第23話 心の中(1)

 保健室に入ると、保健医の綾子が用事で席を外すところだった。和泉の怪我が大したことはないと確認した後、手当を指示して自身が戻るまで冷やしておくよう伝えて出ていく。

 

 亜姫は、和泉のケガは自分のせいだと落ち込む。

 「私のせいで…。助けてもらったのにお礼も言わないままでゴメンね……ありがとう」 

 

 凹みながらもお礼や謝罪をきちんと口にして、一生懸命手当てしようとする。

 こういう素直なところがまた、どうしようもなく可愛いと思ってしまう。和泉は言われるまま亜姫に従い、大人しく座っていた。 

 

 「亜姫がケガしてないならいいよ、別に。大したことないし」

 「そういう問題じゃないよ。頭は怖いんだから」

 「そう思うならもう少し行動に気をつけろって。あのままだとお前に直撃してたんだからな?」

 「ごめんなさい…」

 ウウッと唸りながら、亜姫は素直に謝る。

 

 あー、可愛い。ひたすら可愛い。

 和泉がそんなことを思っていると。

 

 「わかる気がする」

 不意に亜姫が言った。

 

 和泉が訝しげにすると、亜姫は和泉を見つめて再度言った。

 「和泉が人に好かれるの、わかる気がする」

 

 和泉は突然言われたその意味がわからなかった。

 「いきなり、なに……?」

 

 動揺を見せた和泉に、亜姫はニッコリと笑う。

 「和泉は、すごく優しい」

 

 初めてかけられた言葉。和泉は耳を疑った。

 

 この子は一体、誰の話をしているのだろうか。 

 「優しい」という耳慣れない単語に、違和感しかない。

 目の前の純粋な子から紡がれたその言葉は、やたら煌めいた綺麗なモノとして自分の中へ落ちてきた。

 ソレは周囲を明るく照らし、自分の中にあるものがどれだけ醜く汚いのかをこれでもかと見せつけた。

 

 奥底に押し込んで見ないようにしていたモノを──見えないように隠していたモノを──強引に引きずり出された気になり、何故か怒りが湧いた。

 同時に、その綺麗なモノと自分の汚さのあまりの違いに……凄まじい衝撃を受けた。

 

 これ以上照らすまいと、全身がソレを拒否する。

 何に対してかわからない怒りが全身を駆け巡る。

 体のあちこちから、真っ黒でドロリとした何かが勢いよく滲み出してきた。

 

 「ハハ………なにそれ?そんなこと、一度も言われたことねぇよ。……誰も、俺の中身なんか見てねぇじゃん」  

 

 思いがけず、卑屈な言葉が漏れ出た。しまった……と思ったが、猛烈な勢いで流れ出る薄汚い何かに飲み込まれ、一度開いた口は止まらなかった。

 

 「俺は好かれてなんかいない。見た目に興味を持たれてるだけだ。中身なんて……俺がどんな奴かなんて、関係ないんだよ。

 俺だって人の中身なんか見たことない。見ようとも見たいとも思わない。そんなのどーでもいーよ、誰が何してようが。興味ないし。視界にさえ入らなければいい、俺には関係ねーし。

 ……俺はそうやって全て拒否して生きてきた。最低なヤツだよ、優しいワケないだろ。そんな感情……俺は、最初から持ち合わせてねぇんだよ」

 

 改めて口にすると、自分は心底ろくでなしだと感じる。気持ちが一気に下降して、自然と顔も下を向く。

 

 「そんなことない」

 

 和泉の事など知らない筈の亜姫。なのに強く断定されたことに驚いて、和泉は下げたばかりの顔を上げた。

 

 優しい眼差しを向けながら、亜姫は続ける。 

 「仲良しのお友達がね、和泉の大ファンなんだって。去年、その子がよく和泉のことを話してて。和泉と仲良くなった子もこれから仲良くなりたい子も沢山いるって聞いた。

 その中に、和泉の事を知りたいと思ってる人や優しいと思ってる人…沢山いたんじゃないかな」

 

 言われるまま、自分の過去を振り返ってしまった。が、そう思えるようなヤツらなんて当然一人も浮かばない。代わりに出てきたのは、なんとも言えない苦い気持ちだった。

 そもそも、思い出せるほど記憶に残るような人や出来事自体が無い。

 これらに和泉の気持ちはささくれだった。

 

 一気に過去へと引き戻されて、あの頃の苛立ちや空虚にまみれた感覚に支配される。

 

 「ハハッ…意味わかんね。何を聞かされたのか知らねぇけど、どう考えたってそんな風には思えねぇな、俺は。

 何も知らないクセに、勝手に綺麗事を押しつけてくんじゃねぇよ。

 大体お前に何が分かるんだよ、俺の何を知ってるっつーの?そうやって決めつけられんのが我慢ならねぇんだってわかんねぇ?……そーゆーの、すげぇムカつくんだよ」

 

 苛立ち露わに、亜姫へ冷たく当たってしまった。そんな自分にまた気持ちが荒れていく。

 

 だが亜姫の様子は変わらず、優しい笑みを浮かべたままだった。

 

 「確かに、和泉の事は友達から聞く話でしか知らなかったけど。でも今、一緒に仕事をしてて…私は和泉が優しいなって感じてる。

 それに、話を聞きながらよく思ってたよ。皆、何があっても和泉のことをずっと好きなんだなって。それが恋愛としてなのか人としてなのか、私にはわからないけど。

 女の子に対しても、酷い対応をしてたように見えちゃうけど。実際は和泉が願いを叶えてあげてただけで、誰かを傷つけたりはしていないと思う。

 実際に関わった人達、誰も和泉のことを悪く言わないんだなって思ってた。だって、山ほど噂があるのに…和泉を非難する話は一つも出て来ないもの」

 

 穏やかに話す亜姫の口から出てくるのは、和泉が初めて聞く言葉ばかりだ。

 しかし、耳に入るそれらは先程と同じで──あまりにも綺麗過ぎて──受け入れることが出来ず、それどころか反発や拒絶の感情が猛烈な勢いで噴き出してくる。

 和泉は必死で抗う感情の荒波に狼狽えた。

 

 最近は、色んな事を考えるようになっていた。知らなかった感情と向き合うことも増えた。ただ、その変化は…これまで頑なに閉じていた「新しい世界を知る扉」を開けていただけだと気づく。

 

 そして、亜姫のことばかり考えていたにも関わらず、亜姫は何を考えているのかと──その「心」を探ろうと思ったことが殆ど無いと気づいた。

 亜姫の気持ちを考えたのは、初めて会話した時──嫌われてないのだろうかと思った、あの一瞬──だけだ。

 

 ずっと考えていたのは、亜姫に絡めた「今その瞬間の自分の心情」だけだ。

 過去の扉を開いて「今までの自分」についてこのように考えたこともなかった。

 「固く閉ざされた心の奥底」をこじ開けるようなことも、一度もなかった。

 

 考えるまでもなく、ただひたすら自分は最低だったのだと……その一言で片付けていたから。

 

 今、開きかけたその扉を必死に閉じようとしている自身を感じて、そこは開けたくなかったのだと──見たくも知りたくもない、隠された感情があるのだと──初めて自覚した。

 

 それなのに、いや、だからこそなのか…自分でも気づいてなかったドス黒い感情が、意思とは関係なく次々と吐き出されてゆく。

 

 「だから、意味わかんねぇって…そんなことは有り得ねぇから。

 俺は…全て消えればいいって…生きてる意味なんて無いと思ってた。

 何もかもが鬱陶しくて面倒くさかった。

 毎日が…明日が来るのが……嫌で嫌でたまらなかった。

 だから、一番手っ取り早い方法で切り捨ててきたんだ。

 行為一つで俺の前から消えてくれるなら、楽だと思ってたよ。相手も内容も方法も、俺にはどうでもいいことだった。

 二度と関わんなって…たまに思うのはそれぐらいで。考えることすら放棄して、一方的に自分勝手にやってきたんだ。

 優しさなんてこれっぽっちもねぇよ。逆に傷つけてきたんだよ。

 けど、自分のしてきたことに嫌気はさしても…俺は女に対して罪悪感の一つすら持ったことないし、これから先も持つことはない。絶対にない。

 そもそも、何かを感じたことなんかなかった。

 俺には……………何も、無かった。

 感情も言葉も人と関わるのも…ただ邪魔なだけだった。

 そんな俺を優しいなんて思うヤツ、いるはずねぇだろ。万が一いたとしても、誰も俺にそんなこと求めてないって。そんなヤツ見たことねぇよ。

 誰にどう思われようが興味ないし、どーでもいいって言ってんだろ。今更そんなこと知ったって何も変わらねーし、意味ない。

 何を言いたいのか知らねーけど、余計なこと言って掻き回してくんな。放っとけよ、お前に関係ねーだろ」

 

 辛辣に吐き捨てられる、自分の口から出たはずの言葉。その内容に和泉自身が驚いていた。

 

 自分はずっとそう感じていたのかと、言葉にして初めて自覚する。

 だが、言葉の数々が腑に落ちる気持ちもあり、そうか自分はずっと怒っていたのだと──妙に冷静に受け止めた。

 

 途端、今までの自分や纏わりついた奴らに猛烈な不快感が湧き上がってきた。

 

 こんなに綺麗な言葉で塗り替えられる過去ではない。むしろ、言われたことで更に最低さを露見したのではないか。

 それは、この先も自分に深く刻まれて消せないものだ。

 そんな生き方をしてきたのは、紛れもなく自分なのだ。

 なのに……そんな自分にこそ何よりも腹を立てているのだと気づく。

 

 そして今更そんな過去をひどく後悔して──変わることばかり考えて、これらを全て無かったことにしようと──都合の悪いモノに蓋をして、見ようとしなかった自分に吐き気がした。

 

 その不快感は今までの比ではなく、今すぐ全てを破壊したい衝動に襲われた。その感情に溺れそうになるのを、拳をグッと握りしめて堪える。

 そうしなければ、掻き乱してくる亜姫にますます酷いことを言ってしまいそうだった。

 

 だが、そんな和泉を見ても亜姫は微笑み続け、静かに首を振る。

 「傷ついてる人がいるとしたら…それはきっと、和泉だけだよ。

 毎日のように沢山の人が近づいてきて、一方的に気持ちを押し付けられてる、って聞いてた。

 それを、全部受け止め続けてきたんでしょう?それじゃあ、誰だって疲れちゃう。

 どんな方法でもいいから全部消えてほしいなんて、よっぽどの事がなければそこまでは思わないんじゃない?

 和泉は優しすぎるんだと思う。どうでもいいって言いながら相手の願いは叶えてあげて、相手が納得して引いてくれるように自分が我慢して。

 人を傷つけても平気な人なら、最初から相手なんかしない。もしくは…もっとわかりやすく相手を傷つけて、あからさまに遠ざけるんじゃないかな。

 あまり話さないみたいだけど、時には怒鳴り散らしたりすればよかったのに。

 ………今みたいに、言えばよかったのに。皆も好き勝手言ってるんだもの、和泉も同じように言ったってよかったんじゃない?

 和泉、この間すごく楽しそうに笑ってたよ?見てる私まで楽しくなっちゃった。本当はあんな風に笑えるし、よく笑う人だよね。

 和泉が笑わないって言われてるのは、笑いたくなる環境ではなかったってことでしょう?

 でも、さっきから……和泉はずっと過去形で話してる。今はもう、違うんだね。

 女の子と関わるのをやめたって聞いたけど…少しは楽になった?」

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