第29話 変化(3)

 しばらくして落ち着き、泣き止んだ亜姫が独り言のように呟く。

 「仕事が終わっても、一緒に過ごしたい」

 

 すると、和泉は苦しそうに顔を歪めた。

 「………それは、出来ない」

 

 亜姫は予想しなかった答えに目を見開く。

 「どうして…………?」


  

 和泉があれほど望み続けた願い。それが叶ったというのに、手にすることはできない。

 それは想像を遥かに超える辛さで、言いたくないと拒否する心が言葉を震わせた。

 「俺は……お前を傷つけることしか出来ないから。

 ……ゴメンな」

 

 和泉は真摯に伝えた。最低だった過去、付き合った場合の弊害、何より亜姫には笑っていてほしいこと。「だから、付き合うことはできない」と。

 

 だが。

 

 「よくわかんない。何がいけないの?」

 亜姫があまりにもアッサリと言うので、和泉の方が困惑してしまった。

 

 「だから、言っただろ?俺が」

 「何度言われてもわからない。だって、私は誰かを好きになるなんて初めてだもの。そんな先のことまで、考えられない。

 和泉のことが好きで、一緒にいたい。今はそれしかわからないよ……」

 「俺は、お前にふさわしくないんだよ。

 以前俺がシてるとこ、見ただろ?軽蔑した顔で最低だって言ったの、忘れたのか?……俺は、ハッキリと覚えてるよ。

 どんな気持ちでどんな奴らと関わってきたのか、それも話しただろ?俺はああいう毎日しか過ごして来なかった。………お前は、それがどういうことか全然わかってない」

 

 見られた話は避けてきた。この話をしたらあの時の亜姫に戻ってしまうような気がして、忘れたフリをしていたのに。

 惚れた女に自分をこき下ろすことしか出来ないなんて、悲しさと情けなさしかない。けれど、自分に向けてくれた気持ちも含め、亜姫の全てをケガしたくなかった。

 自分がそばにいたら、綺麗な亜姫を汚してしまう。

 

 そして、なによりも。いつか来るであろう終わりの日を──亜姫が笑顔を失くす日を──和泉は恐れた。

 亜姫を手に入れた後でそんな日が来たら、絶望しかない。最初から手にしなければ、傷も浅くて済むだろう。

 

 「逃げんな、情けねぇ」と、ヒロの怒る声が聞こえた気がした。

 

 なんとでも言え、そうだよ逃げるんだ。

 どんな理由だろうが、自分のせいで亜姫が笑顔を失くすなんて耐えられない。

 

 けれど。

 

 亜姫が声を荒らげた。

 「そんなこと、和泉が勝手に決めないで!

 今、私は好きだって言った!ずっとワケがわからなくて、色々考え続けて、やっと答えが出て…今だってドキドキして恥ずかしくて死にそう。でも、一生懸命伝えた!なのに、そんな理由で無かったことにしないでよ!

 和泉がそーいう事してきたの、知ってるよ。見たのも覚えてる。だから何?

 私は、今ここにいる和泉に好きだって言ったの!そーいうことをしてきた、今の和泉が好きって言ったの!

 どういうことかなんて一生わかんなくっていい!どうでもいいよ、そんなこと!

 そっちこそ私の気持ちを無視しないでよ!和泉のバカッ!」

 

 亜姫は再び泣き出した。子供みたいにしゃくり上げ、それでも懸命に紡ぎ続ける言葉は、想像以上の重さで和泉にぶつかった。

 

 悩みに悩んでいることを、亜姫は「そんなこと」「どうでもいい」と簡単に蹴散らした。それには気持ちが大きく揺さぶられた。だが亜姫も和泉と同じく、まともな恋愛などしたことがないわけで。言葉通りに鵜呑みにしたら、お互い辛くなるだけだ。

 それをどう説明すべきか迷いつつ、亜姫の涙をそっと拭った。

 

 「気持ちは、すごく嬉しい。ありがとうな。

 ……無視してないよ。亜姫が真剣に伝えてくれたって、ちゃんとわかってる」

 

 亜姫が濡れた瞳を真っ直ぐ向けてくる。その姿に愛おしさを感じながら、和泉は優しく告げた。

 「お前が最低だって言った行為。ああいう関わりを持った相手が、学校中にいるんだよ?俺も人のこと言えないけど、碌な奴らじゃない。俺といたら、間違いなくお前も巻き込まれて傷つく。今よりもっと泣く日が来る」

 

 だが、亜姫はブンブンと首を振る。

 「今泣いてるのは和泉のせいだもん。その人達には何もされてない」

 「だから、俺のせいでそうやって泣かせたくないんだって」

 「違う!泣いてるのは、和泉が私の気持ちを無視するからだもん!

 どうして見ないフリして遠ざけようとするの?」

 

 亜姫は止まらぬ涙を何度も拭い、赤くなった鼻と目を真っ直ぐ和泉に向け続ける。とめどなく頬を濡らしながら、亜姫はひたすら言葉を紡ぐ。

 「和泉を好きだって、やっと気づいたの。

 和泉のことを考えたら、心臓が壊れそうなの。

 和泉が笑ってたら嬉しい。一緒にいたい。

 いつか泣く、いつか傷つく、って言うけど…何かあった時、一緒に考えればいいんじゃないの?それじゃダメなの?」

 「……え?」

 「一人で勝手に決めないでよ。二人の問題なんだから、せめて一緒に考えさせて……」

 

 亜姫が言うことは、目から鱗が落ちることばかりだった。

 

 一時はかすかな望みを持ったけれど、現実には有り得ないと思っていた。

 付き合うことも、過去を気にしないことも、過去ごと好きだと言ってくれることも。

 

 そして、考えたことがなかった。想像すらしたことがなかった。

 亜姫から遠ざけたいと必死に考えてきたことを、「二人の問題」「一緒に考えたらいい」と本人が苦もなく言い放つなんて。

 

 全てをどうでもいいと吐き捨て、今の自分を見てと亜姫は何度も繰り返す。

 泣きすぎてまともに喋れやしないのに、目を逸らすことなく懸命に伝えてくる。

 

 「泣いたら和泉が泣き止ませてよ。笑えなくなったら和泉がまた笑わせてよ。それぐらい、俺がしてやるって言ってよ。

 ……いいもん。和泉がしてくれなくたって、私は自分でそうする!自分で勝手に笑う!勝手に泣き止むんだから!そんな理由で拒否なんかさせないんだから!無かったことになんてさせないんだから!

 このまま、離れたくないの。………好き」

 

 最後の一言を小さな小さな声で言った後、亜姫はとうとう喋れなくなった。

 

 

 無言の空間にしゃくり上げる声だけが聞こえる。

 

 

 

 「亜姫」

 

 和泉は、亜姫の両手をそっと掴んだ。それを顔からゆっくり剥がしていく。

 泣きすぎて真っ赤になった瞳で、それでも力強く睨んでくる亜姫。

 その顔を見て、和泉の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。

 

 「お前って、すげぇ泣くんだな」

 「和泉の前でしか、泣いたことない…」 

 「こんな泣き方するんだな」

 「……私も知らなかった……」

 「思ったより気が強い」

 「私も…知らなかった…」

 「けっこう強引」

 「私も、知らなかった」

 「意外とすぐ怒る」

 「だから、知らなかったってば!」

 「ほら、すっごい怒りんぼ」

 「知らない!」

 「やたら強がりだし」

 「知らなかったって言ってるでしょうっ!もうっ!うるさいっ!」

 「ものすごく頑固だしな」

 「それは…時々言われる……」

 「そこは認めちゃうのかよ」

 

 亜姫は、泣きながらも律儀に返事を返してくる。その様子がおかしくて、和泉は声を上げて笑ってしまった。

 

 亜姫はつられて嬉しそうに笑ったが、すぐに気まずそうな顔に変わる。 

 「私、自分がこんなにワガママでしつこいなんて知らなかった。ずっと態度も悪かったし、ごめんなさい…。性格悪くて、もう嫌になっちゃった…?」  

 

 亜姫は、自信無さげにどんどん小さくなっていく。眉が下がり、また違う意味で泣き出しそうだ。

 

 「さっきまでの威勢はどこにいったんだよ?」

 和泉は再び声をあげて笑う。

  

 「ホント、亜姫には敵わねぇな……。

 俺、お前には一生勝てる気がしない」 

 

 彼は優しい笑みを浮かべると、亜姫の頬を両手で包みこんだ。

 

 「亜姫。俺は最低な男だよ?してきたことは勿論だけど、今みたいにお前を泣かせるし怒らせるし悲しませる。情けないとこを見せたりもする。

 嫌な思いだって沢山させるだろうし、いっぱい傷つけちゃうとも思う。

 でも。その分絶対に笑わせる。必ず一緒に考えるって約束する。

 こんな俺でも、まだいいって思ってくれるなら…彼女になってくれる?

 亜姫が好きだ。俺と付き合って。ずっと、そばにいてほしい」 

 

 泣き止みかけていた亜姫の顔がクシャッと歪み、目から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

 「うん…うん。……和泉のバカ、バカァァァッ……好き」

 

 亜姫は指先で和泉の服をキュッと掴んだ。その控えめな仕草がたまらなく愛おしいと思う。

 

 「もう泣くなよ。笑えって」

 和泉が、亜姫を優しく抱き寄せると。

 「だから、近すぎるってばぁぁぁ…………」

 亜姫は首まで真っ赤に染めながらアタフタする。しかし両手は掴んでいたシャツをギュウッと掴み直していた、まるで離したくないと言ってるかのように。

 

 そのチグハグな仕草にますます愛おしさが込み上げてきて、和泉は抱きしめる腕に力を込めた。

 

 「なぁ…今日、一緒に帰れる?」

 「うん」 

 「夜、電話していい?」

 「うん」

 「明日から、朝も一緒に行きたい」

 「うん」

 「明日は早く終わるだろ?そのあと、寄り道できる?」

 「うん」

 「亜姫」

 

 亜姫が腕の中から真っ赤な顔で見上げてきた。困ったような嬉しそうなその顔に、悪戯心が湧いた。

 「好きだよ」

 言いながら、額へ軽いキスを落とす。

 

 途端、亜姫は首まで赤く染めて口をパクパクと動かす。

 

 もう、和泉は全てが可愛くてたまらない。

 

 「亜姫」

 「もー、今度は何!」

 

 同じ事をされないようにしたのか、亜姫は額を隠しながら怒ったように返事する。その姿がまた可愛くて、和泉は再び笑ってしまう。

 

 「大事なことを忘れてた。電話したいから……連絡先、教えて」

 

 亜姫は一瞬目を瞬いて、それから声を上げて笑った。

 

 そして。この日初めて、互いの連絡先を知った。

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