5-2
特訓開始から三時間ぐらいすると、洋服箪笥の上に置かれたデジタル時計が正午の時刻を示した。
ベッドに座りスマホで海外映画を観ていた和美が、機を見計らったようにイヤホンを外した。
和美の持ってきた麦茶と菓子に手をつけず特訓に没頭する奈保と細川に話しかける。
「そろそろランチタイムにしないか?」
「この場所の時だけ十回中六回も失敗してるの。イメージが弱いのは仕方ないとしても、実際の場所を再度見ておいた方がいい……何、和美」
テーブルにトランプを広げて細川にルートの場所ごとの強弱について解説していた 奈保が、遅れ気味に和美の声に気が付いた。
「もう昼だぞ奈保。ランチタイムしようぜ」
「昼ねえ」
検討するような間を作り、ぬるくなってしまった麦茶を少しだけコップに注いで一口に飲み干す。
「昼食抜いてもいいけど、和美何か買ってくるの?」
「買いにはいかねえ。代わりに今から用意しようと思ってるから希望言ってくれ」
「希望? そんなのないわよ」
「幸也は?」
奈保を諦めて細川に尋ねる。
不意に水を向けられた細川は戸惑いながらも言葉を返す。
「ええと、希望はとくに無いかな」
「んだよ幸也もか。三人で一緒に食べようと思ってたのによー、詰まんねえな」
和美は子供みたいにぶー垂れた。
奈保が面倒そうに顔をしかめる。
「三人一緒に食べる理由ないでしょ。食べたいなら和美一人で食べてなさい」
「えー、三人分用意してるのに。三人いるのに一人で食べろっていうのかよ。ひどいぜ奈保」
哀願するような和美の訴求に、奈保は諦めの表情で嘆息した。
「……わかったわよ。三人分お願い」
「よっしゃ。じゃあ用意してくるぜ」
奈保の許諾を得るなり和美は嬉々として部屋を出て階段を下りていった。
しばしして和美の足音が聞こえなくなると、奈保が細川に申し訳ない顔を向ける。
「ごめんね、細川君。また和美の我がままに付き合わせちゃって」
「けど我がままっていっても昼食をご馳走くれるわけだから、むしろ俺は感謝した方がいいんだろうね」
「感謝しなくていいよ。和美は細川君に手料理を振舞いたいだけだろうから」
細川は驚きの眼を瞠った。
「え? 俺に料理を振舞いたかったのか。振舞われるほど何かした覚えはないけどな」
「昔から和美は友達に料理振る舞うの好きだから」
懐かしそうに呟いて、ふと細川を見る目に真面目さが帯びる。
「そういえば細川君。和美から中学時代の話をいろいろ聞いたらしいね。和美が幸也には話したって、この前言ってたよ」
「あ、ああ。聞いたよ。でもどうしたの突然?」
和美にとってはあまり触れられたくない辛い話であることを思い出し、細川の口調が慎重になる。
奈保は細川の慎重さが杞憂であるかのように緩く微笑んだ。
「和美自ら中学の時の話をするなんて。細川君よっぽど和美に気に入られてるね」
「気に入られ、てるのかな?」
「うん、絶対そう。和美は信頼してる相手にしか中学の話をしないもの」
「信頼、か」
オウム返しに反芻して、頭の中に和美の自分に対する隔たりない態度を思い返す。
けれど信頼の二文字を背負えるほど細川には自信がなかった。
奈保が見極めようとするかのように細川を凝視した。
「細川君」
「え、なに?」
奈保にじっと見つめられて細川は当惑する。
「和美の事、よかったら見ててあげて」
「……ど、どういうこと?」
さっぱり言葉の意味が掴めなかった。
理解できなかった顔をする細川に、奈保が答えを与えるように告げる。
「和美って寂しがりなの」
「寂しがり。土屋さんが?」
細川の中の和美は、能天気でやたら絡んでくる気さくな印象だった。
寂しがりという認識は微かにも抱いたことがない。
「中学時代の話聞いたでしょ。コスモスとか、何があったのかも」
「ああ、聞いたよ。コスモスを結成したけど、ある出来事をきっかけに段々人が離れていったんだよね?」
「コスモスが解散してから、和美の時間は止まってる」
止まってる、と奈保の声が耳朶に響いてから、細川は愕然と記憶が刺激された。
公園で打ち明け話を聞いた時――
――どうして染め直さないの?
――みんなが慕ってくれた土屋和美のままでいたいからな。
染め直していない赤髪。あれこそ時間が止まっている証左なのではないか
細川は自身の着想に絶対に近い確信を持った。
「和美は身体だけ大きくなって、心は中学生のままで前に進んでないの」
「髪を赤くしてるのも中学時代の名残?」
「そうだね。中学の時の自分を否定したくない表れだよ」
話しながら、奈保の顔が憂わしげに沈む。
休日の昼らしくない重い空気で互いに黙り込んだ。
会話が途絶えるのを避けるため細川が語を継ぐ。
「ええと平田さん。どうして俺に土屋さんの話をしたの?」
奈保が憂いの顔のまま細川を見返す。
「どうしてって、細川君なら和美を前に進ませてあげられるかと思って」
「俺じゃ聞く耳持ってくれないだろ。それより付き合いの長い平田さんの方が……」
「私はダメよ、一度和美から離れようとしたから」
「離れようしたって何があったの?」
「コスモスの皆が和美と縁を切ってから、私も不良をやめて真面目な学生としてやり直そうと思って、しばらく和美と会わなかったの」
息継ぎのために奈保は言葉を切る。
細川が無言で先を促した。
「けれど和美が一人で寂しそうにしてると思ったら、いつの間にか話しかけてたの。孤独な和美を見て見ぬふりできなかったの。そうして気が付いたの、和美の傍にいてやれるのは私以外にいないんだって」
「……そうなんだ」
しんみりとした気分で相槌を打つ。
傍にいてやれるのは私以外にいない――。
不良グループのリーダーであった土屋さんに自分から親しくなろうと接近する者はほとんどいなかったのだろう。でも幼馴染でグループの副リーダーだった平田さんだけが、土屋さんの寂しさに気が付き寄り添ってあげていた。
細川の思考が駆け巡る。
そうして奈保の台詞に合点がいく。
心は中学生のまま前に進んでない――ようするに平田さんは一歩進みかけて土屋さんの所へ引き返しただけだ。
「だからね細川君」
細川が考えに沈んでいると、奈保が顔から憂いを消して話し出した。
「メモリースポーツを通して和美が少しでも変われば、って思ってるの」
「そういえば土屋さんもメモリースポーツで腕が立つプレイヤーなんだよね。土屋さんを誘ったのは平田さん?」
「私が興味本位で始めて虜になって楽しさを共有したかったの。でも」
「でも?」
不意に奈保の口調が暗然となり、細川が問い返す。
奈保は諦めの笑みを浮かべた。
「和美は前に進むことはなかった。未だに中学時代のことを引きずったまま」
「うん」
「メモリースポーツ自体は楽しいみたいだけど、私に付き合ってるだけのような気もするのよ」
「うん」
「だから今度はコスモスを知らない人と一緒にメモリースポーツ部を設立させて、中学時代を忘れちゃうぐらいの楽しい居場所を用意したいの。もしかしたら和美の心境に変化があるかもしれないから」
「コスモスを知らない人って俺か」
「そう。でもまさか、和美の家で特訓をすることになるとは想像もしてなかったけど」
前途に光を見出しでもしたように明るく苦笑した。
細川も共感する。名義だけを貸すつもりが、トランプ五十二枚を一分以内に覚えることを目指して日々鍛錬している。そんな日々を想像していなかった。
「ここまで来たら、やれるところまでやりましょ」
奈保が気合を入れ直すように言った。
そうだね、と細川は同意して頷く。
「じゃあ、分析の方に話を戻すよ」
奈保の声を皮切りに、二人はテーブルのトランプに注意を向け直した。。
奈保が♡9に指を置いて説明の口を開きかけた時、階下からよーし出来たぁ、と快哉の叫びが響いてくる
一瞬で奈保は渋い顔になった。
「思ったより早く完成しちゃったわね」
「奈保、幸也。下降りてこい」
和美の溌溂な声が一階のリビングから二人を呼びつけた。
仕方ない、という顔して奈保が腰を上げる。
「行きましょ細川君。用意してもらって待たせるのも悪いから」
「そうだね」
細川も腰を上げた。二人で部屋を出る。
奈保と細川が昼食の席に現れると、和美は機嫌のいい笑顔で出迎え、てきぱきと二人の席を指定した。
用意されていた食事は、昨晩に和美が作ったというカレーと盛り合わせサラダ。
そりゃ出来上がるのが早いわけだ、と奈保は腑に落ちた。
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