4-4
三人は一時間ほどかけ二十六か所のルートを巡り、復習のために通路を引き返していた最中だった。
女性下着を売る店のブース前に来て和美が口を開いた。
「なあ奈保」
「うん? 何、和美?」
細川への講釈を止めて奈保が振り向いた。
和美は愉快げに笑って答える。
「ブラ、見に行こうぜ」
「……急に何を言い出すかと思えば。はああああ」
心底呆れたようにわざとらしく大きい溜息を吐く。
「最近さ。持ってるブラがきつく感じるんだよ」
「ふーん、それで?」
「だからブラ選び手伝ってくれ」
「一人で行ってきてね。私は細川君にまだ教えないといけないことあるから」
奈保はまともに取り合う気もなく突っぱねた。
えー、と和美が不服そうに呻く。
「一人でブラ見ててもつまんねーじゃん」
「……あんまり女性用下着のことばかり言わないでよ。細川君いるんだから」
口にした当人でない奈保が、若干頬を赤らめて細川に気を遣った。
それでも和美は憚るつもりもなく話を続ける。
「昨日の帰りにブラがキツイって相談したら、新しいブラにしてすればってアドバイスしてくれたの奈保じゃん」
「細川君がいるところでそんな話しないでよ」
「責任とれ、奈保」
「ブラを新調するアドバイスに、どれだけの責任あるっていうのよ。というか高校生なんだからブラぐらい自分で選びなさい」
「だってよ、奈保の方がブラ選びのセンスいいじゃねーか。同性のあたしでも魅惑的に見えるブラをいっつも着けてるし」
「い、いつもじゃないわよ。和美にどんなの着けてるか訊かれたときに、たまたまそういう、なんていうか、ちょっと良いやつだってだけよ」
「良いやつは特別な日にだけ着けとけ。普段使いするな!」
「しょうがないじゃない。箪笥の中にずっと眠らせとくわけにもいかないもの」
「眠らせるくらい持ってるなら、あたしのブラ選びぐらい手伝ってくれ」
「どういう理屈よ。私が良いブラ持ってるのと、和美のブラ選びは関係ないでしょ!」
喧々囂々、奈保と和美のブラ論争が熱を上げていく。
女子二人の下世話な口喧嘩が続く中で、細川は無関心を装うために子ども服のブースに視線を注いだ。
他の客達が三人に迷惑そうな目を向けながら通り過ぎていく。
周囲から注目されている事態に奈保が気付き、反論の言葉を呑み込んで大きく嘆息した。
ハンドバックからのスマホを取り出して時刻を確認する。再度、和美へ顔を上げた。
「和美がそこまで言うなら、三十分だけ付き合ってあげるわ」
「ほんとか?」
和美は俄かに喜色を表す。
渋々の顔で奈保が頷くと、顔いっぱいに笑顔を広げた。
「助かるぜ。奈保が一緒ならブラ選びを間違わないな」
「そうなると、細川君は……」
和美の買い物に同伴することにした奈保が、遠慮がちに細川に声をかけた。
「別のところで時間潰してくれる?」
「さすがに男の俺は付き合えないからね。三十分経ったらここに戻ってくればいい?」
「うーん。細川君に戻ってきてもらうのも悪いから……ルートの一か所目の店の前で待ってて。どこか覚えてるでしょ?」
「覚えてる。じゃあそこで……」
「幸也、逃げるのかよ?」
奈保の提案に細川が了解しかけた時、和美が絡む口調で問いかけた。
「え、に、逃げる?」
逃げる、というワードに細川は戸惑った。
細川の戸惑いに付け入るように和美が煽る。
「大の男が女のブラぐらいで逃げんじゃねーよ」
「逃げるというか、その、遠慮するというか……」
明快な言い返しが思いつかず、細川はしどろもどろで段々と小声になっていく。
和美がニヤリと意地悪げに笑んだ。
「幸也も買い物付き合えよ。勉強なるぞ」
「勉強?」
「いずれは幸也にだって彼女とか出来んだろ。そうしたら彼女と一緒に買い物することになるんだぜ。なのにブラぐらいでいちいち日和ってたら彼女に逃げられんぞ」
「今のうちに慣れとけ、ってこと?」
「まあ、そうだな。慣れだな」
「……どうしたらいいのかな、平田さん?」
勉強になる、と言われて心機一転ご一緒する。などと、そんな簡単に心境が変化する訳もなく、細川は助けを求めて奈保を振り向いた。
がしかし、奈保の顔には諦念の感が浮かんでいる。
「断るのは無理じゃない?」
「え、無理?」
「だって。和美はもう細川君を付き合わせる気が満々だもの」
「……そっか。ははは」
反論すら無駄に感じ、細川は力のない苦笑いを漏らした。
「まあ。細川君だって母親の下着ぐらいなら見たことあるだろうし、なんとか持ちこたえられるよ」
励ますように奈保が言った。
母親の下着ぐらいなら小さい頃に見たことあるけども、と細川は否定的に思いながらも奈保の励ましの言葉を信じる以外におそらく方途がなかった。
「時間は有限だ。入ろうぜ」
はしゃぐような調子で和美がブースに足を踏み入れる。奈保が和美についていく。細川は気乗りしなかったが若干に距離を空けて二人の後を追った。
店内に入ってからしばしの間、和美と奈保は論議し合いながらブラジャーのエリアを見て回っていたが、やがて和美が細川に声をかけた。
「なあ幸也」
「……何?」
女性下着ばかりで目のやり場に困り顔を伏せていた細川が、和美の声にのっそりと面を上げた。
和美は右手に白、左手に黒の布地のブラジャーを掲げ持っている。
「どっちの色があたしに似合う?」
「……さ、さあ。俺にはなんとも」
比較しようにも細川は女性下着の知識が皆無に等しかった。それにじっと女性用下着を品定めできるほど肝が据わっているわけでもなかった。質問を辛くも躱して、視線を床に落とす。
詰まらなさそうに和美が唇を突き出す。
「んだよ。幸也が決めてくれねえのか」
「しょうがないよ和美。細川君はブラの事わからないだろうから」
和美を宥め、代案を示すように試着室を指さす。
「色で選べないなら着け心地で決めるしかないわよ。試着してみれば」
「さすが奈保。判断が早い」
奈保の提案に和美は笑顔を返して賛成した。
白と黒の両方を持ったまま試着室に行きかけたが、首だけを細川の方にねじ向ける。
からかうように意地悪い顔つきになる。
「覗くなよー、幸也」
「……」
細川は努めて何も返事をしなかった。
気苦労のする顔で奈保が和美の背中を試着室に押す。
「はいはい。細川君にちょっかいを掛けないの。さっさと靴脱いで」
「どうしても見たいなら、見せてやらないこともないぞ」
奈保に背中を押されながらも首だけ細川に向けて尚も絡むが、奈保に力いっぱい試着室へ押し込まれた。
和美を試着室内に押し留めながら奈保もカーテンの内側に消える。
細川の視界から二人の姿が遮断された。
「いきなり脱がないでよ。びっくりするじゃない」
「いいだろ、試着室だし。まずは白の方から着けるから、黒い方持っててくれ」
微かに衣擦れの音がした。
ん、と和美の力を入れて抜くような吐息が細川の耳に聞こえてくる。
「ふー。今つけてる奴、きついんだよな」
「あんたって着やせするタイプよね。こうして見てると結構大きいわね」
「着やせしてんじゃねーよ。させてんだよ」
「どっちでもいいけど。もう一つ大きいサイズ選んだ方が良かったんじゃない?」
「そんなの試着してみねえとわかんねえよ」
「とりあえず。着けてみて」
ごそごそとまたも衣擦れの音がした。
んん、と軽く力を入れるような吐息が漏れ聞こえてくる。
「よし、着けられた」
「それ絶対キツイでしょ。力入れて伸ばさないと届かないんだから」
「これより大きいサイズだと巨乳の仲間入りしちゃうだろ」
「いいじゃない別に。ほんとうに大きいんだしさ、大きいなんて羨ましいぐらいよ」
「サイズが大きくなるとデザインの種類も少なくなって選択肢が減っちゃうだろ」
「宿命よ、和美。おそらくこれからも成長するだろうから覚悟しておきなさい」
「もしもGまで到達しちまったら隠しきれなくなっちまうぜ」
ここまでの会話を耳にした細川は何故か息詰まるような恥ずかしさを覚え、免疫の弱さのあまり耳を手で塞いだ。
しばらくして試着室から出た和美と奈保は、三猿の聞かざるのごとく耳を塞ぐ細川を見て自覚のない疑問を抱くことになる。
母親の下着を見たことあるなら、という奈保の励ましは細川には全く当てにならなかった。
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