26 最後の夜、初めての朝

 五分がすぎると、スラリンガンの呼気が停止した。仮死状態に入ったのだ。灯りひとつの避難小屋の中で息をしているのは、ボクとマサメだけになった。

 しかしマサメはあどけない少女のような顔で熟睡している。おこすのはしのびない。このまま朝まで眠らせてやりたい。けど……だけど、朝がきたらユーパイプ作戦が待ったなしで動きだす。照明や撮影機材の準備に最終リハーサル。そして生本番……。

 クリスマスイブの夜から年をまたいだこの数週間、シャワーやトイレを使うとき以外は、片ときもはなれたことがなかったマサメ。二度と会えない彼女に思いをつたえたい。二度と会えない彼女に、ボクは……。

 目を閉じて寝息をたてているマサメ。彼女はまるで眠れる樹海の美女。いや、まるで、まるでさ、彼女のくちびるはボクのくちづけをまっているかのようで……違うよな。ボク、ボクの一方的な思いに過ぎないよな? マサメ……。

「──おいサトル、なにしてんだ?」

 いつの間にかボクは泣いていた。涙のしずくを彼女の頬に落としていた。そのせいでおこしてしまったようだ。なんだかマサメまで泣いているみたいに見える……て、おい! 顔が近い! ボクは知らぬ間にマサメのくちびるに自分のくちびるを重ねようとしていたのだ! 

 いや、まって! 違うんだ! これは違うんだ! 事故だ、事故! 動揺をかくせないボク! 最悪である。彼女の大きな瞳にボクのマヌケづらがうつっていた。

「すまない……つい、その」

「不意うちやだましうちは好かないな」

「はい!」

 ボクはマサメの前で土下座した。

「キスをするのなら堂々としろよ」

「──へ?」

「こんな形でしたら、ぶっ飛ばすからな」

「うん……」

「日本の女はどうだか知らないが、ミノウタスの女を軽く見るな!」

「軽くみたわけじゃないよ」

「ふん、どうだか……」

「本当だって!」

「だいたい誰かが目をさましたらどうする? 恥ずかしいじゃないか!」

「そうだね」

 マサメはボクらふたり以外、全員が仮死状態になっていることを知らない。

「外にでないか? サトル」

「え? 外はかなり寒いよ」 

 まだ一月のなかばすぎなのだ。

「だったらあんたがあたためてくれよ」

「あ、え? はい。うん」

 よろこんで……。

「とにかく頭だけは冷やそう。な?」


 毛布一枚をもって避難小屋をでたボクとマサメは、シンと澄みきった夜の冷気につつまれて、コケだらけの大地にならんで横になった。鋭くえぐるような三日月がうかび、数えきれない星々が天空を埋めつくしている。そして見たことのないほどの数の流れ星が、とんでもない速度で横ぎっては消えていった。願いごとをとなえるいとまはまるでないが、素晴らしい天体ショーである。とてつもなく寒いんだけどさ。

「サトル」

「うん?」

「科学的好奇心なんだよな?」

「なにが?」

「私と初めて会ったとき、私を宇宙人エイリアンだと思って逃げようとしたじゃないか」

「ああ……そりゃ驚いたよ。マサメはボクの中にあった常識や人間観をはるかにこえていたからさ」

「だからさっきのは、常識をこえた未知の宇宙人と地球人がキスをしたらどうなるんだろう? あれは、そんな科学的好奇心のみの行動なんだよな?」

「違うよ!」

「じゃあなんだよ? あの行為は」

 あれは……あれはたぶん………。

「……たぶん性欲だ」

 顔をしかめて舌打ちするマサメ。

「はあん、いちおう人間の女だと認めてくれてはいるわけだ」

「あたりまえだ。ずっとそう接してきただろ」

「まあな。けどさ、性欲ってなんだよ。ほかにいいようがあるだろが?」

「そうだね、悪かった」

 確かに。では愛しているから、とでもいえばよかったのだろうか? けれどボクは、美晴に対してくり返しいって(いわされて?)いた「愛している」なんてお題目をとなえるようなまねをしたくなかった。そんなうわっつらだけの言葉が最終的には美晴を傷つけることになったのだから。でも、ならば心からいとおしいと思う人に対しては、どういうのが正解なんだろうか? 

「なにむずかしい顔してるんだ?」

「うまい言葉が見つからなくて……」

「童貞でもあるまいし。ミハルとつきあってたんだろ?」

「あれは、向こうから戦車みたいにずんずんきてくれたからさ」

「……情けない男だな」

「ボクもそう思う」

 また星がいくつか流れた、ヒュンヒュンと。ロケーションだけは最高にロマンチックなんだよね。会話の内容はあれだけど……。

「サトル」

「うん?」

「あしたでおさらばなんだぜ。うまいこといわなくていいからよ、贈る言葉くらいきちんとくれよ」

 後頭部が張りだしているせいで、顔を横に向けたマサメが、ボクの目をじっと見つめていった。あしたでおさらば……ボクはまた泣きそうになる。

「マサメ……」

「なんだ?」

「なんなんだろうか?」

「は?」

「──離したくない! ずっとマサメを!」

 ボクはたまらずマサメを抱きしめた。心から心から、強く抱きしめた。彼女は抵抗も反撃もしなかった。ただボクの腕の中で呼気を少しばかり荒くしていた。

「ちゃんといえたじゃないか……サトル」

 マサメの口の動きがボクのほおをくすぐる。

「マサメ……」

「大好きだ、サトル」

 今度こそボクたちは唇をかさねあわせた。そしてボクは……。

「──ちょっとまて」

 マサメは片手でボクを押しもどした。性急すぎた? ボクは少し恥ずかしくなり、彼女の顔をまともに見ることができなかった。

「スラリンガンの防護スーツを着ているんだぜ。変なスイッチが入ったら死ぬぞ、サトル」

「あ、ああ……え?」

 マサメはストリート系の衣服を取り、ついで防護スーツを脱ぎすて、一糸まとわぬ姿でボクの前に立った。ボクは思わず目をそむけてしまう。

「サトル。三日月の光だけで暗いけど、ちゃんと私を見てくれよ」

「え?」

「ちゃんと見て、私を忘れるな……忘れないで……」

 マサメの大きな瞳からみるみるあふれだす涙。ひざをついた彼女をボクはふたたび抱きしめた。

 忘れない。忘れようったって、そんなの無理だよ。こんなに愛おしい女を忘れられるわけがない。ボクは懸命にうなずく。なにかいおうとしても嗚咽しかでてこないのだ。

「初めてなんだ……ちゃんとリードしてくれよ」

 ボクの耳もとでささやくマサメ。いったいぜんたいどうなってるんだ! いちいちなにもかもすべてが、もんどりうつくらいにかわいい! ボクは涙をぬぐい、返事のかわりにやわらかくキスをした。


 満天の星空のもと、ボクとマサメは一枚の毛布にくるまり、素肌をよせあっている。このまま死ねたらしあわせなんだろうな……なんてことをつい思ってしまう。しかし幸福に酔っぱらっているばかりではいられない。ボクは重ねあわせとゆらぎ、スラリンガンの語った未来の観測についてマサメに話した。

「むずかしいな」

「うん、むずかしい。ブラックホールやワームホールみたいなスケール感はないけど、小さなしあわせを守るってことはむずかしい」

 ボクは心からそう思った。

「サトル」

「うん?」

 ボクの胸のあたりでマサメがつぶやく。

「いつから私を好きになった?」

 そんな話がはじまるの? でもいいか? マサメとは今夜、なにもかも一生ぶんを話しておきたい。

「どうだろ……青森の刑務所を脱走したあたりかな? 相楽さんが殺されて、ボクも殺されかけて、マサメだけはどうしても死なせてたまるかって切実に思いはじめたのは。それからだよ、いつの間にか……」

「なんだ、つり橋効果か? だったらかん違いかもしれないぞ」

「違うって!」

「ムキになるところが怪しいな。本当はあしたでやっかい払いができて嬉しいんじゃないか?」

「なぐるぞ、マサメ」

「あんたの手首が脱臼してもかまわないならな」

「バカ。骨密度も体力も衰弱しはじめているのを自覚してくれ!」

「だよな。だけど大声は禁止だ、心臓に悪い。日本語にもあるんだろ? 秘め事ってさ」

 マサメはボクの口に人差し指を一本、そっとおいた。

「そうだね。ってかそうだ。マサメこそどうなんだよ?」

「なにが?」

「いつからボクのことを、その……好きになってくれたんだ」

「最初に大学の研究室で会ったときからかな。まあ、一目ぼれだ」

「それは嘘だよ。いきなりボクを片手でつかみあげて天井へたたきつけたくせに」

 あんなのまるで未体験ゾーンだったよ!

「そっか。じゃあ、その十分後ぐらいかな?」

「嘘、嘘。あのあとだってバカは死ななきゃなおらないとか、バカにつける薬はないなんて、ひどいこといってたくせに」

「あんただから、安心していえたんだ。心を許せる相手にしかいえないセリフだろ?」

「わけがわからない」

「それは私のセリフだよ……右も左もわからないこの時代に、突然ほうりだされた私がどれだけ不安だったかサトルにわかるか?」

「初めからずいぶんと自信満々に見えたけど」

「不安すぎたから虚勢をはっていたんだよ。日本人ならそのくらいさっしろよ」

「……普通、むずかしいと思うけど。まあ、いきなり百年前の時代に跳ばされて、スーパーな力持ちになっていたら驚くよな」

「ああ。だけど、サトルはやさしかった」

「そうかな?」

 あのときは、マサメの存在自体におびえていたただけなのかもしれないが。

「少なくても、あの時の捨て猫みたいな私をサトルは見捨てなかった。どれだけ嬉しかったかわかるか? ごちそうしてくれたインスタントラーメン、どれだけうまかったか、サトル、わかるか?」

「あんなの……」

「初めからあんたしか頼れるやつはいないといっただろ?」

「うん」

「頼っちゃったよ。ほら、あれだ。小鳥が初めて見た動くものを親だとかん違いするみたいな習性? 本能かな?」

「マサメ……つり橋効果よりたちが悪いじゃないか? それって原始的な刷りこみ効果だろ! ボクじゃなくてラジコン自動車でもホレたんかい! それ以前にボクは親か?」

 あははは! ボクらは大声禁止のことわりも忘れて、毛布の中で体をからめて笑いころげた。ひとしきり笑ったあと、マサメがこうつぶやいた。

「──私、このままこの時代に残るかな」

「え?」

 そうなればこんなに嬉しいことはない。けど……だけど……。

「そのうち骨からはカルシウムが流れだし、筋肉もどんどん減って、自力では歩けなくなって寝たきり、やがて衰弱死するのか……たまらないな。その上、図体ばかりでかくて大食らいときてる。やっかいな女だよな……でも、そんなことになったらサトル、死ぬまで介護してくれるか?」

「いいよ」

 ボクはマサメの頬に手のひらをあててうなずいた。

「──冗談だよ。あんたにしもの世話なんてされてたまるか。それこそ死にたくなるよ」

「…………」

「そんな顔するなよ、サトル。私はあんたとこうなれて本当によかったと思ってるんだ。そんなしかめっつらされてたら、ひとりでフワフワしてる私がバカみたいじゃないか」

「ボクだって反重力ブーツをはいてるみたいにウキウキ、宙をういてるよ」

 ボクはあかるくいってみた。マサメのそばにいつまでもいたい。けれど……まてよ。そうか、ボクが未来へいけばいいんだ!

「あはは。サトルがあのブーツをはけるのは二、三十年も先の話だ」

「スラリンガンに頼んでみるよ。ボクもマサメと一緒に──」

「それはダメだ!」

 シャッターをおろすようにいいはなつマサメ。

「なんでよ?」

「……家族や仲間が大勢、死んだといっただろ? みんなを踏み台にして私は生きのこったんだと何度もいっただろ?」

「……それは違うと何度でも思うけど。死んだ人たちが踏み台になったのだとしたら、みんながマサメを守りたいと願ったからなんだよ、ボクはそう思う」

「そうなのかな?」

「そうさ。ボクだって誰よりも、なによりもマサメを守りたい」

「だったらなおさらダメだ。未来にいけばサトル、いの一番で死ぬぞ!」

「……いいよ、それでも」

「いいわけないだろ! あんたの死にざまなんか見て、私が生きていられると思うのか! どんだけバカなんだ! 大学の雑用係でもなんでもいい。サトルがどこかの時代でがんばって生きている、そう思えなきゃ私だって!」

「マサメ……」

「……ありがとうな、サトル」

 毛布をはいだ裸のマサメは立ちあがり、防護スーツを着こみはじめる。星々にかこまれ、夜空にぽっかりとうかぶ新月を抜けだしたばかりの三日月の前にすっくと立つ長身のマサメは、ちびりそうなくらいカッコいい。

「話したよな? あの月はさぁ、私の時代じゃブラックホールの強い重力に飲みこまれて三分の一は消えてなくなっているんだ」

「ああ」

 わかってる、以前にも考えたことである。月からの引力が減少したなら、地球の自転が早く、つまりは高速回転に切りかわるだろう。一日が一時間なんてことにもなりかねない。強風や熱波、冷気、重力波が常に吹きあれ、とても生物が住める環境ではなくなり、地軸もねじ曲がるに違いない。マサメのいう通り、人類は死にたえる以外、ほかの選択肢をうしなうだろう。

「明日のユーパイプでの動画配信は命をかけてもいいくらいに大切なんだ。私はもう寝る。あんたも寝不足じゃ、お母さんを守れないぞ」

 避難小屋へとゆっくりさりゆくマサメ。そして、マサメとボクの最初で最後の夜は、星のまたたきを徐々に消しさりはじめ、白々と明けていった……。

                          (つづく)

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