19話 暗雲は王宮の頭上に
王宮の一室、ハンス皇子の執務室――と言っても、酒や女性の香水の匂いが漂っているが――には、皇子と執務官の姿があった。
『プラチナドラゴンの仔が王宮に戻って来た』
それは、ハンス・ヴィイ・ヴォーハルト皇子にとって、久しぶりの朗報と呼べる類の知らせだった。
ミルカを北方辺境まで送り、プラチナドラゴンの仔を連れ帰った執務官の報告を聞き、ハンス皇子はほんの僅か表情を緩めた。
「プラチナドラゴンの様子はどうだ? 虐待の痕や、傷跡はないか?」
「いえ。北方辺境の蛮族どもも、プラチナドラゴンの仔には手は出せなかったようです」
「そうか。しかしミルカの奴、腹いせにドラゴンの仔を誘拐するなど……! ずる賢い女だ」
「い、いえ……」
執務官は口ごもりながらも、皇子に告げた。
「……私はあの女と共に北方辺境まで参りました。彼女がプラチナドラゴンの仔を連れている素振りはまるでなく、むしろドラゴンの仔が追いかけて来たものと思われます」
「はあ? おい、あの女の虚偽だらけの言い分を信じるのか? そんなもの、ドラゴンの仔をそそのかして、後をついて来させたに決まっているだろう!」
皇子はイライラと歩き回りながら、
「あの女のやりそうなことだ。ドラゴンについて少し知識があるからって、王族より偉いかのように振る舞うんだ。私がどれだけ煮え湯を飲まされたか」
「……」
「全く気に入らん! アールトネン家に行けば少しは金目のものが残っているかと思ったのに、壁紙さえ剥がされている有様だ。どれだけ使い込んだんだ、あの女は! 浪費家で計画性がなく、思いやりにも欠けている! あんな女と婚約していたのかと思うと虫唾が走る!」
執務官は皇子の癇癪を聞き流しながら、皇子の後ろで人形のようにちんまりと座っている娘、アンナに目をやった。
華奢な肢体を流行のドレスに包み、召使が差し出す銀盆から、砂糖菓子を一つ摘み上げる。
形の良い唇が、ぞっとするほど甘い声を紡いだ。
「ああ、何て偉大なハンス様。いつも休まずこの国のことを考えていらっしゃるのね」
「アンナ……! ああそうとも。父上と兄上が戦場に行かれている間は、この私が国を守らなければならないからな」
アンナはその笑みをぴくりとも動かさず、誰にも聞こえぬよう呟く。
「戦場? 内乱の鎮圧でしょう。それも一か月以上かけた癖にまだ鎮圧できないなんて、大したご家族だこと」
それから華やかな、甘えたような声を繕って、
「たまには息抜きをしなければ気が滅入ってしまいますわ。ねえ、私と一緒に、今度の舞踏会で着るドレスを選んで下さらないかしら?」
「ドレスか。そ、そうだな、一緒に見てみよう」
執務官は気づかれぬよう嘆息する。
アンナは、ハンス皇子がどこからか見つけて来た、庶民の出の少女だ。
庶民らしく慎ましい金銭感覚をしているのかと思いきや、王宮に入った途端、湯水のように金を使い始めた。
いかにも人畜無害という顔をして、馬鹿げた金額のドレスや宝石を気軽に買ってしまうので、ハンス皇子の懐はもはや空っぽだった。
だから、アールトネン家の家探しなどという、なりふり構わない行為に出たのだ。
結果は芳しくなかったが。
と、執務官の後ろで扉が乱暴に開かれる。現れたのはドラゴン舎を守る衛兵だ。
腕に包帯を巻き、頬にも血のにじむガーゼが当てられている。
「皇子! いつになったらドラゴン舎の飼育人がやって来るのですか!」
「騒がしいぞ! 今手配していると先週も言っただろう!」
「ですが、誰も来ないではありませんか! ハンス皇子が、アールトネン家の飼育人を追い出してしまわれたがゆえに、今ドラゴンの面倒を見られる者は誰もおりません!」
「ドラゴンなど、適当に肉を与えておけば良いだろう」
「犬や馬のようには参りませぬ。適当に肉を与えればこの通り、攻撃されてしまうのです!」
ドラゴンは気難しい生き物だ。
投げるように与えられた餌を食べたがらない個体もあれば、自分のことをよく知っている飼育人に、手ずから与えられるのを好む個体もいる。
そういった微細な特徴を見分けることのできるアールトネン家の飼育人は、皇子によって解雇され、呼び戻そうにも行方が知れない状態だ。
仕方なく衛兵たちが餌をやり、糞便の掃除をしようとするのだが、気が立っているドラゴンたちは、彼らに容赦なく襲い掛かる。
ドラゴンは王族の所有物であるので、衛兵たちは下手に応戦できず、怪我を負う一方だった。
「このままではドラゴンたちが暴れ出しかねません。国王陛下に上申致しますぞ」
「じょっ……上申だと!? ふざけるな、ドラゴンは私が管理しているのだぞ!」
「その管理が不十分ゆえ、上申させて頂くのです!」
「馬鹿を言え!」
ハンス皇子が吼える。
「王宮のドラゴンはみな全て、私の管理下にある。国王陛下がそうお定めになったからだ。それはつまり、国王陛下は私を次の皇帝にしたいとお考えになっているということ」
ゆえに、と語調だけは雄々しく、ハンス皇子は告げた。
「上申などまかりならぬ。……三日待て。飼育人を手配する」
「三日ですぞ。それ以上は待てませぬ」
「分かっている。私を何だと思っている。ドラゴンには何度も騎乗し、さらに『あの日』には名誉ある傷を受けたのだぞ」
「まあ! 『あの日』ですわね!」
アンナがうっとりと呟くのを聞き付け、ハンス皇子は鷹揚に笑った。
「王宮に野生のドラゴンが現れて、王妃様たちのティータイムを荒そうとしたあの日。確かハンス皇子はまだ十の子供だったのですよね?」
「ああ。だが幼くとも心は既に騎士であった。母を襲う不埒なドラゴンの爪から、身を挺してお守りしたのだ!」
「まあ! なんて勇敢なのでしょう。なんて男らしいのでしょう。うっとりしてしまいますわ」
調子の良いアンナの合いの手に、ハンス皇子は胸を張った。王族も、女のおだてには弱いものだ。
アンナは柳のようにしなやかに立ち上がると、皇子の背中にそっと抱き着いた。
「ああ……。いつかその傷あとを、このアンナに見せて下さいましね?」
「う……うむ、無論だ」
どこかぎくりとした表情になった皇子だったが、すぐにいつもの軽薄な表情を取り戻し、アンナの細腰に手を回した。
既に二人の世界に入り始めている皇子とアンナを見、執務官は聞こえぬほどの小声で独り言ちた。
「あの女が――ミルカ・アールトネンがいた時の方が、よほどましだったかも知れんな」
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