2-6
翌日、放課後の図書室で奈保のトランプ記憶のレクチャーが始まった。
「細川君。今日はトランプの覚え方について教えるよ」
「覚え方にルールがあるの?」
向かい合って座る奈保に細川が素朴な質問をすると、奈保は首を横に振る。
「ルールで決まってるわけじゃないの。でも基本的な覚え方は競技者の誰も同じなの」
「どういう覚え方だ?」
「場所法って言ってね。自分の知ってる場所を使って、そこに記憶したいものを結び付けていく方法なの」
奈保の簡略した説明に、細川は難しそうに首を捻る。
「口頭で言われても、理解できないんだが」
「そうだぞ、奈保。前置きなんかしてないで、さっさと実践に入れよ」
細川の隣で和美が文句を挟む。
奈保がうんざりした顔で和美を見据えた。
「和美。無用な口を挟まないでよ。あんたはこっちの教える側でしょうが」
「だってよ、実際に幸也は奈保の前置きなんて興味ないと思うぞ」
嫌味ではない口調で進言し、細川を振り向いた。
「そうだよな、幸也?」
「……えっ」
突然に水を向けられ、細川がまともな返事が出来なかった。
昨夜に制服に付着した匂いが発覚したことの恥ずかしさを思い出し、和美を直視できず顔を逸らす。
「んだよ、顔逸らすなよ」
「……ごめん」
「ほら和美。細川君が困ってるから絡むのはやめなさい」
細川の窮状を知るともなく奈保が窘める。
チェッ、とわざとらしく舌打ちをして和美は口を噤んだ。
奈保は申し訳なさの浮かんだ微苦笑を細川に向けた。
「ごめんね細川君。和美のちょっかいがしつこくて」
「ああ、大丈夫」
とは答えつつも、細川は和美のことを妙に意識してしまい、言葉とは程遠く大丈夫ではなかった。
奈保は空気が引き締まる間を置いてから話を再開する。
「場所法っていう覚え方は、人間の脳の特徴を利用していてね。人間の脳は場所の記憶に関しては覚えが良いの」
「そうなのか。実感ないんだが」
「じゃあ例えば、小学校時代の教室を思い出してみて」
言われた通り、細川は小学生時代の教室を頭の中に浮かべてみる。
予想よりもはっきりと、教室の内装や窓からのグラウンド風景までも蘇ってきた。
「どう、意外と思い出せるでしょ?」
「ほんとだな。五年以上も前なのにどこに何があったのか思い出せたよ」
「じゃあ、その教室で受けた数学の内容をはっきり思い出せる?」
教室を思い浮かべたまま、記憶に手を伸ばす。
「おい、奈保」
細川が小学生時代の数学の記憶を辿ろうとした時、和美が横合いから口を出した。
奈保は億劫そうに細めた目を和美に向ける。
「今度は何よ、和美」
「小学校で数学なんて習わねぇぞ」
「へ?」
「小学校までの数学のことは算数って呼び方だぞ。数学を習うのは中学生からだ」
「……そうよ、小学生までは算数だったわね、悪かったわね!」
怒った風に赤面して間違いを認めた。
奈保に誤りを気づかせると、和美は用が済んだとばかりに口を閉じて無言になる。
更なる指摘がないのを見計らってから奈保は話題を戻す。
「それで細川君。算数の内容ははっきり思い出せた?」
「ぼんやりとしか。問題を見れば解けないってことはないだろうが、問題の数字までは詳しく覚えてないな」
「数字は忘れてるけど教室の内観は覚えてる。それが場所に関しての記憶は覚えが良いってことの証明なの」
「平田さんの言ったことの実感はできたが、どうして場所の記憶の方が覚えてるんだ?」
好奇心を高まらせて細川が尋ねた。
奈保は当然の疑問というように頷いて真面目に返す。
「人間が場所を覚えているのは脳がその情報を必要だと処理するからなの」
「二度と行かない場所なのに必要なのか」
「人間の脳が覚えてしまう構造になってるのよ。その理由は古代に人類が狩猟で生活を始めて場所の情報が入用になったからよ」
「そんな昔まで遡るのか」
細川は遠い目になる。
頭の中で石器を木の棒に括りつけた武器に手にする新人類が、マンモスと死闘を繰り広げ始めた。
奈保が説明を続ける。
「文字や数字なんてなかった時代に、人類は狩りを終えて巣に戻るときに場所の記憶を頼りにしてたの。来るときはこの場所を通ったとか、この場所に獲物がいるとか、場所を覚えないと狩りもろくにできないし、巣に戻ってこれないでしょ」
「なるほど。実感はないが理屈はわかる」
細川は納得の表情でしきりに頷く。
「そこで、覚えの良い場所に記憶したいものを結び付ければ記憶しやすいんじゃないかって理屈のもとで場所法があるの」
「記憶法に根拠があるのはわかったけど、でもどうやって使うんだ?」
縷々とした講釈を聞いても、完全な理解はできなかった。
細川の問いに、奈保は我が意を得たりという顔で微笑む。
「やり方がわからないみたいだから、今ここで実践してあげるわ」
「出来るのか?」
「ええ、朝飯前よ。細川君トランプ出して」
得意げに言って細川に要求する。
細川はテーブルの脚に立て掛けていたリュックサックから、奈保から借りたトランプを取り出し奈保に差し出した。
奈保はトランプを受け取るなりケースから出して、上の数枚だけを右手に掴み残りの多くはケースに戻した。
「トランプをどうする気なんだ?」
突然にトランプを用意させられて疑問に思う細川に、奈保は答えを示すように右手に掴んだ数枚の上の一枚を指先に摘まんで細川に向けた。
その一枚のトランプはスペードAだった。
「イメージ変換は何、細川君」
「え? ああ、そのトランプか。それはスペードAだからスイカだな」
「そうスイカね。それじゃあ例えば……」
スペードAを持っていない方の手で入り口のドアを指さす。
「ドアを開けたら大量のスイカが雪崩れ込んできた、と想像してみて」
細川は努めて想像することなく、奈保の言葉だけでドアからスイカが雪崩れ込むイメージが浮かび上がってきた。
奈保は二枚目を摘まみ、細川に見せる。ハート2だ。
図書室の受付台を指し示す。
「このイメージは?」
「はにわ」
「はにわが受付の台に置かれているわ」
「イメージできたぞ」
三枚目、ダイヤA。
「このイメージは?」
「タイヤ」
細川が答えると、奈保はおもむろにトランプを持ったまま立ち上がった。
「着いてきて細川君」
「ああ」
歩き出す奈保の後を細川がついていく。
図書室の角である本棚と本棚の隙間の前まで来ると、奈保が足を止めて隙間を指さした。
「この隙間からタイヤが転がってくるの」
「イメージできたぞ」
奈保が四枚目を摘まむ。♧2だ。
角を右に曲がり、本棚で挟まれた通路の半ばに置かれた踏み台に指を向ける。
「このイメージは?」
「靴だ」
「踏み台の上から靴が転がり落ちる」
「イメージできたぞ」
五枚目を手にする。ハート5だ。
通路を進み、角を左に曲がると本棚の通路を抜けた。
すぐ横にグラウンド側に向いた窓がある。
「この窓の下にプレゼント箱が置いてあって、クラッカーみたいに蓋が弾け飛ぶ」
「イメージできたぞ」
窓から傾きかけた日差しが射す中、奈保が五枚目を指先に持つ。スペード5だ。
自分たちが着座していたテーブルに近づき手を置く。和美が退屈そうに突っ伏して腕の中に顔を伏せていた。
「このテーブルの上に、スコップが刺さってるの」
「イメージできたぞ」
「細川君は場所法を使うの初めてだから、とりあえず五枚まで」
奈保は区切りを付けるように言って、手に持ったトランプをテーブルに戻した。
細川に優しい視線で微笑みかける。
「じゃあ細川君。ちょっと休憩にしましょう」
「別にまだ疲れてないけど」
「息抜きは大事よ。頑張りすぎたって良いことないわよ」
奈保の言葉に、テーブルに一人で突っ伏していた和美がピクリと反応して頭をもたげた。
和美の目が嬉しそうに開かれる。
「なあ奈保。休憩するのか?」
「時間を置きたいからね。和美なら理由がわかる……」
奈保が言い切る前に、和美は細川に笑顔を向けた。
「喉乾いた。幸也、飲み物買ってきてくれ」
「え? 飲み物?」
「金は後で払うから、早くしてくれ。喉乾いた」
「やめなさい和美。細川君困ってるじゃない」
「……買いに行くのはいいけど、何がいい?」
「なんでもいい。幸也が選んでくれ」
「平田さんは?」
細川が事の流れのように奈保にも訊いた。
奈保は細川を見返し、眉を下げて表情に気遣いを浮かべる。
「和美に頼まれたからって従うことないよ。嫌なら断っていいのよ?」
「飲み物買いに行くぐらい嫌じゃないよ。知床まで買いに行けってわけじゃないから」
「知床じゃなくても青森の時点で断るでしょ」
「校外の時点で断れ奈保!」
奈保の弱いツッコミに、和美が激烈にツッコんだ。
「平田さんは飲み物いる?」
女子二人のツッコミを諸共せずに細川は話題を戻して尋ね直す。
いらない、とだけ奈保は答えて椅子に腰を下ろした。
細川は財布の入ったリュックを持って席を立つ。
「頼んだぜ幸也」
椅子に座ったまま手を振る和美に送り出されて、細川は二人分の飲み物を買いに図書室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます