第7話 9月(2)

「あ、抱き合ってる」 

 戸塚の声を聞いた途端、ヒロが窓に飛びついた。

「すげー、あんなとこで堂々と! あれ? ちょっと違うか……? あ、あれって熊澤先輩じゃん。相変わらずカッコイイな」

「わかる。あの男っぽさに俺も憧れる。あ、あの子……和泉! おい、和泉! ちょっと来い!」

 戸塚達が教室の窓際で騒いでいる。

 

 和泉は一瞬顔を上げたが、無言で携帯に目を戻した。

 

「来いって、いいから早く……おい和泉……あぁ、行っちゃった……」 

 だが和泉が反応しないのはいつものことだ。二人は気にすることなく話を進めていく。 

「あの子知ってる。隣の子といつも一緒で、二人とも可愛いよな」

「色っぽい方、好みなんだよなぁ。超美人。チチもエロい」

「俺は細い方。すげー可愛いんだよ、色気は全然ねーけどさ。顔見たことある?」

「ある。確かにあれは可愛い」

「あのサラッサラな黒髪が清楚な感じでさ。いつも笑っててその顔がまた可愛いんだよな」

 

 すると、和泉が携帯を触る手を止めた。

 ゆっくり顔を上げ、無言で二人を見る。だが表情は変わらず、何を考えているかは読めない。


 そんな和泉をヒロが興味深そうに眺める。

「すごく可愛い子達がいるよ、って話してんの。……興味ある?」

「……いや、別に」

「今度見かけたら、教えてやろうか?」

「……あぁ」

 

 またあの子を思い浮かべていた和泉は、またもや自分で気づいていなかった。いつものように「興味ない」と返事しなかったことを。

 

 夏休みに暇な時間が増えてから、気づけばあの子の事を考えている。

 何を考えるわけでもない。ただ、あの子の笑ってる顔が思い浮かぶだけ。

 だが女の相手をする時やふとした瞬間に、あの子に触れる姿を想像するようになった。

 

 優しく触れると、あの子が恥じらいながら見上げてくる。そして、可愛い声で自分の名を呼ぶ。

 

 それを考えると、胸の奥がざわつく。

 

 かと言って女を抱くのが楽しくなるわけではなく、むしろあの子のことを考える機会が増えた。そしてその間だけは、常に纏わりつく不快感が少し和らぐ。

 

 自分の気持ちは女や行為から日に日に遠ざかり、対比するようにあの子の事を考える時間は増していった。

 


 

 ◇

「最近の和泉、すっごく激しいんだって! 最近じゃ、行為後にやたらなまめめかしい溜息をつくらしい。それがまた色気を増幅させて、見てるだけで孕みそうなんだって」

 

 ブホッ!

 亜姫はまたもや飲んでいたカフェオレを噴き出して、激しくむせた。 

「イズミとやらの話……?」

「そうに決まってるでしょ」 

 涼しげに言う琴音を横目に、亜姫は涙目で汚したあちこちを拭く。

 

「いったい誰がそんな話をするの?」

 経験が無いからわからないけれど……自分が知らないところでそんな話をされるのは、あまりいい気持ちではないと亜姫は思う。

 

「和泉とシた子達が自慢げに話すんだよ、武勇伝的に」 

「……ねぇ、これまで聞いていたのは全部女の子からの話だったんだよね? 逆に、イズミとやらから出てくる話はないの?」 

 噂なんてそんなものかもしれないが、あまりにも一方的でプライバシーが無さすぎる。亜姫は、彼がどう思っているのか少し気になった。

 

「和泉は何も言わない」

「何も言わない?」

「そう。最初、断るところから始まるでしょ? それ以外、ほぼ何も話さないんだって。約束を守れって確認するぐらいで。

 普段から、どんなに纏わりつかれても話しかけられても殆ど喋らないらしいよ」

「普段も喋らない? 約束って、二度と関わらないっていう話?」

「そう。でも、あれだけ言い寄られてたらキリがないもんね。大量の女をさばくにはいい方法なのかも」

「わざと話さないようにしてる、って事?」

「うーん、そうでもない。和泉は男相手でも基本的に話さないんだって。笑わない男としても有名なんだよ」

 

 亜姫はあまりの衝撃に固まった。

「笑わない!?」 

「そう。和泉っていつも沢山の人に囲まれてるでしょ。なのに笑った顔を見た人が一人もいないの。それを見た人は……って都市伝説が作られちゃうぐらい。

 誰といても、バカやったり盛り上がったりもしないんだって。喋らないのも昔からだって。だから行為中に無言なのも当たり前だし、彼の方から何かが漏れることもない。

 噂がやたら広まるのはそのせいもあるかもね。言ったもん勝ちってことで、都合のいい嘘をつく子が沢山いるから。殆どが嘘だけど、和泉が否定しないから収拾つかなくなってくんだよね」

 

 亜姫は、以前見たつまらなそうな彼の顔を思い出した。楽しそうに笑う人達といた時も、その顔だった。

 

 笑わない? 笑えない? 笑いたくない?

 笑いたいと、思うことがない……?

 

「亜姫? あーきー?」

 

 何度も呼ばれて、ハッと我に返る。 

「何? 和泉が気になる? 亜姫もオネダリしてみたくなった?」

 琴音がからかうように言うと。 

「そうだね、オネダリした方がいいと思う……」

「えっ、亜姫? ちょっと、本気で言ってるの!?」

  

 驚く琴音達に向かって、亜姫は真顔で言った。

 

「いつも楽しそうな人達と過ごしてるなら、イズミとやらも本当は笑ってるんじゃないかな?

 つまらなそうな顔してるのは、表情筋の動かし方が下手なのかも! イズミとやらこそ、笑い方教えて! って誰かにオネダリしてみるべきだと思う!」

 

 呆気に取られた琴音達が、一瞬の間を置いてブハッ! と噴き出した。

 同時に、別の場所から豪快に噴き出す音。そこには二人の男子がいて、琴音達と同様に腹を抱えて笑っていた。

 

 ……誰? なに?

 

 亜姫が困惑するのをよそに、声をあげて笑い続ける彼ら。琴音が「あっ!」と声を上げると、それに気づいた二人と視線が絡んだ。

「ごめんね、聞くつもりはなかったんだけど耳に入ってきちゃって」

 

 笑ったままの彼らは、キミ面白いねと言いながら自己紹介をしてきた。

 

 戸塚とヒロ。

 

 同じ学年だけれど離れた教室にいる彼ら。今はたまたま用事があってここにいたらしく、和泉とは同じクラスで仲良しらしい。

 盗み聞きしちゃったお詫びに、と彼らは教えてくれた。 

「口数少ない奴だけど、意外と話はちゃんと聞いてるんだよ。俺達もまだ見たことないけど、面白ければ和泉は笑うと思う」

 

 そして、彼らはまた笑い出した。

「表情筋の鍛え方を教えて、ってオネダリするよう言っとくよ」

 

 なので、亜姫もオネダリしてみた。

「笑える人にそんな事を言うのはとても失礼だったから、この話はどうか聞かなかったことにしてほしい」

 と。 

 

「亜姫! でかした!」

「何が?」

「ヒロと戸塚もすごく人気あるんだよ! まさかお知り合いになれるとは!」 

 ウキウキする琴音を横目に、亜姫は思った。

 

 偉そうにあんな事を言うなんて、申し訳なかったなぁ……。

  

 そして、つまらなそうな彼の顔をまた思い浮かべる。

 ヒロ達はすごく楽しそうに笑ってた。彼らと一緒にいたら、イズミとやらも笑うことはあるんじゃないだろうか。

 なんとなく、ヒロ達と笑う姿を想像して……亜姫は一人でフフッと笑った。

  

 

 

 ◇

「あー、マジで笑った」

 戸塚とヒロは教室に戻りながらまだ笑っていた。

 

 聞いたのはほんとに偶然で。まさかあんな話を聞くなんて、思ってもみなかった。

 

「なぁ。あれ……あの子だよな?」

「だな。近くで見ると、想像以上に可愛い」

「あんな子だとは思わなかったけど!」

 そう言ってまた二人で笑う。

 

「あー、ダメだ。しばらく思い出し笑いしそう。笑いすぎて腹が痛い」

「なぁ、面白いことになりそうじゃない?」

「……だな」

 二人はお腹をさすりつつ、ヒソヒソと話しながら教室へ戻る。 

 そこには、いつもと変わらないつまらなそうな和泉がいた。

 

「ねえ、和泉。ちょっと笑ってみて?」

 

 突然の質問を、和泉は無視した。

 

「いーから、笑ってみろって」

「無理」

「お前、表情筋鍛える練習しろ」

 和泉は、無表情で二人を一瞥する。

「笑ったら、いいことあるかもよ?」

「……意味わかんね」

 和泉は興味無さそうに携帯へ視線を戻す。すると戸塚が言った。

「黒髪で笑顔の女の子と、今、お知り合いになってきた」

 

 和泉の動きが止まる。

 

「すっごく、可愛かった」

 

 和泉は携帯を眺めたまま止まっている。

 

「和泉、前に黒髪で笑顔の女がどーこー言ってただろ? ……会ってみる?」

 

 和泉は戸塚を見た。そのまましばし固まり、

「……興味ねぇよ」

 そう言うとまた携帯を触りだし、もう戸塚達の話には反応しなかった。

 

 黒髪で笑顔の可愛い子。

 戸塚の声に、あの子の顔が浮かんだ。

 

 会ってみたい。

 

 一瞬だけ、確かにそう思った。

 でも。

 黒髪で笑顔の女、そんなの山ほどいる。

 

 あの子のわけがない。そんな偶然、あるわけねーだろ。

 

 気まぐれに特定の女と会ったりしたら、また面倒が増えるだけだ。もうこれ以上、女と関わりたくはない。

 

 頭の中に浮かんだ笑顔を、会いたいと思った気持ちごと消し去った。

 どうせまた、いつものつまらない日常が繰り返されるだけだと諦めて。

 

 この時、和泉はやはり気づいていなかった。その子の事を、頭から無理矢理消し去っているということに。

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