第10話 12月
「あー、やっと最近落ち着いてきたな」
「そうだな。俺、和泉が女を嫌がる理由がよくわかった……」
うんざりした様子のヒロ達に和泉が苦笑する。
「悪いな、色々」
「お前が謝ることじゃねーよ」
「しかし、あれには笑ったよね」
「なに?」
「集団プルプルおっぱい」
「あぁ……あれか、確かに。あいつらの襲撃くらう度に思い出しちゃったもんなぁ。俺、あれがなかったら乗り切れなかったかも。亜姫はやっぱり面白い」
「おっぱい、少しはプルプルになったかな? 先が長そうだけど」
戸塚とヒロの会話を、和泉は笑いながら聞いていた。
あの時聞いた話を、ヒロは直ぐさま二人に報告した。その時初めて「あの子」と最近知り合ったと伝えたのだが。
和泉はあまりに驚きすぎて携帯を落としたことにも気づかず、そのまましばらく放心していた。そして、初めてあの子が同学年で「橘亜姫」と言う名だと知る。
表情筋の話も彼女から聞いたのだと知り、驚きすぎて呼吸すら忘れた。
何かと絡まれる面倒を嫌い、和泉は普段からあまり出歩かない。もともとクラスが離れているせいもあって、亜姫と出会う機会は殆どなかった。その為、あまり現実味がなかった「あの子」。それが、急に身近な生身の女の子として和泉の前に現れた。
頭の中のあの子がリアルに色づき、生き生きと動き出す。
二人から亜姫の話を聞かされた和泉は、この日初めて「声を上げて笑う」という経験をした。
それ以来、三人で過ごす時は亜姫の話題が出る。和泉は彼らが語る話を楽しそうに聞き、どの話にも笑顔を見せた。
「お前、本当によく笑うようになったなぁ」
「和泉が笑う顔を見た奴はいない。もしも見ることが出来たなら、そいつは一生の幸運を手に入れる」
「なんだそれ?」
和泉が怪訝そうに戸塚を見る。
「知らない? 和泉があまりにも笑わないから出来た都市伝説」
「皆、和泉がこんなに笑う奴だなんて想像すらしてないだろうな。未だに学校じゃ能面だし」
「……つまらねーんだからしょうがないだろ」
「確かに。お前のあの環境じゃ笑う気にはなれねぇな。でも、想像してた奴がいるじゃん」
「誰だよ?」
「亜姫」
──イズミとやらも、きっと笑ってるんじゃない?
あんなにつまらなそうな顔してるのは、表情筋の動かし方が下手なのかも! イズミとやらこそ、誰かに笑い方教えて! ってオネダリしてみるべきだと思う!──
あの言葉を思い出し、三人で笑った。
「本当に笑ってなかったのにな」
「あの時、和泉は面白ければ笑うって教えたんだよ。そしたら、笑える人にそんなこと言うなんて失礼だったって反省してんの」
再び三人で笑い合う。
「なぁ、和泉。お前、初めて亜姫を見たのっていつだったの?」
「なんだよ、突然」
「ずっと騒動が続いてたしさ、そーいう話をちゃんと聞いてなかったじゃん」
和泉はしばらく黙っていたが、拒否は無理だと悟ったのかボソッと言った。
「入学式の翌日」
「えっ、そんな前なの? 何をしてた時?」
「帰る時、校門の前に立ってた」
「その時、どう思ったんだよ」
「覚えてねーよ」
「思い出せよ。お前、自分の気持ちをあんまりわかってないからな。色々整理すんのにもちょうどいい。順を追って、思い出したこと全部話せよ」
和泉は嫌がる素振りを見せていたが、しまいには観念して少しずつ話し出した。
皆でメシ食いに行ったの、覚えてる? あの時。昇降口出て歩き始めてすぐ、校門に立ってるあの子を見た。
何で見たのか? わからない。その時は、特に何とも思わなかった。
なんとなくそのまま見てたら、あの子が顔を上げた。俺達より後ろにいた誰かに向かって……笑ったんだよ、すごく嬉しそうに。で、そのままこっちに向かって走り出した。
その姿が全身で喜びを表現してるみたいに見えてさ……なんか、そこだけやたら眩しかった。
すれ違う瞬間、一瞬だけ顔を見た。
あの子は相手だけを見ながら走ってて……会えるのが嬉しくてたまらないって顔して、楽しそうに笑ってた。
あの時見たあの子の姿だけは、今でも鮮明に覚えてる。
そう話す和泉は、さも愛しいものを見ているような優しい顔だった。もちろん、本人はそんな事に気づいてないが。
ヒロが尋ねる。
「その時、お前は何とも思わなかったの?」
和泉は、記憶の底を探るようにしばらく考えていた。
「あの子が顔を上げた瞬間は……可愛いな、って」
「それだけ?」
「すれ違った時……こっち見ないかな、笑った顔を向けてほしい、って……思った、かな……」
「これまで、何かを気にしたり考えたりしたことが無いって言ってたよな? あれから、他に何か気になり始めたことは?」
「無い。そもそも何かに興味を持った事がない。むしろ、全て消えちまえと思ってた。女なんて特に。
だからあの時わけがわかんなくなって、お前らに相談したんだし」
「じゃあ、一瞬でも誰かを可愛いとかイイ女だと思ったりは? エロくてたまんねぇとか」
「だから、ないって。大体、女にそんな感情持つなんて有り得ない」
和泉は面倒くさそうに返事をする。しかしその意識は記憶の中にいる亜姫へ向いているようで、表情は和らいでいた。
しばし沈黙が流れる。
ヒロと戸塚は顔を見合わせて、それから興奮したように叫んだ。
「和泉! 一目惚れじゃねぇか、それ!」
「そうだよ! もう見た瞬間、好きになってるじゃん!」
「一目惚れ…………?」
「入学式翌日に、恋に落ちてたってことだよ!」
「半年以上経ってるのに、自分で気づかなかったの!?」
おいマジかよ、恋愛童貞過ぎ……とやいやい言う二人をよそに、和泉はあの日の亜姫を思い出していた。
───そうか。あの日、あの子の笑顔に落ちたんだ……。
あの子の笑顔が浮かぶ。そこにヒロ達から聞くあの子の行動や発言が重なり、ますますリアルな姿を形作る。それが愛しくてしょうがない。
そのまま、今まで見かけたあの子を記憶の中で追っていく。
………………あ。
そう思った時、ヒロの言葉がかぶさった。
「なぁ。それから実際に会ったことは? 目が合ったとか、すれ違ったとか」
「……………一回だけ。ある」
「お! どんな時だよ! 亜姫の反応は!? やっぱ笑ってたんだろ?」
笑わない亜姫とか想像できないもんな! という二人に、言いづらさを感じながら和泉は言った。
「……ヤッてるとこ。見られた」
「「……は?」」
二人がピタッと動きを止める。
「軽蔑した顔で睨みつけられて。最低、って……言われた」
二人は目を見開いたまま、和泉を見つめて動かない。
「あの時だけは、あの子……笑ってなかった」
「お前……なんでそれを先に言わねぇんだよ……」
「俺も……たった今、思い出した」
数秒の沈黙。
戸塚がボソッと言う。
「告白しないの? って聞こうかと思ってたんだけど……」
「しねーよ。……そもそも嫌われてる」
「お前……何してんだよ……」
「何でドアを閉めなかったんだ!」
二人から散々責められたが、今更後悔したところで自分のしてきたことが消えるわけではない。
あの時のあの子を改めて思い出してみる。
ハッキリ言われたあの言葉と、間違いなく自分に向けられた軽蔑の眼差し。
どんな子かを知ってしまっただけに、あの日の笑わない姿が──人に対してあんな言葉を吐くあの子の姿が──どれだけ有り得ないものだったのかがわかる。
その事実が、自分がどれだけ最低な事をしていたのかを物語っている。
そして、あの日そんな態度を見せられたにも関わらず──あの時それに対して何も感じなかった過去の自分と、今日まで忘れていた今の自分に──自分は心底どうしようもない人間なのだと思い知る。
自分は、欠陥まみれなのだと。
今更どうにもならない、最低な人生を送ってきたのだと。
そして、清らかさしか感じないあの子に──自分は最もふさわしくない人間なのだと。
今この瞬間、痛烈に自覚した。
「もともと、言うつもりなんかねーよ」
「なんで?」
「俺が、あの子につり合うわけがない」
「なんだよ、それ……」
和泉は彼らの戸惑う顔から目を背けた。
「俺のしてきたことは、一生消えない。俺みたいな奴が誰かと付き合っても、信用なんかされるわけがない。
俺も、信用してもらえるなんて思ってない。……思えない」
「和泉……」
「いいんだよ。つきあいたいとか知り合いたいなんて思ったこともないから」
「え……でもさ、亜姫が和泉を嫌ってるようには見えないんだけど?」
「口に出してないだけだよ。あの子が人に不快な態度を取るなんて想像できるか? それだけで俺がどれだけ嫌われてるか……お前らにもわかるだろ?
あんな顔させといて今まで忘れてたクソみてぇな自分に
あの頃、確かに何も考えてなかったけど……俺の頭ん中、本当に何も入ってないんだな。ほんと、どうしようもねーな……自分に呆れる」
はは……と乾いた笑いをこぼす和泉を、ヒロ達が泣きそうな顔で見つめる。
「見てるだけでいい。最初から、たまに見かけるだけでよかったんだ。あの子の笑った顔が時々見られるだけで、充分満足してたんだよ。
なのに、思いがけず色んな事が知れて……今は、信じらんないぐらい毎日が楽しい。
それは、お前らのお陰。だからそんな顔すんなよ」
二人の顔を見て和泉が笑う。
「こんな時に笑うんじゃねーよ。普段、亜姫の話を聞いた時しか笑わねぇくせに……」
ヒロの声が少し震える。
彼を慰めるように、和泉はまた笑った。
「俺さ、こんな毎日を過ごすようになるなんて想像もしなかった。俺には何もないって、投げやりで無気力な毎日だった。生きる意味なんかないし、今すぐ消えたいって思ってたんだ。
だけど。今は、人生そんな捨てたもんじゃねぇなって。お前らといて、ちょっとそう思ってる」
「このタイミングでそういうこと言うな。つい最近まで生きる屍みたいだったくせに」
戸塚が鼻声で悪態をつくと、その横でヒロが相槌を打った。
「しょうがねぇな。今日は俺らがメシ奢ってやるよ。ほら、行くぞ」
そう言ってくれる彼らに、感謝の気持ちがあふれた。
彼らのお陰で、自分は変われた。
あの子のお陰で、人生に彩りが出た。
いつの間にか、明日が来るのを楽しむようになった。
そして、いつものようにあの子が自分に向かって笑いかけてくれるのを想像して──それが軽蔑の眼差しに変化していくのをスローモーションで見た。
「最低……」
低い声で呟かれたあの子の声が、頭の中に何度も響く。
その映像に強い衝撃を受けた。
その瞬間、自分がどこかで──いつか本物のあの子に笑いかけてもらえる日を──望んでいたと気づいてしまった。
そんな日は来ないのに。
そんな資格、ないのに。
見てるだけでいい。今までも、何かを望むことなんてなかっただろ。
和泉は、また浮かんだあの子の笑顔を──その顔が歪んで「最低」と呟く前に──無理やり頭の中から消去した。
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