2-3

 翌日の放課後。

 図書室で奈保によるメモリースポーツ基礎講座が開講されようとしていた。


「これよりトランプ記憶短期集中レッスンを始めたいと思います」


 読書スペースのテーブルに座って奈保が宣言した。

 真向いの席に座る細川がお願いしますと頭を下げ、細川の隣の椅子に腰かける和美が頬杖をつきながら進行を傍観する。


「まずはメモリースポーツの歴史から、と言いたいところだけど……」


 奈保は競技の生い立ちを解説すると見せかけておいて、テーブル上にトランプをケースごと置いた。


「歴史については割愛して、早速トランプを使っていきます」

「はじめは何をするの?」


 置かれたトランプを見ながら細川が尋ねる。

 奈保はトランプを手に取り、ケースから中身を出した。

 中身であるジョーカーを抜いた五十二枚の山札を♤Aを上に元の位置に戻す。


「ここに置いてあるトランプは各スーツで数字が上がっていくように並べてあるの」


 言って、スペードAを取った。

 二枚目にスペード2が現れる。


「普通はこの順番でトランプを見たとき、スペードAだな、スペード2だなって思うよね」

「そうだね」

「でもトランプ記憶をする時は、見たまんまのトランプじゃダメなの」

「見たまんまじゃダメ?」

「トランプのスーツを語呂合わせにして別のものに変換するの」

「どうやって?」


 問われると、奈保は足元に立て掛けておいたバックをテーブルに上げた。

 バッグの口を開けてあまり使われた形跡のない大学ノートを取り出し、最初のページを開いて細川の前に置く。

 そのページの上端に、黒のボールペンで題名が書かれていた。

『トランプ記憶 イメージ変換表』とある。

 細川は訳わからないと言った顔つきで目の前に置かれたノートを指さす。


「このノートは何?」

「細川君のために昨日の夜に用意してきた、専用ノート」

「イメージ変換表ってあるけど?」


 訊きながら、ページを子細に眺める。

 ノート名の下に、縦十三列横四列で切り分けられた五二個の四角い枠があり、縦列の左端には1から13までの数字、横列の上端にはスペード、ハート、クローバー、ダイヤのトランプのスーツが描かれている。


「この表をどうするの?」

「表の枠全てを細川君に埋めてもらうの」

「どうして?」

「トランプ記憶に必要なことだから」

「マジかよ」


 細川は得体のしれない表を前に嫌気がさした。

 細川の渋面を気にする風もなく、奈保は講義を進行させる。

 スペードのスーツが描かれた列を指でなぞる。


「まずはこの列から埋めていきましょう」

「枠をどうやって埋めるんだ?」

「トランプのスーツと数字を語呂合わせにするの」

「例えば?」

「スペードAはスペードのイチだから、スイ」

「スイ?」

「語呂合わせにするなら、スイカとか」

「何故にスイカなんだ?」

「スイカって口にした時、頭の中にぼんやりとスイカのイメージが浮かんだでしょ?」


 脳内を覗いているかのような口ぶりで訊いてくる。

 細川は図星だった。

 確かにスイカと発音したとき、夏の風物詩である瓜科で黒と緑の縞模様の球体が脳裏に思い浮かんでいた。


「スイカなら簡単にイメージできるでしょ?」

「そうだな」

「だから、スペードAをスイカに変換してイメージしやすくするの」

「複雑なものじゃないから、変換しなくても大丈夫じゃないか?」

「いきなり否定しないでよ、細川君」


 講義の緒に就いたばかりでトランプ記憶の経験がない細川を、奈保が面倒そうに厳しく詰った。

 細川はシュンとする。


「説明止めてごめん」

「イメージしやすくなることを肯定してくれないと先に進まないから、わかった?」

「わかりました」


 粛々と頷いた。

 奈保は講義に戻る。


「次はスペード2。これはスニとかスツとかで語呂合わせできるの」

「スニ、スツ……スニーカーとか?」

「そうだね。他にもスーツとか」

「どっちなんだ?」

「どっちでもいいよ。細川君が先に思い浮かんだものにして」

「じゃあスニーカー」

「スペード2はスニーカーで決まりだね」


 即決するように言った。

 あまりの決定の早さに、細川はちょっと待てと声を出す。


「決めるの早すぎないか。もっと真剣に考えてからの方がいいだろ?」

「最初のイメージが優先なの。あまりにもイメージしづらい物だったら変更するけど、そうじゃなければ最初に思い浮かんだイメージを使った方が有効よ」

「どうして?」

「一度トランプとイメージが結びつくと、変換したイメージが頭にこびり付くから。新しく換えようと思っても頭から離れてくれるのに時間が掛かるの」

「イマイチ平田さんの言う感覚はわからないけれど、そういうことにしておくよ」


 否定されたら先に進まない、という先ほどの言葉を思い出し、細川は疑問がありつつも当面は放置することにした。

 細川から質問がないため、奈保は♤3に指を置く。


「スペード3は、スサンとかスミとか」

「なら、炭でいいだろ」

「おーけー。じゃあ次、スペード4」

「寿司か?」

「おーけー。じゃあ次、スペード5」

「すごろく?」

「呑み込みが早いね、細川君」


 奈保がにわかに褒めた。


「なんとなくの語呂合わせで思う浮かんだイメージを言ってるだけだよ」


 照れる様子もなく細川はそう答えた。


「じゃあ次、スペード6は?」

「スロ……スローモーション?」

「微妙だね」


 奈保ははっきり告げた。


「微妙か。平田さんだったらどうする?」

「私? 私はスムージーだよ」

「スムージー。なるほど6をムと読むのか」

「私の好みが出ちゃってるけどね」

「平田さんはスムージーとか飲むんだ。俺は飲んだことないから思い浮かばなかったよ」

「家にミキサーがあるから、たまにフルーツ混ぜて飲んでるの。バナナとか美味しいよ」

「へえ、そうなんだ」

「スムージーの話もいいけど、今はイメージ変換に集中しよう。次……」


 他愛もない会話になりそうな空気を奈保は上手く躱し、細川の意識を目の前のトランプに促した。

 集中力を持続したまま、スペードの列が埋まった。

 スペードKを記入したところで、奈保が不意に変換表を閉じる。


「あれ、これで終わり?」


 突然に閉じられたノートを前に、細川が拍子抜けしたような顔で尋ねる。

 奈保は意地悪げに片頬を吊り上げた。


「細川君。ここで問題」

「はい?」

「スペードAからKまで十三枚、全部のイメージを答えて」

「悠長にクイズなんて……」

「いいから早く答えて」


 遠回しに解答を断ろうとした細川だが、奈保の真面目な眼差しに合い、答えないと先に進めないとわかると渋々トランプの変換イメージを頭に浮かべてみる。


「スペードAがスイカ、スペード2がスニーカー、スペード3が炭……」


 順々に答えていった。

 スペードKまでイメージを答えると、奈保が我が意を得たりという笑顔でうんうんと頷く。


「イメージに変換したから十三枚きちんと覚えてたね」

「案外に覚えてるものなんだな」

「これがイメージ化の力だよ、細川君」


 好きな男性俳優のドラマ出演が決まったみたいに誇らしげに言った。

 そ、そうなんだ、と奈保の興奮に細川は戸惑い気味に相槌を打つ。

 講義が始まってから傍観していた和美が、講義を見飽きたように席を立ち文庫本の並んだ本棚へ歩き出した。

 和美には構わずに奈保が再びノートを広げる。


「それじゃ、次はハートの列よ」

「ハートAはハイ……」


 細川は奈保と話し合いながら、イメージ変換表を徐々に埋めていった。

 二人が表を埋めている間、和美は棚の陰に隠れて立ち読みで読書にのめり込んだ。

 図書室に夕方の日差しが射してきた頃、奈保が壁掛けの時計に目を遣ると、時刻はすでに十八時を過ぎていた。


「暗くなってきたし、そろそろ終わりにしましょうか」


 集中力を保って変換表の枠を埋めている細川に告げた。

 細川は少し物足りない顔をしながらも、奈保の言葉を受け入れてノートを閉じる。

 奈保はこの部屋で講義に同伴してくれたもう一人に話しかける。


「和美。退屈させてごめ……って、いないじゃん」


 講義の始めたときの席に和美の姿がなかった。

 奈保が周囲を見回そうとした時、本棚の端から赤い髪が覗いた。


「奈保。あたしはここだぜ」


 陽気な笑顔で居場所を告げ、細川と奈保のテーブルに近づいてくる。

 奈保が咎めの目つきで和美を睨んだ。


「ちょっと和美。本に読みに来たんじゃないんだけど」

「わかってるって。幸也にレッスンしてあげるんだろ? でもさ、奈保一人で充分じゃん」

「まあ、確かに事足りたけども」

「だろ。だからあたしは本読んで時間を潰してたんだ」

「退屈なら和美も参加すれば良かったのに」

「教えられる側にか?」

「ううん、教える側に。細川君も一人より二人から教わった方がより良い指導を受けられると思うから」

「そうなのか幸也?」


 和美は教えられる側の当の本人である細川に尋ねた。


「一人より二人の方がいいかもしれないけど、まあ別に気にしてない」


 どちらでも構わない、と言いたげな口調でそう答えた。


「ふーん、そうか。あたしも気がむいたら指導側に回るぜ」

「和美も細川君に協力してよ」

「出来る限りな」


 飄々とした態度で言葉を返すと、バッグを持っていち早く帰り支度に入った。

 和美の行動を見て、奈保も席を立ちスマホやトランプなどをバッグに仕舞い始める。


「平田さん。ノート返すよ」


 細川がノートを奈保の方へ押し滑らせる。

 奈保は物を仕舞う動きを止めてノートをしばし見つめ、考えが決まったように細川に顔を上げた。


「ノートは細川君が持ってて」

「でも、平田さんのノートだよね」

「ノートはあげるよ。代わりに宿題」

「何?」

「明日の放課後までに変換表の枠をすべて埋めてきて」

「それが宿題ね。わかった、やってくるよ」


 少し億劫に思いながらも細川は宿題を受諾した。


「奈保、幸也。早く帰ろうぜ」


 和美がすでにドアの前にいて二人に呼び掛ける。

 今行く、と奈保は和美に返すと、バッグを提げなおして細川に微苦笑を向けた。


「和美を待たせちゃうから、行こ細川君」

「あ、ああ」


 親密さを感じさせる奈保の口調は、友人のいない細川には若干気恥ずかしかった。

 三人は図書室を出て、帰路に就いた。

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