第で部活の認可が決まるなら、メモリースポーツの人口を増やしたい僕としても断りづらいからね」
そう言って苦笑した。
青森を奈保がありがたそうな目で見つめる。
「私の無理を聞いてもらって、青森さんありがとうございます」
「どういたしまして。細川くんのことは僕から他の参加者に説明しておくから、平田くんは競技の方に集中してね」
「はい。お気遣い感謝します」
頭を下げて青森に礼を言った。
細川も真似するように頭を下げる。
「頭を下げられても困るなあ。大したことしたわけじゃないのに」
本当に困った顔で青森が頬をかいた。
しばらくして奈保は頭を持ち上げ、細川に話しかける。
「細川君。廊下の邪魔にならないところで念のために大会の説明をさせてね」
「わかった」
頭を上げて細川は頷いた。
ドア付近で手持無沙汰に会話を聞いていた和美が、思いついたように青森に伺いを立てる。
「圭さん。あたし会場準備手伝っていいですか?」
「助かるよ。じゃあ机並べてくれるかな」
「りょーかい」
細川と奈保は廊下に出るのと入れ替わりに、和美は会場内で長机を移動し始めた。
階段を昇ってくる三人以外の参加者の足音が聞こえ、大会開始がもうすぐであることを告げていた。
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