第8話 10月

 その日。いつもの日常を終えた和泉は、ヒロ達と近くの広場にいた。

 

「もう、ヤるの無理」

 前置きもなく、唐突に和泉が言う。

 

 二人が驚いて和泉を見る。彼は珍しく、携帯も出さずにただ前を眺めていた。

  

「なんだよ、いきなり。ヤりすぎたのか?」

「今度こそ枯れちゃった? それとも、とうとう飽きたとか?」 

 二人は冗談めかして聞いてみるが、和泉は違うと否定する。

 そして迷ったような素振りを見せ、しばらく何かを言い淀んでいたが……やがて覚悟を決めたように呟いた。

「俺……なんか、変」

「「は?」」

 戸塚とヒロは顔を見合わせ、再度和泉を見た。

 

「なぁ。ちょっと、聞いてもいい?」 

 和泉はそこで初めて視線を横に向け、まっすぐ二人を見た。

 

 和泉のこんな様子は見たことがない。彼らは黙って頷いた。

 

「萎えるようになった、って話。前にしただろ? あれから、どの女を前にしてもそうなった。代わりに別の女が頭ん中チラつくようになって……」

 和泉は、今までの話を二人にする。

 

「さっき部屋に入った途端、またあの子が浮かんで。女に触れられた瞬間、強烈な嫌悪感で吐きそうになった」

 それでも、何とか最後まで終わらせた。

「終わった瞬間、俺は何をしてんだって思って……」 

 そこまで言うと和泉は口を閉じた。話し終えたと言うより、自分の事がわからなくて困ってるように見える。

 

 しばらく考えた後、和泉はまた口を開く。

「今まで、何かを気にしたり考えたりしたことなんてなかったのに、何がなんだかわかんねぇんだよ。けど、あの子が俺の名前を呼んだり笑ったりして、そうするとなんだか変な気分になって……。

 ヒロみたいにヤりたいなんて思わねぇし、あの行為に興味や楽しさ感じたこともねーし。

 今はもう、行為そのものが無理。出来ない。女も無理、もう絶対ムリ。触られるって想像しただけで、マジで吐く。もう、絶対デキねぇ。なのに、あの子を思い浮かべるとそんな気分は消えて……。

 なぁ、やっぱり俺、どう考えてもおかしいよな? なんで急にこんな……マジで意味わかんねぇ……俺、一体どーなってんだ……」

 

 こんなに喋る和泉にも、心情を吐き出してくることにも、その内容にも驚きすぎて、二人はただ黙って和泉を見つめていた。


 逆に和泉は止まらなくなったのか、二人の反応を気にすることもなく独り言のようにブツブツ呟いていく。 

「女が嫌すぎてまさか男に? って線も考えたけど、ぜんっぜん違ったし。大体、ヤるのも女も考えただけで吐きそうだっつーのにあの子だけ何度も頭に浮かぶとか……これ、おかしくね……?」

「「っ、えっ?」」

「なんなんだよ、これ……」

 

 困り果てた顔でデカい体を丸めた和泉は、いつもより小さく見えた。

 

 ヒロと戸塚はそうっと目を合わせる。笑いがこみ上げてくるが、ここは我慢しなければ。 

「その理由に思い当たることはねーの?」 

「ない」

「本当にわかんないの?」

「わかんない」

「色々、ちゃんと考えたのか?」

「1ヶ月ぐらいずっと考え続けてんだよ、でも全くわかんない」 

 溜息をつく和泉に、ヒロが問う。 

「その子とヤりたいんじゃねーの? 妄想で抱いたりしてんだろ?」

「違う」

 和泉は即答した。しかし、そんな自分に驚いて動揺している。 

 何がなんだか分からないと固まる和泉に、ヒロは畳み掛けた。

「違わねーよ。その子とだけシたいと思うようになったんだろ?」

 

 和泉は少しの間黙っていたが、今度はハッキリした意思をもって答えた。

「違う」

「何が違うんだよ」

「……………笑うんだ」 

 そう言ったあと、和泉はしばし無言になり……頭の中を探るように考え込みながら、ポツポツと話し出した。

 

「あの子を抱きたいわけじゃない。現実のあの子にそのように考えたことはない。

 気づけばあの子のことを考えている。その顔は全部笑ってる。時々見かけるあの子も、いつも笑ってる。

 その顔を見ると『あぁ、今日も笑ってる』って思って……それで……でも、それだけで……」

 

 そこまで言って再び和泉は考えこむ。

 

 そこへ戸塚が優しく問いかけた。

「もし、その子と何か出来るとしたら。和泉はどうしたい?」

 

 また少し考え込んで、和泉は呟くように言った。

「俺に……笑ってほしい」

 

 それを聞いた二人は、とうとう笑い出した。

「お前、そこまで言ってて本当にわかんねーのかよ?」

「わかんねぇよ……だから聞いてんだろ」

 怒ったように言う和泉に、ヒロが言った。

「好きなんだろ、その子のこと」

「………………………………は?」 

 和泉は何を言われたか理解できない様子。

 

「だから。好きなんだよ、その子のことが」

「……………………………誰が?」

「お前が!」

「俺が……? あの子を? 好き……?」 

 和泉は見るからに混乱している。 

「おいおいおい、何その反応。今までに好きな女の一人や二人いただろ? 本当に気づかなかったのかよ」

 

 無言のまま俯き、固まる和泉。

 

「まさか……いなかった?」

「………女をイイと思ったことなんか一度もねーし。むしろ嫌悪感しか、ねぇ」

 面白くなさそうに、渋々といった様子で吐き捨てる和泉の声は小さい。

 

「ちょっと待って。えっ、もしかして和泉、恋したことないの? 誰かを好きになるの、まさか……初めて、だったり……?」

「………悪いかよ…………」 

 ブスッと不貞腐れた和泉を見て、二人は爆笑した。 

「お前、マジ!? この年で初恋!?」

「ウソだろ!? あんなにヤりまくりなのに!?」

「めちゃくちゃ惚れ込んでるじゃねーか! もっと早く気づけよ!」

「こんなに乱れた男が今更初めての恋だって!」 

 二人はしばらく笑いっぱなしだった。


 反対に、和泉は居心地悪く佇んでいた。

 恋なんて、考えたこともない。

 誰かを好きになんて、なった事が無い。

 女どころかそもそも誰かに……と言うより、何かに興味を持った記憶すらない。

 なのに突然そんなことを言われても、わかるわけがない。 

 ひたすら笑い転げる二人になんだか苛々したが、なぜイラつくのかすら経験のない和泉にはわからない。

 どうしようもないので、不貞腐れたまま『俺が、あの子を好き』という言葉を反芻はんすうしてみた。

 

 あの子を思い浮かべる。

 好き。

 

 すると、驚くほどピタッと二つが結びついた。

 

 あぁ、なんだ。俺は、あの子の事が好きだったのか……。

 

 胸の中のモヤモヤが一気に晴れた。

 あの子の笑顔が浮かぶ。

 頭の中で、あの子が自分に笑いかけてくる。

 それらを「嬉しい」と感じて、和泉はフッと頬を緩めた。

 

「あ! 笑った!」

「和泉、お前笑えるじゃん!」

「笑ってねーよ。面白くもねーのに」

 和泉は一瞬見せた顔を引っ込めると、いつものつまらなそうな顔に戻る。 

「バカだな。笑うのは面白い時だけじゃねーよ。嬉しいとか楽しいとか、笑う理由なんて色々あんだろ。今、何を考えてたんだよ?」

「……言いたくない」 

 ふいっと顔を背ける和泉を見て、ヒロが面白そうに笑った。 

「はいはい、どうせあの子のこと考えてたんだろ。バレバレだから白状しろ」

「っ!? なんで……っ?」

「全部、顔に出てる」

「えっ?」

「お前、そんなに色んな顔が出来るんだな。今の方が、俺好きだわ」

「俺も。怒ったり不貞腐れたり凹んだり……恋愛全然知らないし、意外とガキだよね」

 戸塚も面白そうに笑う。 

「うるせぇな。俺だって自分がどーなってんだか、本当にわけがわかんねぇんだって……」

 頭を抱えながら、和泉は呻く。

「でも、なんかスッキリしたかも。……ありがと」

 

 それを聞いたヒロ達はまた笑った。

 

「で? 何考えてた?」

「あの子が、俺に笑いかけてくれるとこ……」

 和泉が小さな声で白状する。

「あぁ、嬉しかったんだ? なるほど、想像して喜んじゃったワケね」

 ニヤリと笑うヒロ達。

 

 その感情を確かに感じていた和泉は反論出来ず。返事の代わりに二人を睨みつけた。

 

「なぁ。その子が誰か、わかってんの?」 

 ヒロの問いに、和泉は首を振る。

「何度か遠目に見かけただけ。一度だけ目の前ですれ違ったけど、一瞬だったから顔がなんとなくわかるぐらい……」

「可愛いよ」 


 和泉は即座に反応した。

「は? 誰のことかわからねぇだろ? 俺だって知らねーのに」 

 すると、戸塚はニヤリと笑う。

「知ってる」

「……………………………は?」

「すごく可愛いよ。俺、間近で見たことある」

「………誰の、話………………?」

「あの子だろ? 化粧してなくて目がクリッとしてたれ目がち。幼い雰囲気、細身で長身。スタイルがいい、可愛い子。

 眉ラインの揃った前髪に、さらっさらな黒髪ストレート。長さは胸ぐらい。いつ見ても笑ってて、やたら楽しそうな女の子」

 

 すると、和泉が飛び出しそうな勢いで身を乗り出した。なぜ知っているのかと驚愕の表情で固まっている。 

 その様子を面白そうに眺めながら、戸塚は言った。 

「和泉、自覚ない? かなり前から、いつもその子のことを探してたよ」

 

 和泉の目が更に見開いた。

 

 そう、ヒロと戸塚は知っていた。

 和泉が──「黒髪で笑顔の女」と口を滑らしたあの日よりも──かなり前から、時々何かを見ていたことを。

 人の出入りがある時や移動中、密かに誰かを探していることを。

 そして、視線を止めた先に必ず同じ女の子がいることを。

 

 それは、黒髪でいつも笑顔の女の子だった。

 

 和泉が何も言わないので、二人も聞かなかった。しかし、何かあるとは思っていた。

 まさか、こんな形で知ることになるとは思っていなかったが。

 しかしこの時、彼らは「その子」の情報を教えなかった。知り合った子が「その子」だと言うことも敢えて教えなかった。

 

 代わりに言った。

「とりあえず、女と関わるのはもうやめとけ」

「そもそも、なんであんな生活をしてたの?」 

 そう問う二人に、和泉はポツポツとこれまでの話をした。

 

 この時、和泉は自分の今までを初めてかえりみた。そして、自分の人生がどれだけ異常で彩りのないものだったのかを知る。

 そんな和泉に、二人は「これから変えていけばいい」と優しく笑いかけた。

 

 生活を変える上で一番の懸念。それは、相手をしなくなる事で異常につきまとわれる日々が戻って来ることだ。

 その対策を遅くまで話し込み、この日を境に和泉は女との関わりを完全に絶った。

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