5-3

 昼休憩を終えてからも細川は奈保の指導によるトランプ記憶の特訓に傾注した。


 特訓の成果で細川のトランプ記憶の最速タイムが一分十秒にまで速まり、細川自身確かな手ごたえを覚えた。

 和美の勧めで三時ぐらいに一度休憩を挟み、それから二時間ばかり大会本番のルールに則ってひたすらトランプ記憶を実践した。

 時計の表示が五時半を過ぎ、部屋の窓のカーテンが夕暮れの橙を含み始めた頃に、時間を気にした和美が口を開いた。


「六時ぐらいには帰ってこれるって親から連絡来たから、六時前までには片付けて帰れるようにしてくれ」

「おっけ。六時までね」


 奈保は了解して、頭の中で時間を逆算する。

 残り時間で何が出来るか考え、細川に指示を出す。


「細川君。あと一回だけ計測しよう」

「これで最後だね?」

「そうね。一分以内目指して集中していこ」


 奈保自身も気を引き締めながら細川を鼓舞する。

 細川は記憶用と回答用に分けたトランプ二デッキを計測前の位置に戻し、スタックタイマーに表示された前回の記録を消去した。

 今まで映画観賞で部屋での時間を過ごしていた和美がスマホをベッドに放って、緊張の面持ちで記憶前の細川の所作に見入る。


「ふう」


 細川は力を抜くように息を吐き、右手で記憶用のトランプを掴んだ。スタックタイマの端に両手を翳す。

 数秒かけて集中力を高め、記憶する際に頭の中で何度も歩いた道筋のスタート地点へ意識を没入させる。

 

 集中力が最高点に達した瞬間、スタックタイマーに手を下ろした。

 タイマーの計測がスタートすると同時に、右手に持ったトランプに左手を添えて捲り始める。

 ――――――。

 ――――。

 ――。

 ルートは自宅。スタート地点は正面玄関のドア。


 一か所目は玄関ドア。ハート2、クローバー4。

 置いてある『埴輪』が『櫛』で髪を梳いている。


 二か所目は靴脱ぎ。ハートQ、ハート6.

『白球』の上で『ハムスター』が駆ける動作を繰り返している。


三か所目は靴箱の上。ハート5、クローバー9。

『プレゼント箱』から『コック』が飛び出してくる。


四か所目はスリッパラック。ダイヤ8、ダイヤ4。

ラックに掛けてある『タンバリン』を『山車』のように担ぎ上げる。


八枚目を過ぎると、細川の意識から想念の一切が消え失せ、ルートの中に完全に没入した。

トランプを捲る動きが加速する。

リビングに移動。


 廊下照明の下。スペード7、スペード9。『砂袋』に『スクーター』が乗り上げる。


 リビングのテレビ。クローバー3、スペードJ。『グミ』の菓子袋から『数字版』を取り出す。


 ソファの上。ハート10、クローバー8。『鳩』が『クッパ』をついばんでいると火を噴いた。


 リビングボード。ハートJ、クローバー7。山積みの『おはじき』を『クナイ』で砕くたら破片が飛んできた。


 ダイニングテーブル。ダイヤA、クローバーK。『タイヤ』に『クッキー』を振りかけたら溶け出した。


 キッチン。クローバーJ、ハート3。『くじ箱』を首切り用の『ハサミ』で切断すると、中からくじが大量に飛び出た。


 冷蔵庫の上。クローバー10、ダイヤ7。『極道』の輩が『棚』をクライムするが、落ちてしまった。


 リビングを出て、隣にあるトイレに移動する。トランプを見た瞬間にイメージが遅滞なく湧き出てくる。調子が良かった。


便器の蓋の上。ハート8、スペード5。『葉っぱ』と呼んでいる雑草の密生地帯に、『スコップ』を突き立てると、雑草が急に伸び始めた。

洗面所兼脱衣所に移動。


洗面台の鏡。スペードA、クローバー2。『スイカ』を『靴』が踏みつぶすと、破裂して中身が飛び出してきた。


洗濯機の上。ダイヤ3、クローバーA。『打算』を意味する電卓計算機に『杭』を打ち込むと、破片の代わりに硬貨が出現した。


浴槽の中。ダイヤJ、ダイヤK。『田島』さんが寛いでいると、大『タコ』に襲われる


残り二十二枚。

集中を持続させて、階段に移動する。


階段の一段目。ハート7、スペード4。『花』の中心部である花芯から『寿司』がポンポンと放射される。


直角の踊り場。ダイヤ6、ダイヤ10。『ダム』が決壊して大量の『タートル』が溢れ出て、辺りに散乱した。


階段の最上段。ハート4、スペードQ。『箸』で『スキューバダイバー』を持ち上げると、離せと抵抗された。


階段を昇りきると、二階フロアの廊下が左右に伸びている。

右に進むと細川の部屋があった。


部屋の前の明かり窓。ハートA、スペード6。巨大な『灰皿』の上に『スロット台』がデンと置かれていて、銀の球を大量に放出する。


 部屋のドア。クローバー5、スペード2。白衣を着た『救護人』に黒い『スーツ』を着せようとするが、手を払われた。


 衣服タンスの上。スペード10、クローバー6。『ストロー』で『黒猫』を吸い込もうとすると威嚇された。


 勉強机。ダイヤ9、スペードK。『沢庵』の盛られた皿小鉢の上を『スケート選手』が優雅に滑走している。


 回転チェア。ダイヤQ、ダイヤ2。『卓球台』の上に大量の『ダーツの矢』が降ってきて突き刺さる。


 カレンダー クローバーQ、ハートK。カレンダーに『人工呼吸器』が写っていて『刷毛』で真っ黒に塗りつぶす。


残りわずか四枚。

四枚ぐらいなら、その場ですぐにストーリーを作る必要もない。


 ハート9、ダイヤ5。

 スペード8、スペード3。


 五十二枚全てを見終わり、すぐさまスタックタイマーの端に触れた。

 タイマーが止まり、記録を表示している。が、細川自身は表示を見ずに蔽目し、最後の四枚に意識を戻す。


 ベット。ハート9、ダイヤ5。『白桃』に『団子』の串を突き立てる。


 ベット横の窓。スペード8、スペード3。『スパゲティ』を盛った皿を『炭』で焼く。

 

 公式大会では記憶パートで五分の持ち時間があり、細川は余った時間で先ほど覚えた五十二枚を頭の中で辿っていく。

 ゆっくり、確実に、思い出すのに苦労するイメージがありながらもルートを練り歩いた。


「記憶時間終了」


 合図として奈保が告げた。

 細川は閉じていた目を開ける。


「回答始め」


 大会に則り、奈保がほぼ間断なく進行させる。

 細川の左手が回答用のトランプを掴み、背面を滑らせて蛇腹状に広げる。

 左端がスペードAで右端がダイヤKの整列された中、細川は迷いなくハート2とクローバー4を探し出して左手のひらに重ねた。


 三枚目、四枚目、五枚目、と記憶したトランプのスーツどころか順番さえも悩むことなく左手の平にトランプを積み重ねていく。


 二十枚――三十枚――四十枚――五十枚、そして最後の二枚になったところで、細川が無言で眉を顰めた。

 スペード3、スペード8が残っている。

 脳内では、ベッド横の窓で『炭』火によって『スパゲティ』を焼いている場景が展開されている。

 急ピッチに記憶したせいか、残り二枚の順序に自信が持てなかった。

 呻きたいような衝動を抑えて、イメージをより色濃く浮かび上がらせようとする。

 スペード3、スペード8。


『炭』と『スパゲティ』

『炭』と『スパゲティ』

『炭』と『スパゲティ』


 二枚を網膜に焼け付きそうなほど凝視し、パチパチと炭火が爆ぜる音まで聞こえそうなほどイメージが鮮明になる。

 だが細川の心は落ち着きなく、たった二枚の順序に懊悩した。

 回答時間の終わりが刻々と迫ってきている。


『炭』と『スパゲティ』

『炭』と『スパゲティ』

『炭』と『スパゲティ』


 残り時間十秒となったところで、細川は諦めがついた。

 同時に張り詰めていた気が抜けて、鮮明になっていたイメージが雲散する。

 やむを得ずスペード3、スペード8の順で重ねた。 


「はい。回答終了」


 奈保が告げて、すぐに回答用のトランプを手にした。

 割り切った気持ちで細川は記憶用のトランプを掴む。


「えーと、タイムは?」


 呟きながら奈保はタイマーの表示を覗いた。

 一分を僅かに切っていた。

 称賛の目を細川に向ける。


「やったね細川君。ついに一分の大台切ったよ」

「……答え合わせしてみないことには喜べないよ」


 細川は自信なく言った。

 それもそうね、と奈保は同意して回答用トランプの一枚目を摘まむ。


「答え合わせしましょうか」


 細川も呼応して記憶用のトランプの一枚目を指先で挟み持った。

 ベッドに座って一言も発さずに様子を眺めていた和美が、引き寄せられたように奈保と細川の傍に近づいてくる。


「幸也の栄光の瞬間。見届けるぜ」


 口角を上げながらちょっとオーバーな表現で細川の記録を称え、答え合わせをしようとする手元を見つめた。

 そんなに期待しないでよ、と細川は和美へ言葉を返してから、奈保とタイミングを合わせてトランプを捲り始める。


 一枚――十枚――二十枚――三十枚――四十枚。不一致無し。

 トランプ同士の擦れる音だけが室内を占める。


 五十枚。不一致無し――細川の緊張が急激に高まった。

 最後の二枚。

 悩んだ末に諦めた二枚。

 神に祈る思いで五十一枚目を捲った。

 細川の手にはスペード3。

 奈保の手にはスペード8。

 途端に細川の唇が苦々しく歪んだ。


「……そういうこともあるよ細川君」


 スペード8を手にしたまま、奈保が何をか言い難い顔で言った。


「残念だったな幸也」


 和美がトランプから細川の顔に視線を移し、優しいトーンで慰めを口にした。

 細川は不貞腐れたように手からトランプをテーブルに置いた。


「クソッ。泡沫の夢か」

「最後の詰め込みにミスが出たね。好タイムを攻めすぎたかな?」

「何が炭でスパゲティを焼く、だ。どっちが先かわからなくなったよ」

「記憶スピード自体はかなり伸びてるけど順序違いが時々あるから、これからはイメージの作り方にも注意していこう」

「そう落ち込むなよ幸也。一分以内に五十二枚見て記憶しようとしただけでも立派だぜ」


 和美が細川の頑張りを称えた。

 しかし細川本人は納得いかない顔で嘆息する。


「はああ、疲れ損だ」

「一日特訓に費やしたからね。いくら細川君が慣れたとしても辛かったよね」

「前頭葉がダルイし、ベット入ったら今にも寝そうだ」

「今日の特訓は私の急な思い付きだったのに、文句も言わずに熱心に取り組んでくれてありがとう」


 労わりの籠った声音で礼を言った。

 和美が細川に向かってニカッと笑顔を浮かべる。


「来週の大会で幸也が一分以内の記録を出せれば、ついに部活として認可してもらえるな。今から楽しみだぜ」

「こら和美。プレッシャーになるようなこと言わないの」

「とか言いつつよ、奈保だって細川が好タイムで成功させて、なおかつ部活が認可されたら嬉しいだろ」

「まあ、そりゃそうだけど」

「それによ、奈保が特訓を計画したのだって、幸也が一分以内の記録を狙えると思ったからだろ」

「細川君の成長ぶりが著しかったからね。つい欲も出ちゃうよ」


 和美の見透かしたような発言に奈保がはにかんだ。

 細川は女子二人の会話を聞いて、急に自身の背負っている役割の重大さを痛感する。

 俺が努力してより良い結果を出せるようになれば、平田さんと土屋さんはそれだけ目標に近づいていける。

 恐れ多い気もしたが、やり甲斐も強くなった。


「部活の創設がいよいよ現実味を帯びてきたな」


 展望に期待を掛けているかのように和美が嬉しそうに口角を吊り上げた。

 気が早いわよ和美、と奈保は釘を刺しつつも、満更でもなく顔を微笑ませて細川に振り向く。


「細川君。大会で良い結果を出せるように残り一週間頑張りましょ」

「……やれるところまでやってみるよ」


 露骨に期待されることが細川は少々照れ臭く、わざと必死さの感じられない言葉を返した。


 それでも内心では、行けるところまで行ってやる、と意気込んではいたが。

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