第12話 2月(1)
「…あ」
下を覗き込んだ戸塚が漏らした声。隣にいた和泉が、その視線の先を追った。
彼らがいるのは昼休みの屋上。男数人でのんびりと過ごしていた。
最近は、今までの苦労が嘘のように穏やかな日々を過ごしていた。屋上の縁に腰かけてくだらない話を聞く、それは思った以上に安らげるひとときだった。
あの子に嫌われていた。そう自覚してから、和泉は変わった。
あの日、和泉はそれまでの自分を心底恥じた。
自覚した途端次々と襲い来る自責の念、恥ずかしさ、情けなさ。
加えて、これでもかと突きつけられたのは『自分には何もない』ということ。
いや…何もないと思っていたけれど、たった一つ持っていたものがあった。
それは、「諦めの気持ち」。
全てはこれが原因なのだと。
興味ない、ヤル気ない、全てムダ、何もかもいらない消えてほしい。
こう思いたくなる環境に居続けた、それは間違いない。
希望が持てない、それもしょうがなかったのかもしれない。
もしかしたら、これが元々持ちうる性格なのかもしれない。
でも。
あの子にあんな顔をさせた自分を嫌悪した。
またあんな目で見られるのはゴメンだ、と強く思った。
過去は変えられない。
あの子に嫌われていることも変わらない。
この事実は受け入れるしかない。どんな理由があれど、その生き方をしてきたのは自分なのだから。
だが、この先の自分を少しだけ変えること…それぐらいは出来るんじゃないか。
それを二人に話してみると。
「まずは、諦めるのをやめることから。今出来る事を探すところから始めてみよう」
そうアドバイスをもらった。
それを意識して過ごし始めると、小さな変化は簡単に訪れた。
皆がしている当たり前の事を…普通の日常を普通にすごす。
今まで出来なかった和泉には、その全てが新鮮に見えた。
女がいないだけで、こんなに過ごしやすくなるのか…。
改めて、何かと力を貸してくれるヒロ達に感謝する。
そして、そういう日常の中で一緒に過ごす人が増えた。男同士のサッパリした関係は居心地が良く、何をしてても──それこそ、ただそこに居るだけでも──それなりに充実した時間が過ぎていった。
あの子のことはあれからも思い出す。でも、あの子の顔が歪む前に消去するクセがついた。それでも時折り思い描く、一瞬の笑顔。それが自分の支えになっている。
あれから少し時間が経って、気持ちの整理もついた。今では、見るだけでいいと思う自分に満足していた。
そんな日々を過ごしていた、今。
視線を追った先に見える、グラウンドの手前にある階段。
そこに、男と寄り添って楽しそうに話しこむあの子がいた。
「何見てんの?」
一緒にいたヤツが同じように視線を追う。
「あ!橘がいる」
突然亜姫の名が出たことに驚き、和泉の心臓が小さく跳ねた。
「ウソっ、どこどこ?」
「あ、ホントだ。…男といるじゃん!仲良さそうなんだけど…まさか彼氏かな!?」
「マジかよ。だとしたらショックなんだけど」
一斉に騒ぎ出す様子に、ヒロと戸塚が驚きを見せる。
「お前ら、亜姫のこと知ってんの?」
「え?ヒロこそ、知り合い?何で呼び捨て?」
「俺と戸塚は、まぁ知り合いっつーか」
「えっ?橘と友達なの?なら、俺に紹介してくれない?」
「俺は、麗華ちゃん狙いなんだけど…」
矢継ぎ早に降り注がれる、興奮した声。珍しくヒロが混乱している。
「ちょ…待って、いや紹介とか無理だから。まず麗華がそんなの受け入れねぇよ。それより…お前らは何で知ってんの?接点なんか無かっただろ?」
すると、彼らは笑いながら言った。
「知らないのかよ?橘と麗華ちゃん、すげー人気なんだぞ。俺達どころか、狙ってるヤツらが沢山いる」
「えっ、マジ…?」
戸塚が唖然とする。だが、すぐ気を取り直して言った。
「いや、でもあの二人は無理だろ。麗華は男嫌いだし、亜姫だって…」
最後まで言わないうちに、彼らは言葉をかぶせてきた。
「そうなんだよなぁ。何人か麗華ちゃんに声かけたらしいんだけど、話す間もなく全員バッサリ切られてるって」
「それより橘の方だよな。そもそも男とあんまり話さないのに、番犬みたいに麗華ちゃんが張り付いてるから、近寄る隙が全くないんだよ。声かけたくてウロウロしてるヤツが沢山いるのに、橘も全然気づいてくれないし。ヒロ達、どうやって知り合ったんだよ?マジで羨ましいんだけど…!」
ヒロが驚きに目を見張る。
「えっ…亜姫ってそんなに知られてんの?麗華ならまだわかるけど…亜姫は派手でもないし幼いし色気ゼロだし、この学校じゃ特に目立たなくね?」
「麗華ちゃんは、まぁ…あの見た目だから普通に目立つよな」
「橘は、実際に関わった奴らがみんな惚れ込んじゃうらしい。誰もが口を揃えてベタ褒めで。誰に対しても態度変わらないし、性格いいし、とにかく全てが可愛すぎるって。
幼さと清楚な感じから大人しいかと思ったら、話しやすいし元気よくて明るいじゃん?いつでもニコニコと楽しそうにしてて、皆つられて笑っちゃうんだってさ。
年上とか色気ある女が好きってヤツでも、橘にはやられちゃうって話」
「先輩達でも狙ってる人、沢山いるよ。
橘に関してはマジ惚れのやつが多いからノリで騒ぎ立てたりしないんだよ、皆。密かにチャンス狙ってる」
「話す時のクセらしいんだけど、相手をとにかくずっと見つめてくるのがヤバイって。あれ、女でもドキドキするって聞いた」
「同性からも好かれてるよな。そもそも人の悪口言わないんだって」
「恋愛ごとに全然興味がないんだってさ。純粋すぎて、下ネタ系にメチャクチャ疎いらしい。女子もその辺をネタにからかって遊んでる。それに反応する姿がたまらなく可愛い」
「あー、それ、俺も見たことある。一緒にイジりたいって思った!あー、橘に自分だけを男として意識してもらえたら最高だよなぁ…」
「なぁ…でも…あれ、やっぱ付き合ってんのかな、さっきからやたら仲良さそう」
下を見ながら、一人が溜息をつく。
「相手誰だよ…あ、あれ。熊澤先輩じゃない?」
「マジ!?よりによって熊澤先輩かよ…じゃあ勝ち目ねーわ…」
落胆する彼らを横目に、ヒロ達は和泉の様子を伺う。
そばに座る和泉は会話に入ることもなく、例の無表情で携帯をいじっていた。
「いず…」
和泉に声をかけようとしたヒロは、聞こえてきた次の話に驚いて動きを止める。
「なぁ…熊澤先輩に彼女がいるって部の先輩が言ってたんだけどさぁ。橘のことだったんだな…」
「熊澤先輩なら橘も惚れるかぁ…あー、もっと早くに声かけてたら俺にもチャンスあったかな…」
すると、黙って聞いていた戸塚が口を挟んだ。
「それ、ただの噂じゃないの?和泉だって山程噂があるけど、ほぼ全部ガセネタじゃん」
「いや、これはホントだと思う。部長やってる先輩が実際に見たらしい」
「何を?」
「部長会議があった日、昇降口にいた二人を見かけたんだって。所々、会話が聞こえちゃったらしいんだ。
嬉しそうな声で大好きって言ってる相手に熊澤先輩もカワイイを連呼して…愛してる、可愛すぎてたまんないって言ってたって。
その後もさ、先輩が彼女を後ろから抱きしめて耳元で何か囁いてたらしい。そのまま二人寄り添って帰って行ったらしいよ」
「それ、もう確定じゃん」
この間、和泉は顔を上げることなく携帯を触り続けていた。
そこへ一人が声をかける。
「和泉!お前が相手した中に、橘と麗華ちゃんはいた?」
「……いねーよ」
「なんだ。せめてどんな乱れ方をするのか、知りたかった」
「純粋すぎんのと男嫌いが、ヤる目的で俺に近づくわけねーだろ。……その手の話には向かないんじゃない?」
和泉がボソッと呟くと、彼らは「それもそうか」と納得し話題は他に移っていった。
亜姫に性的な目が向かないように、和泉がさりげなく話題を変えたのだとヒロ達は気がついていた。
あれから亜姫のことを口にしなくなったが、和泉は彼女のことを忘れたわけではない。
そう確信した二人は、翌日亜姫の元へ向かった。
「あれ?ヒロ、戸塚。久しぶりだね」
「おー、亜姫。元気だった?」
「おっぱい、プルプルになったか?」
「うるさいな!今はまだ成長過程なの!」
偶然を装って会いに行き、亜姫を揶揄いながらしばらく雑談をする。
「あ、そういやお前、彼氏できたんだって?」
「……はぇ?」
亜姫が変な声を出した。麗華も琴音も驚きを見せて固まった。
「亜姫?私、何も聞いてないけど?」
「えっと……私……いったい、誰とつきあってるのでしょう………?」
おかしな返答にヒロ達が笑う。
「亜姫と熊澤先輩がつきあってるって聞いたんだけど?」
「……いつからつきあってるの?」
ポカンと口を開けた亜姫の、またおかしな答え。
ヒロ達は声を上げて笑った。これ、絶対違うだろ…と思いながら。
そして話を聞かされた亜姫は、部長会議の日に何があったか二人に説明した。
「スゴい、噂ってこうやって広がるんだねぇ」
「まさか妹の話だとは」
「でもお前、先輩と仲いいよな?こないだも、グラウンド近くの階段に二人でいただろ?」
すると、亜姫達は顔を見合わせて笑った。
「麗華も琴音ちゃんもいたよ、先輩のお友達も。あの日は、偶然会ったの。先輩と二人だったのは…皆が飲み物を買いに行ってた時かなぁ?その時はマリナちゃんが小さかった頃の写真を見せてもらってた。ホントにすごく可愛いの!」
「亜姫は先輩に懐いてるもんね、理想のお兄ちゃんだから。私も熊澤先輩は好きよ」
「お兄ちゃん?」
戸塚が確認するようにそう呟くと。
「うん。いかにもお兄ちゃんって感じでしょう?先輩って。私とマリナちゃんも似てるんだって。落ち着きがなくて危なっかしいって、よく叱られてるの」
亜姫はいつものように笑う。そこに恋愛感情は見えなかった。
◇
「───だって。全然つきあってないよ、あの二人。あの感じだとこの先もナイな」
戸塚が笑いながら伝えるが、和泉の反応は薄い。
「……へぇ……」
携帯から目を離さず、返事だけ一言。
その携帯をヒロが取り上げる。
「気になってたクセに。強がんな」
「……別に」
「素直になれよ。あれから亜姫の話聞きたがらねーけど、まだ好きなんだろ?」
和泉はゆっくりと顔を上げてヒロを見た。だが、すぐ視線を逸らして遠くを見つめる。
その目には、そこにいないあの子を映していた。
「好きだよ。でも、あの子はいつか誰かのものになる。それが今なのか先なのかってだけだ。そんで…その誰かは、俺じゃない」
「和泉」
「……見てるだけでいいって言っただろ」
「和泉。そんなこと言ってる間に、ホントに誰かに取られるぞ?この間の話、聞いてただろ?亜姫を狙ってるヤツが沢山…」
「戸塚」
和泉は続きを言わせなかった。
「誰が何をしようと俺には関係ない。…俺にそんな資格はないんだって何回言わせんだよ」
「でも、お前は変わった。今の和泉なら亜姫だって」
「ヒロ」
和泉は首を振る。
「それも言ったろ?過去は変えられない。
…付き合った人が誘われるまま誰とでもヤりまくるヤツで、関係を持った相手が学校中にいる。もうやめた、今はお前だけだって言われたとして……ヒロは、ソイツがこの先絶対に自分だけを見てくれるなんて信用できるか?過去の話だから関係ないし誰と関係持ってようが全然気にしない、なんて…本当に思えるか?」
「それは……」
「だろ?いいんだよ、自分が一番わかってんだから。あの子のことだけ大事にしてくれるヤツがそばにいるようになって、今みたいにずっと笑っててくれれば俺はそれで充分。二人とも、いつもありがとな」
和泉は哀しさをほんのり滲ませて笑った。
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