2-5

 図書室でのレッスン後に帰宅した細川は、夕食を摂り終えてから自室に籠り、学習机の回転チェアに座って奈保に教えられたトレーニングに没頭していた。

 

 端の擦りきれた奈保からの借り物のトランプで、一枚ずつ変換表で確認しながらトランプと変換表のイメージを結び付けていく。

 集中力を切らせばすぐに他念が邪魔をして投げ出したくなるトレーニングだが、のちに成果が出ることを信じて、黙々とトランプを捲っては変換表に目を遣る。


 すぐにでも飽きてしまいそうなトレーニングを一時間ぐらい続けた頃、不意に細川の背後で部屋のドアが勢いよく開けられた。

 突然の物音に細川はビクンと肩を震わせ、トランプを取り落としそうになる。


「お邪魔するっス、アニキィ!」


 ドアを開ける前に言えばよさそうな断りを、細川の妹の美菜が甲高く叫んだ。

 同時に、バラバラと細川の手からトランプが学習机の上に舞い落ちた。


「アニキ。入浴の準備が出来たっス」

「あ――」


 妹の登場に集中力を失った細川は、茫然と落ちたトランプを見つめる。

 無反応の兄を怪訝に思い、美菜が心配げに声を掛ける。


「ぼっーと机を見て、どうかしたっスかアニキ。もしかして他の組との抗争が避けられない事態になったっスカ?」


 美菜が無反応の兄を怪訝に思って半分冗談で声を掛けると、息つくぐらいの間を置いてから細川が背中越しにゆっくりと振り向いた。

 妹の姿を見ると、億劫そうに目を細める。


「なんだ美菜か」

「そうっす、美菜っすよアニキ」


 細川は回転チェアで身体ごと妹に向き直ってから用件を尋ねる。


「美菜。俺に何か用か?」

「入浴の準備が出来たっス」

「ああ、そうか。先入っていいぞ」


 返事をして机の方へ身体の向きを戻した。

 散らばったトランプを回収し始める。

 トランプ自体は目に入っていないが机の上で何か事を始めた兄の姿を、美菜は不思議そうな目で眺めた。


「何やってんすかアニキ?」

「なんでもいいだろ。新しい趣味だ」


 隠すつもりはなかったが、説明が面倒でおざなりに答えた。

 美菜は尚も不思議そうな目で兄を見る。


「新しい趣味っすか。今日の帰りが遅かったのはその趣味が理由っすか?」

「そうだよ」


 別に否定する事情もないため、トランプの回収を進めながら認めた。

 美菜は興味の目になって、ツインテールを揺らして兄の横へ歩み寄る。


「アニキの新しい趣味、見せてほしいっす」

「いずれな」

「またそう言って、次の時にはもうやめたって答えるっす。すぐやめちゃったら、それは趣味じゃないっす」

「やめるもやめないも俺の勝手だろ。というか、入浴の準備が出来てるなら先に済ましておけよ、ガス代が勿体ないだろ」

「ツレないっす」


 唇を尖らせながら愚痴って、美菜はドアへ足を向けた。

 その時、右手の壁に取り付けられた壁掛けフックのハンガーに、細川の制服のネクタイが今にも落ちそうになっているのを見つける。


「アニキ。ハンガーからネクタイが落ちそうっす」

「掛け直しておいてくれ」

「わかったっす」


 美菜は制服に近づき、ぶら下がっているネクタイの両端を掴む。

 途端に美菜は片手で鼻を押さえた。

 細川の制服から不意打ちに漂ってきた女性的で甘やかな匂いが、ふわりと美菜の鼻を包んだのだ。

 記憶にない香りに、美菜は驚いた目で兄を見る。


「アニキ。制服から女の色っぽい香りがするっす」

「……は?」


 細川がトランプから目を離し、合点いかぬ顔で美菜に目を向けた。

 美菜は自身の発見を確かめるように細川の制服に鼻を近づけた。

 愕然とした視線を兄に戻し、左手の小指を立てる。


「これっすか、アニキ?」

「俺の制服から女の匂いがするわけないだろ。変なこと言ってないで、風呂に入るなら早く入れよ」


 妹の問いかけに細川は呆れた顔で返し、机の上のトランプに意識を戻す。

 おかしいっすね。芳香剤が変わったんすかね、と美菜は首を捻りながら、さらなる追及はせずに部屋を出ていった。


 妹が立ち去ってしばらくすると、細川の関心はトランプを離れて制服に移る。

 妹の前では何事もない態度をとりつつも、本心では妹の言った疑問が気になって仕方がなかった。


 制服に近づき、布地に鼻を寄せる。

 男では出しようのないほど甘やかな芳香だった。

 瞬間的にプルースト現象のように記憶が蘇り、放課後の図書室で隣り合って座った和美の艶笑が思い起こされた。


「穴があったら入りたい」


 和美の香りにドギマギした自分の姿さえも思い出し、細川はあまりの恥ずかしさに顔面を両手で覆ってその場に蹲った。

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