1-3

 細川の反応が当然と言いたげに奈保は微苦笑する。


「知らないのも無理はないよね」

「……悪いな勉強不足で」

「いいよ。ほとんどの人が初めて聞かされたって顔するから」

「そうなのか、知らないのは俺だけじゃないのか」


 自身が無知な訳ではないとわかり、細川は安堵する。

 そして次には当たり前の疑問に至る。


「ねえ平田さん。メモリースポーツってなに?」

「よくぞ聞いてくれましたっ」

「まあ、そりゃ気になるからね」

「メモリースポーツっていうのはね、別の言い方では記憶力の格闘技とも言われてるの」

「記憶力で格闘技するって想像つかないんだが?」

「ほんとうに格闘するわけじゃないよ。記憶の中で相手を殴ったり、蹴ったりはしない安全なスポーツ」


 ボクシングのポーズを真似して奈保が言った。

 細川は自身の解釈を口にする。


「格闘技って言うのは、つまり闘うことって捉え方でいいんだよな」

「そうだね。己との闘いでもあるしね」

「記憶力で闘うって言っても、どうやって闘うんだ? スポーツならルールとかあるんだろ?」

「トランプやランダムな数字や単語とか、それらを記憶して覚えた数や時間を競うの」

「難しそうだな」


 細川がいきなり興味を失くした声で告げた。

 そんなことないよ、と奈保は即座に否定する。


「やり方さえ分かれば難しくないよ」

「記憶するのって結構大変だろ。テスト勉強でも何回も復習しないと覚えられないし」

「うーん。言葉だけで信じろって言うの方が厳しいかー」


 半信半疑の細川の態度に、奈保は腕を組んで唸る。

 しばらくして、よしっ! と決断するように声を上げた。


「今ここで実践してあげる」

「何を?」

「メモリスポーツの一種目。スピードカード」

「どういう種目なの?」

「ジョーカーを抜いたトランプ五十二枚を、どれぐらいの時間で何枚覚えられるかを測る種目だよ」

「それを今からやるの?」

「うん。特別だよ」

「特別なんだ」

「案外に疲れるからね。一回だけ実践するからよーく見ててね」


 マジックでも披露するような言い方で告げると、横の椅子に下ろしていたバックをテーブルに上げた。

 バックの口を開き、トランプ二組と中央に横に細長く中央にタイマーのような液晶が備え付けられたボードのような物を取り出す。


「それ何?」


 細川がボードのような物を指さした。

 ああ、これ? と奈保は指さされた物を細川に顔の高さまで上げる。


「これはスタックタイマーっていうの。タイムを計測するものなの」

「タイマーっていう名前通りだね」

「公式大会には欠かせないアイテムだね」


 メモリースポーツって公式大会あるんだ、と細川はかなり失礼なことを考えたが口には出さないでおいた。

 奈保は二組のトランプをケースから出して拳一つ分の間を空けて並べると、トランプの前にタイマーを置いた。

 一方のトランプの束を右手に持ったところで、奈保が細川に顔を向ける。


「細川君にちょっとお願い」

「なに?」


 手に持ったトランプの束を差し出す。


「シャッフルして」

「どうして?」

「細工がないことの証明のために」

「わかった」


 細川はトランプの束を受け取り、適当な回数シャッフルした。


「やっぱり手際が違うね」

「そんなことないよ」


 否定しながらシャッフルを終えて奈保に返す。


「はい。シャッフルしたよ」

「ありがと」


 奈保はトランプの束を返してもらうと、テーブルの上に軽く叩きつけて四辺を揃えた。

 右手に持ち直し、少し前かがみになる。


「あっ……」


 細川は思わず声を漏らした。

 奈保の纏う雰囲気が一変していた。

 座禅のような静謐な空気が奈保を取り巻いている。

 つと奈保が細川に顔を向ける。


「ねえ、細川君」

「なに……」


 返事をしようとした細川は彼女の本気が窺える眼差しに捉えられ、背筋が伸びる思いがする。


「私がいいよって言うまで、絶対に声出したり音立てたりしないでね」

「……わかった」


 粛然とした雰囲気に気圧されて重々しく頷いてしまう。

 細川が了解すると、奈保は一方のトランプの束を手に掴んだままタイマーの両端に両手のひらを翳す。

 数瞬の深呼吸のような息遣いがあってから、両手のひらがタイマーに触れた。

 瞬く間もない急な動きで、奈保は手に掴んでいたトランプの束のスーツが描かれた側を自身に向けた。

 右手から左手へトランプが一枚ずつ滑っていく。


「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。


 細川の無言とトランプ同士の擦過音だけがファミレスの一席を支配していた。


「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。


 五十二枚のうち、三十二枚が右手から左手に移動していた。


「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ。

「……」

 サッサッ、サッサッ、トン。


 五十二枚が左手に納まったと同時に、奈保の両手がタイマーの両端を叩いた。

 ふう、と一度大きく息を吐いて瞑目する。

 その間、細川はずっと身動ぎすらしなかった。否、身動ぎすら出来ないぐらいに奈保の動作に気を取られていた。


 奈保が目を開ける。

 左手に納まったトランプの束を置き、もう一組の束を右手に持つ。


 タイマーより手前の位置にトランプの背を触れさせ、サァーと横に流した。

 ♤AからK、♡AからK、♧AからK、♢AからKの順で並んでいる。


 奈保の右手が動いた。

 ♤3を摘み取り、左手に持ち替える。

 続けて他のカードも不規則な順で一枚ずつ取っていき、左手に積み重ねていった。

 五十二枚すべてを左手に重ね終えると、スーツの描かれた側を自身に向けて束の後ろかた一枚ずつ丁寧に見送った。


 奈保の表情から真剣さが抜ける。

 トランプの束が背を上にして置かれる。


「よしっ、いいよ」

「……終わったの?」


 夢から醒めたようにハッとした顔で細川が伺う。

 奈保は唇を尖らせた。


「細川君、ちゃんと見てた?」

「ちゃんと見てたよ。すごい集中力だった」

「集中しないとミスしちゃうからね」


 細川の感想に奈保は照れたように笑ってから、タイマーの液晶に目を移した。細川もタイマーの液晶を覗く。

 液晶には、一回目に触れてから二回目に触れるまでのタイムが表示されていた。

 

0min37s44


「失敗したくなくて慎重に記憶したから、ちょっと遅くなっちゃった」

「え?」

「うん?」

「この記憶じゃ遅いの?」

「私。最速だとあと六秒は速いから」

「……覚えられるわけないよ」


 一分にも満たない時間でトランプ五十二枚を覚えるとは想像もつかず、細川はおどけたように肩を竦めた。

 奈保は不敵な笑みを浮かべる。


「覚えられるわけない、って本気で言ってる?」

「本気も何も、信じられるわけないだろ」

「じゃあ、確かめてみよっか」

「確かめるって、記憶できてるかどうかを?」

「そう。細川君、そっちのトランプ持って」


 疑う細川には取り合わずに、奈保は最初に見た方のトランプの束を指さした。

 細川は納得いかない顔をしながらも指示されたようにトランプの束を手にする。


「これで、どうするの?」

「私がこっちの見たばかりの方を持つの」


 言いながら、つい先ほどに一枚ずつ並べたトランプの束を掴んだ。

 スーツの描かれた側を表に向ける。


「細川君も同じようにして」

「……わかった」


 細川もトランプの束をスーツの側に表返す。


「一番上の一枚をテーブルに置いて」


 奈保は口にして自らがやってみせた。

 彼女に倣って細川も上の一枚をテーブルに置く。

 スーツは一緒だった。


「この一枚ずつ捲る作業を、私と細川君がタイミングを揃えてトランプが尽きるまでやるの。もし私と細川君のスーツが不一致のカードがあったら、それは捲り終えたカードの横にずらして置いてね」

「混ぜないように?」

「そういうこと」


 細川が理解したように言うと、奈保は嬉しそうな顔になる。


「それじゃ二枚目」


 奈保の動きと声に合わせて細川がトランプを捲る。

 二枚目もスーツは一緒だった。


「また一致か」

「やり方わかったみたいだから、ペース上げていい?」


 細川が頷くと、奈保は早速トランプに手を掛けた。


 三枚目、四枚目、五枚目――

 一枚ずつスーツを確認し合いながら二人はそれぞれにトランプを捲っていく。

 十枚目に来て不一致ナシ。細川の顔に微かな驚きで目を見開いた。


 十一枚目、十二枚目、十三枚目――

 二十枚目に来て不一致ナシ。

 細川が怪訝そうに眉を顰めた。


 二十一枚目、二十二枚目、二十三枚目――

 三十枚目でも不一致ナシ。

 将棋で追いつめられたように細川の眉間に深い縦皺が刻まれる。


 三十一枚目、三十二枚目、三十三枚目――

 四十枚目でさえ不一致ナシ。

 サッカーの試合の後半アディショナルタイムだけで三失点喫しかけているように、細川の口が驚きで半ば開く。


 四十一枚目、四十二枚目、四十三枚目――

 五十枚目まで捲っても不一致ナシ。

 九回裏三点差二死満塁でストライクゾーンのど真ん中に投手が失投する瞬間を目の当たりにしたかのように、細川の顔が絶望に染まる。


 五十一枚目、五十二枚目――すべてのトランプを捲り終わった。

 全五十二枚で不一致ナシ。

 推しのチームが逆転サヨナラ満塁ホームランを浴びて敗戦してしまったみたいに、細川は受け止めきれない驚愕に打ちのめされた。


「五十二枚。ミスなし。成功だね」


 片や奈保は純粋な喜びに声を弾ませた。

 細川は現実離れした者を見る目で奈保に視線を当てる。


「トリックなんて無いよね?」

「うん。トリックなしの自力で記憶したよ」


 奈保が頷くと、細川は距離を置くように言う。


「すげー難しそうだ」

「そうかな?」

「自由自在に記憶できれば楽しいんだろうけど、学校の模試勉強さえ苦労してる俺には無理そうだ」


 軽口のような言い方で自嘲する。

 奈保が否定したいような顔つきになった。


「練習さえ積めば誰だって強くなれるスポーツだよ」

「だとしても、記憶力高い人の方が有利だろ。とてもじゃないが、俺じゃ平田さんみたいに覚えられそうにない」


 奈保の主張に、細川は諦めたように首を横に振った。


「それじゃあ、部に入ってくれないの?」


 縋るような目になって奈保が細川を見つめた。

 本当に困っているらしいクラスメイトの哀訴に、細川は無下に断るのも気が引けてきた。

 かといって、部活動しようと思うほどメモリースポーツに惹かれてはいない。


「細川君。お願いします」


 奈保は懇願して顔の前で手を合わせた。


「まずは名前だけでも貸してください」

「……名前だけでいいの?」


 細川は膝を打ちたかった。

 名前だけ部に所属させて員数を稼ぐ。部の創設を手伝ってあげたいが活動しようとは思えない細川にはとても有効な手段に感じた。


「人助けだと思って、名前だけでいいから細川君」

「俺の名前なんかで平田さんの助けになるなら、喜んで貸すよ」


 細川が快諾した瞬間、奈保の表情がぱあっと綻んだ。

 意外と可愛い笑い方するんだな、と細川は密かに思った。


「ありがとう細川君」

「どういたしまして。でも、ほんとうに名前だけで良かったの?」

「うん、大丈夫。人数さえ揃えば部活動申請は出せるから」

「申請に必要なのは三人だっけ。あと一人はどうするの?」

「心配ないよ。私の友達が入ってくれたから」

「それじゃ、後は申請するだけだ」


 奈保の安堵が伝わったように細川が言った。

 そうだねと奈保が頷き、テーブル上のバックの中から水色のクリアファイルと単色デザインのペンケースを出した。


「今ここで申請書に名前だけ書かせてもらっていいかな」


 ファイルから申請用の用紙を抜き出し、ペンケースからボールペン一本を取る。

 申請書をテーブルに置くと、細川の見ている前で名簿欄に記入し始めた。

 細川も部員の名簿欄に目を落とす。

 すると名簿欄にある名前の一つに気に掛かった。


 土屋和美。

 学校模試の上位者に同じ名前があった。


 しかし奈保の私の友達が入ってくれた、という台詞を思い出し、追及するのはやめて奈保が自分の氏名を記入する様を眺める。

 三文字目を書き終わったところで、ちょっと待ってと細川が制止する声を発した。


「え?」


 どうかしたの、という顔を奈保が上げると、細川が途中まで書かれた自分の名前を指を下ろす。


「名前、間違ってる」

「うそ?」


 奈保が細川の追うように名簿欄に目を落とす。

 首を捻った。


「どこが間違ってるの?」

「三文字目。幸せの字が辛いになってる」

「……あっ」


 細川幸也、とすべきところが細川辛也になっていた。

 自身のしてしまった書き違いに気が付き、奈保が途端に顔を赤くした。

 慌ててペンケースから消しゴムを掴み取り、細川の名前を消しにかかる。

 が、力を入れすぎたのか指先から消しゴムが滑り落ちた。


「あっあっ」


 消しゴムはテーブルの角で弾み、床にポトリと着地する。


「あっ。落ちちゃった」

「……」


 細川は無言で床に落ちた消しゴムを拾う。

 アワアワする奈保の前に消しゴムを置いた。


「あー、ありがとう」

「……幸せの字が辛いになってる」

「ごめん。書き直す」


 からかいもしない細川に訂正を促され、奈保は細川の名前を消してから再び記入した。

 今度はきちんと細川幸也と書かれている。


「これで、いいよね」

「あってる」

「ごめんね。私漢字とか苦手で」

「書き間違える人が平田さんだけじゃないから」

「うん、ありがと」


 少し照れたように小声で言った。

 しばらく名簿欄にミスがないか確認する時間をあってから、奈保が細川に顔を向け直しした。


「もしかしたら呼び出しがあるかもしれないけど、その時は迷惑かけちゃうけどいいかな?」

「名前を貸した以上は部員の振りをするよ」

「ありがとう細川君」


 微笑みとともに礼を口にした。

 名前を貸すぐらいのことで感謝されて、細川はちょっと面映ゆい気分になる。

 奈保は並々ならぬ熱意ある目をしながらも、気さくっぽい笑顔を浮かべた。


「メモリスポーツに興味あったらいつでも話しかけてね」

「ああ」


 細川が相槌を打つと、奈保が嬉々としてテーブル上のバックを手に取った。

 バックを肩に提げ直して席を立つ。


「それじゃ、細川君」

「ああ」

「また月曜に学校で」

「……ああ」


 やたら親し気な物言いをされて、細川は戸惑いながら相槌を返した。

 ファミレスの外では空の色が夕暮れの橙に染まり始めている。


 また月曜日に学校で――。


 そんな約束めいた言葉を、細川はクラスメイトと交わしたことがなかった。

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