22 好奇心は猫をも殺す
スラリンガンの案内でボクらが少し上流の川辺で見せられたものは、マサメが初めて現れたときと似た、うず巻くように空間がひしゃげている直径二十センチほどの光をはらむ次元の裂け目であった。
「これが……ワームホール」
腰をぬかさんばかりに目をむいている山村刑事。それに美晴。
「ええ携帯用のコンパクトタイプです。こんな小さな穴に飛びこむんです、そりゃ痛いですよ」
いいながらしゃがみ、かたわらに設置された機器のモニターをすばやい指の動きでタップしているスラリンガン。いき先の細かな設定でもしているのだろうか?
「本当にこれに入るの?」
顔を、宙にうく小さなうず巻きによせる美晴。ボクは大声をはりあげた。
「美晴! うかつに近づくな! 吸いこまれるぞ!」
「ひえっ!」
美晴は声をあげて、河岸に尻もちをつきそうになるが、山村刑事がうまくささえた。
「さすがは三ノ輪さん、よく知ってますね」
機器に向かいながら、のんびりと笑うスラリンガン。
「知ってるわけないだろ? そんな気がしただけだ。だいたいスラリンガン、そんな大事な警告は最初にしろよな」
「これは失礼。しかし、やはり感覚が鋭い。伝説の人は違いますね」
「伝説?」
「こちらの話です。みなさん、準備がととのいました。では、あちらの車に乗りこんでください」
ニ百メートルほど先の河川敷に停車している、青森の町で盗んだメルセデス・ベンツを指さすスラリンガン。考えてみれば、あんな大きな車がほぼ無傷の状態でこんな樹木だらけの山奥へ入ってこられるわけがなかったのだ。
「車でいくの? 昔のSF映画みたいなのはステキだけど、こんな小さなうずに入れるの?」
無理でしょう、といいたげな美晴。
「まだニホンオオカミが生息する、『明和』と呼ばれるこの時代へも車できたんです。信じてくださいな。ひとりひとり入っていくより、いっしょにいく方が心強いでしょ?」
「明和? 令和じゃなくて?」
首をひねる山村刑事。むろんボクにもわからない。
「確か江戸時代のなかばころ……」
おそるおそるスラリンガンの目を見る美晴。
「正解」
そんなわけでボクらが外車へ乗りこむと、いつの間にかスラリンガンは予備の防護スーツを着こみ、その上から元のシャツに袖を通している。当然、ボクらはブーブーと文句をいう。自分だけずるいだろうと。
「私が仮死状態になったら、誰が車を運転するんです?」
「ですよねー」
と、いわざるを得ない。笑顔のスラリンガンはバイザーのついたヘルメットとペットボトルの水、錠剤をみなに配った。これはボクらを仮死状態にするための薬なのだという。そして錠剤を飲んだらヘルメットのバイザーをおろせと指示をだした。防護スーツの予備はもうないが、せめて頭だけは守れるからと。
「サトル、これを飲むのか?」
後部座席で隣にかけたマサメが、心もとないといったようすで聞いてくる。
「うん、大丈夫だよ。飲まないと死……しんどいらしいから」
危うく死ぬかもといいそうになった。自身の体力の弱体化に不安をかかえているマサメをこれ以上おびえさせてどうする?
「ワームホールだろ? あの中は本当に地獄だからな」
「なおさら飲まなきゃ」
「そっか。スラリンガン、本当に信用できるのか?」
ボクより背が高く、力も強いはずのマサメが、まるで恐怖に震える小動物のように見えた。
「ボクは信じているよ、今はね」
「そっか。うん。そっか、よし!」
なにがよし、なのかは知らないがマサメは錠剤を口にふくみ、水で飲みほした。効果は五分以内にあらわれてくるのだそうだ。ボクも飲もうとして薬に手をのばす。その手を、ボクよりも大きく、しかし細いマサメの手がギュッとにぎりしめてきた。
「いいだろ?」
上目づかいのマサメに、ボクはこたえた。
「もちろん。ボクもこうしたかった」
日本語での会話なら、山村刑事や美晴の手前、とても恥ずかしくていえないセリフである──チッ! バックミラーにうつる運転席のスラリンガンと目があった。彼はあからさまにニコニコ、いやニヤニヤしていやがる。はにかんだような表情をうかべたマサメは逆の手で、ボクにいきなりデコピンをくらわせる!
「女ったらしか? サトル」
「はいはい」
驚異的な握力をもつマサメににぎられたボクの手はワームホールの圧縮空間の中でつぶされるか、引きちぎれるかもしれない。不思議なことにそれでもいいと思ったんだよ、ボクはさ。たぶん彼女の小動物的
ところでボクの中でムクムクとある思いが首をもたげはじめていた。それはつまりワームホール突入の瞬間、未知のトンネルを通り抜ける状況を体感してみたいというものであった。
ボクはマゾヒストではない。痛かったり苦しかったりはもちろんごめんである。ごめんではあるが、怖いもの見たさメーターがボクの頭の中で振りきった。なにしろボクが生きているうちには絶対にお目にかかれない場面を
好奇心は猫をも殺す……でも少しくらいなら大丈夫だよね? そこでボクは死んだふりをすることにした。そしてほかのみんなより一分だけ遅れて薬を飲んで仮死状態になることを決めた。本音をいうと、マサメのくぐり抜けてきた地獄、その一端でも彼女と共有したかっただけなのかもしれない。だって、いつかコーヒーでも飲みながらマサメと話してみたいじゃない? ワームホールって本当にキツイよねってさ。
バイザーごしに薄目で周囲を見る。高いびきをかきはじめる山村刑事。寝息をたてているマサメと美晴。その口が次第に呼吸をしなくなってきた。なるほど、睡眠状態から仮死状態へと移行したのだ。ボクはここで上下の歯にはさんでいた錠剤を飲みこんだ──のだが、あれ? ヤバい! のどに引っかかった! もっとツバをためておくべきだった!
「そろそろいいか……」
スラリンガンがパーキングブレーキをはずし、スターターボタンを押した。
──いや、待って!とは思うものの、今さらいいだせるわけがない。ボクはこれでも空気を読む方なんだ。
「みんないい気なもんだ。防護スーツを着ていたって生き地獄なんだからさ」
いいながらスラリンガンはアクセルを踏みこんだ!
──ひぇえええ! やめて!
グングンあがる速度、砂利を蹴ちらし川辺を爆走するメルセデス・ベンツ。子ども用の図鑑に描かれた星雲みたいな小さなうずが間近に迫る! もう腹をくくるよりしょうがない! 目を閉じるな! 見るんだ、すべてを!
約二十センチほどであったワームホールの中心核が穴のあいたストッキングのごとく円形に広がって裂け、大口を開いてボクらの乗車した高級外車を四方八方からスポンジをにぎるようにプレスし、ふりそそぐ江戸時代の陽光、河川敷の流木や小石もろとも一瞬にして飲みこんだ。そして嵐のように乱舞する光弾がボクに襲いかかったんだ。
──そこまでであった。なにがって? なにかが見えたのはだよ。視覚も聴覚もきかなくなり、だからなにも聞こえないし、見えなくなった。ただボクの肉体は引き裂かれ、濡れ雑巾のようにしぼられねじれ、筋肉繊維はズタズタになり、骨はヘルメットで守られた頭部以外、すべての部位において粉々にくだけたようである……だけど脳は生きている。全身から激しい痛覚が津波のように押しよせる。だけど脳は生きている。永遠のごとくつづく時間。ボクは死にたい、死なせて! そう願った。
肉体はとっくに朽ちはてているのに、痛みだけを感じる、意識だけがハッキリしているだなんて、まさに地獄の責め苦! マサメ……おまえは、こんなつらい思いを乗りこえてボクの前に現れたのか? マサメ、ごめんよ。ボクには無理だ。ごめん、マサメ。ボクはもう……。
「こまりますね、三ノ輪さん。約束ごとはきちんと守ってくれないと」
「ここは……」
雪の青森市街、スラリンガンに睡眠薬を盛られた夜のスーパーの駐車場のようであった。夢? 夢なのか? どこからどこまでが?
「三ノ輪さん、私が気づかなかったら死んでましたよ。苦痛に耐えきれずにね。バカなことしないでください。あなたに死なれたらと思うとゾッとする……本当、迷惑!」
「なんで? マサメさえ無事ならボクが死んでもあんたらには影響ないんだろ」
「ああ……だから、三ノ輪さんが死んでしまったらマンサメリケスが怒りくるうでしょ? 今度こそ私は殺されます」
「……かもね」
いちおうマサメには頼られているから。たぶんそれだけだけど。
「とにかく、われわれは明和、一七六四年にいたんです。ワームホールは万能じゃない。一度あなたの時代にもどり、あらためてここ青森から、三拠点をへてようやく富士の樹海の近郊へとたどりつけるんです。ここからは二〇二三年の中でのワームホール移動となるのです」
「そうなのか……」
「そうです。一回の移動で三ノ輪さんは白目をむいて死にかけていたんですよ! これがあと四回もつづいたらどうなったと思いますか!」
「悪かったよ……つい……」
「つい、タイムトラベルを経験してみたくなったのかもしれないけど、チームワークを乱してもらってはこまるんです!」
「すいません……」
「好奇心は猫をも殺す。ことわざの通りですね」
「え?」
好奇心旺盛で研究に没頭したあげく、異国の地で亡くなった父を思うとき、よくボクが心の中で、ついさっきも引用したばかりのことわざだ。なんでスラリンガン
が? 案外、気があうのかな? しかし、好奇心てやつは……。父の思い、今ならわかるような気がする。
「まあ、いいです。ワームホールを使用してのタイムトラベルは生き地獄だったでしょ?」
「はい」
「でしたら、その経験を未来にいかしてください」
「未来に……」
「そう。あなたの隣で寝ているマンサメリケスや彼女の仲間たちが少しでも苦しまないようにね──」
「マサメが……」
睡魔が、ボクの意識を途切れ途切れにしていく。眠い……眠い……そうか。口もとがぬれていたのはスラリンガンがボクののどに錠剤を流しこんだせいなんだな。今度は二〇二三年の中でのワームホール移動……そうかスラリンガン、ありがとな……。
スラリンガンがボクのヘルメットのバイザーをおろした。そして運転席につく。富士の樹海を目ざして。
意識をなくす直前、ボクはあらためてマサメの手を力強くにぎりしめた。仮死状態にあるはずなのに、とてもあたたかい気がした。
(つづく)
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