2-4
翌日の放課後。
細川は昨日と同様、奈保に図書室に連れていかれると思っていたが、奈保は委員会で集まりがあるらしく、先に行っててと言われて仕方なく一人で図書室に訪れた。
図書室に入ると、読書スペースの一席で近頃見慣れた赤髪の女子生徒の土屋和美が、案外に背筋を伸ばした模範生のような姿勢で読書に耽っていた。
和美は入ってきた細川の存在に気が付くと、読んでいた本を閉じて振り向き、気さくな笑顔を浮かべる。
「奈保から聞いたぜ。あいつ委員会で遅れるらしいな」
「土屋さん知ってたんだ」
「ついさっき連絡入ってな。細川君の指導お願いだってよ」
「じゃあ、平田さんが来るまでは土屋さんが教えてくれるんだ」
「奈保に頼まれちゃ断れねぇ。で、何を教えればいいんだ?」
何も知らない顔をして細川に尋ねた。
俺に訊かれても、と細川は戸惑ったが、少し考えて昨日に奈保から宿題を課されたことを思い出し、とりあえず話題に出す。
「昨日、平田さんにイメージ変換表埋めてきて言われたんだけど、それを何かすればいいのかな?」
「そういえば奈保の奴、そんなこと幸也に言ってたな。んじゃ、あたしがその変換表を確認してやる」
今日の教程が決まり、暇を持て余すということはなくなった。
細川が和美の真向かいの席に就くためにテーブルを回ろうとしたところで、おい幸也、と和美が呼び止めた。
何? と問い返す目を向けると、和美は自身の席の隣を手で叩く。
「隣来いよ。喋りにくいだろ」
「でも、昨日は真向かいだったから」
「あれは奈保のやり方だ。あたしにはあたしのやり方がある。だから隣に来い」
理屈にすらなっていない主張だが、細川は教えられる自身の立場を鑑み和美の指示に従うことにした。
細川が隣の席に腰かけると、和美はさっそく手のひらを出してくる。
「変換表、見せてくれ」
「ああ」
カバンから昨日に提供されたノートを取り出し、ページを開いてテーブルの和美との間に置いた。
和美は細川の方へ身を寄せるようにして変換表を覗き込む。
その折に細川の鼻腔を甘やかな香りが撫でた。
隣の和美から醸し出された想定外の女性的な芳香に、細川はドキリと胸を跳ね上げらせながらも、動揺を表情に出さないようにノートに視線を落とす。
自身の香気が細川にまで伝わっているのを知らない和美は、変換表の♤9で目の動きを止め、横目で細川を向いた。
「なあ、幸也」
「な、なに?」
「スペード9がスクーターでいいのか?」
「ダメなの?」
「ダメではないが、好きじゃねえな」
「好きじゃないって、どういうこと?」
「あたしの性には合わねえってことだ。それにに、もっとお勧めのイメージがある」
「そのイメージって?」
「スクール水着だ」
「スクール水着」
和美が口にしたイメージをフレーズのみで反芻した。
スクール水着ってどういうものだっけ、とイメージしようとして、急に恥ずかしくなる。
和美の甘やかな香りが想起させたのか、細川の脳内でスクール水着に肢体を包む和美の姿が微笑していた。
自分の想像に赤面しそうになる細川の反応をどう受け取ったのか、和美が愉快そうにニタリと笑う。
「スクーターよりもスクール水着の方が、イメージが鮮明だろ?」
「はあ、まあ」
和美を前にして、あなたのスク水姿を考えてましたと口にできるわけもなく、口を濁すように答えた。
「スペード9はスクール水着に換えるか?」
「やめとく。刺激が強すぎる」
拒否しながら、現実の和美の顔から目を逸らす。
細川の言葉に、和美は悪戯を見つけたみたいに口の両端を吊り上げた。
「なんだ幸也、好きな子のスク水姿でも妄想してたのか?」
「……そんなわけないだろ」
微妙な間をもって否定した。
幸也も男子だからなー、とニヤニヤしながら細川本人の否定を信じた様子もなく、イメージ変換表に意識を戻す。
細川は和美としばし変換表に注意を向けていると、♢2をふいに和美が指さした。
「おい、幸也」
「今度は何?」
若干うんざりした顔で細川が訊き返す。
和美はダイヤ2を指さしたまま、小悪党みたいな笑みで細川に問いかける。
「ダイヤ2のイメージはなんだ?」
「ダーツだけど」
「やめとけ。もっとお勧めのイメージがあるぜ」
「なんだよ?」
「……谷間」
ちらっと細川の視線が和美の顔より斜め下に向かった。
大きさがはっきりしない緩い制服越しの胸元を注視した後、しくじった表情で和美の顔に目を上げる。
和美は楽しそうなぐらいに意地悪い笑みを浮かべていた。
そして細川と目が合うと、胸元を隠すように片腕で覆い、わざとらしい恥じらいの表情を作った。
「いやーん、幸也のエッチ」
「……」
何もなかったつもりで、細川はゆっくりと目線を変換表に移す。
「幸也。こんなところで、ダメだぞ」
「……」
ダイヤ2からダイヤ3の枠に視線を移動させた。
ダイヤ3にはターザンと記入されている。
「ゆきやぁ、誰も見てないからってぇ、ああん」
「……」
声に哀訴するようなトーンを加えて、和美は一人芝居を演じる。
♢4には山車を記入されている。
「……無視するな幸也」
無反応が過ぎる細川に、和美が詰まらないと言いたげに文句をつけた。
細川はやっと和美に視線を向けて、億劫そうに眉を顰める。
「だって、どう反応するのが正解なのかわかんないから」
「正解なんてねえよ。無視されて悲しかったぞ」
「ああ、それはごめん」
謝る必要あるのかな、と思いつつも一応謝った。
一人芝居に飽きたのか、和美は変換表に真面目な眼差しを向ける、
「ダイヤ5は団子なんだな」
「おかしいかな?」
「いや、おかしかねえよ。田子の浦かも知れないなって思ってたから安心しただけど」
「百人一首の一枚だな。田子の浦は選ばないだろ、イメージできないからな」
「その通りだぜ。あたしも田子の浦って言われても、すぐにイメージできない。田子の浦よりも山部赤人でてきちゃうぜ」
ユーモアのつもりで和美は笑いながら言った。
しかし細川は山部赤人が誰か思い出せず、ピンと来ていない顔でクスリともしない。
「それで、次はダイヤ6だな」
シンとした空気を紛らすように和美が話題を移す。
ダイヤ6にはダムと記入されていた。
「あたしはダイヤ6のイメージは田村にしてるぜ」
「田村って誰?」
「あたしのクラスの男子だ」
何の気もなく答えた後、すぐさま反発の目で細川を睨む。
「勘違いするんじゃねーぞ。田村に特別な感情はないぜ」
「俺、何も言ってないよ」
「……それもそうだ。幸也は他人の色恋とか興味なさそうだもんな」
醒めた口調で言い、変換表に目を戻す。
細川がまんざら否定も出来ずに黙っていると、つと和美が細川を振り向いた。
瞳には若干の躊躇いがあった。
「なあ、あのさ、幸也」
田村の話題で想起するものがあったのか、やけに慎重な喋り方で話しかける。
細川が和美の心情の機微に気が付くことなく顔を上げた。
「何、土屋さん?」
「そういえば、お前が奈保に協力する理由ってなんだ?」
「どうしたの、突然?」
細川が訊き返すも、和美はこの先の言葉を恐れるように目を伏せた。
「……」
「土屋さん?」
「……訊いていいのか?」
「何を?」
「……まあ、そのな」
「訊きたいことあるなら訊いてくれ。中途半端だとこっちまで気になるだろ?」
「そうだよな。じゃあ、訊くぞ?」
細川の何気ない口ぶりに背中を押された気持ちで、和美は問いを口にする。
「幸也が奈保に協力する理由は、好きだからか?」
「何が?」
「……奈保のこと」
和美が自分事ではないのに頬を紅潮して質問した。
なるほど、と細川はようやく合点し、はっきりと首を横に振る。
「平田さんは関係ないよ」
「じゃあ、どうして協力するんだ? 幸也にはメリットないだろ?」
奈保からは訊かれなかった問いかけだった。
どうして部活創設に手を貸すのか。
細川はしばらく思考してから答えを返す。
「人助け、かな?」
「人助け。お前は正義のヒーローになるつもりか?」
「違うよ。最初に人助けって言ったのは平田さんの方だよ」
「奈保か。あいつ、相当必死だったんだな」
「熱意に負けた部分もあったけど、自分の名前を貸すだけで役に立てるならそれもいいかなって思ってさ。実際にメモリースポーツを始めることになるとは予想もしてなかったけど」
そう言って、細川は苦笑した。
細川の真意を知り、和美はほっとしたように表情を緩める。
「奈保の事を狙ってるんじゃないかと思って心配だったぜ」
「俺みたいな詰まらない男子じゃ、平田さんは手が届かないよ」
「謙虚だな、幸也」
「そういうわけじゃないけどなぁ」
自虐のつもりだった細川は、和美に別の受け取り方をされて当惑した。
話のタネが無くなって細川と和美は変換表に意識が傾けようとした時、ふいに図書室のドアが開いた。
細川と和美の目は変換表からドアに向かう。
我が目を疑いたくなる光景を前にしたかのように双眸を見開いた奈保が立っていた。
「あれ。細川君の指導お願いしてなかったっけ?」
「よお、奈保。意外と早かったな」
和美は陽気に奈保へ話しかけた。
細川と肩がくっつきそうな位置に座る自身が、奈保にどう見えているのか気が付かずに。
「ねえ、和美」
「なんだ?」
「そんなに細川君と仲良かったっけ?」
「うん? ああ、奈保がいない間に色々喋って仲良くなったぜ」
奈保の考える仲良しとは意味合いが違うのを知らないまま和美は肯定した。
和美を見る奈保の目が意外そうに瞠る。
「細川君が良い人だってのはわかるけど。和美の方から積極的に仲良くなろうとするとは思わなかったな」
「奈保なら知ってるだろ、あたしが友達を自分から作りに行くタイプだってこと」
「友達ねぇ?」
「あん? 不満かよ?」
いつもより要領得ない奈保との問答に、和美は少しの苛立ちを表して問い質した。
奈保の方も和美との問答に齟齬を感じていたのか、しばし考える間を置いて追及する。
「和美。細川君との距離感が近すぎない?」
「あん。距離感だあ?」
奈保に言われて、和美は細川に一度振り向いてから距離を目測した。
肩が今にも触れそうだった。
和美は黙って細川から椅子ごと距離を取り、微かに顔を赤くして奈保に向き直る。
「ヘンな想像するなよ奈保」
「大丈夫、しないしない」
奈保は無理に笑いを抑えているような声で言った。
友人の反応に不満を露わにしながら和美は話題を変える。
「今はあたしのことはどうでもいいだろ。奈保は幸也が書いた変換表見てやれよ」
「そうね。細川君の宿題が第一優先よね」
同意すると、和美と細川が陣取るテーブルに歩み寄った。
近づきながら、細川に手のひらを差し出す。
「細川君。ノート見せて」
「はい」
要求通りに細川はノートを手渡す。
奈保は受け取ったノートの変換表のページに目を走らせ、やがて大きく頷いた。
「初めにしては上出来だね。五十二個すべてイメージしやすい物に変換できてる」
「平田さんの説明のおかげだよ。参考になった」
「初心者に教えたことってないから、説明足りたかなってちょっと心配してたけど、細川君にそう言ってもらえて安心したよ」
奈保はホッと胸を撫でおろすように微笑した。
細川の方も教えを裏切ることなく及第点を貰えて、安堵の気持ちになる。
「なあ奈保。細川のイメージ変換に問題がないなら次の段階に進むのか?」
判断を仰ぐように和美が訊いた。
奈保は考える間もなく首肯する。
「当り前よ。イメージ変換で悠長に時間を使ってる余裕ないもの」
「次は何をすればいいの、平田さん?」
細川の側から尋ねた。
奈保の真剣な瞳が細川を見つめる。
「イメージ変換練習よ」
細川が疑問符を浮かべたような顔になる。
「イメージ変換練習? どういうこと?」
「トランプ記憶のタイムを上げるためには必要不可欠なトレーニングがあるの。それがイメージ変換練習」
「変換表を書く作業を練習するのか?」
「細川君にトランプ五十二枚分のイメージ変換を作ってもらったでしょ?」
「ああ。でも、それがどうかしたのか?」
「作ってもらったイメージ変換を何回も反復するの。そうすることでトランプのスーツと数字を一瞬見ただけで、作ったイメージが頭に出てくるようになるの」
「そのトレーニングをするとタイムが上がるの?」
「それをするとじゃなくて毎日続けるの」
「え、毎日?」
イメージ変換を覚えればいいのだろう、と簡単に考えていた細川は、奈保の言葉に度肝を抜かれた。
細川の驚きを意に介すことなく奈保は説明を続ける。
「毎日イメージ変換練習をすると、少しずつだけどトランプ記憶のタイムが速くなっていくの。それには根拠があって、トランプを見た際にイメージに変換されるスピードが上がるから自ずとトランプ記憶のタイムも速くなるの」
「へ、へえ。それでタイムを上げるためには一日どれぐらい練習すればいいの?」
「最低十回」
「どれくらい時間掛かる?」
「熟練度による。細川君はイメージ変換を作っただけの状態だから一時間は少なくとも掛かるかな」
「辛そうだな」
やる前からトランプとにらめっこする苦行の様子が頭に浮かんできた。
今にも意欲喪失しそうな細川に奈保は同情的になる。
「慣れないうちは変換表を見ながらでいいよ。いきなりトランプのスーツと数字だけでイメージを思い出すのは大変だから」
「俺に遠慮して、わざと難易度落としたりしてない?」
奈保の同情を感じ取った細川が、心外だとばかりに訊いた。
「おい、幸也」
奈保が説明を始めてからは黙っていた和美が、警告する声色で急に口を挟んだ。
「奈保の言うことに従っておけ、マジで辛いぞ」
「……ほんとう?」
細川の呻くような問いかけに奈保が頷く。
「この練習は慣れるまでは辛いよ。私だって始めたばっかりのころは、変換表と首っ引きだったから」
「平田さんが?」
常人とは思えぬ速度でトランプを記憶してみせた奈保の言葉に、細川は意外の感を強くした。
「何を驚いてんだよ幸也。奈保だって初心者だったんだ。初心者の経験があるから幸也に助言してんだろうが」
「あっ、そうか」
和美の一言で、細川の奈保を見る目が変わった。
平田さんにも自分と同じ初心者の時期があった。
そう思うと、想像していた苦行でも少しだけ頑張れる気がした。
「練習すれば平田さんみたいに早く覚えられるようになるんだよね?」
確認したい気持ちで訊いた。
なれるよ、と奈保が肯定すると、細川の挑戦心が昂った。
「イメージ変換練習やってみるよ」
「そうと決まれば、やり方とコツを教えてあげる」
細川の意欲を指導者として奈保はがっちりと受け取った。
その後、奈保は数十分かけて細川に練習方法を指導し、細川の方も奈保の指導に真剣に耳を傾けた。和美は温かい目で奈保と細川のやり取りを眺めていた。
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