1 イブの夜Ⅰ
この日の業務はすべて終了し、今日ばかりは早めに帰れそうだと期待していたのだけれど、そんな日にかぎってしょうもない雑用をいいつかってしまうものだ。レンタルしていたSF映画、明日が返却日だからどうしても最後まで見たいんだよね。いつも途中で居眠りしてしまうからなかなかラストシーンまでたどりつくことができないんだよ。別に映画が退屈なわけじゃないんだよ。科学には関心のうすいボクも空想科学は大好きなんだ。
「クリスマスイブの日に申しわけないが、誰か今日、留守番を頼めないか? 大事なカタログが今晩、届く予定なんだ」
教授は誰か、といっているわけで、なにもボクを指名したわけじゃないんだよ。でもね、一番下っぱで雑用係のボクだよね? 学士やら修士課程の人が無為な居残りなんかしませんよね? そもそも論になるけどボクが理系の大学へ通っていること自体が場違いというか、間違いなんだ。
はいはい、研究室内に充満する高密度の圧縮空気に押しつぶされたボクはSF映画鑑賞をあきらめ、教授に向かって手をあげた。
「ボクが残ります」
当然だよな? そういわんばかりのラボラトリーの男女先輩諸氏、そして同輩たち。おもしろくもなさそうな無表情な顔を見ていると少しばかり腹も立つが、まあ致し方なしだ。大学の研究室ってところはなかなかに過酷な環境にある。ブラックラボなんていわれているところも日本には無数にあると聞く。研究室にいなければならない労働時間、コアタイムなんてものが一応、設定されてはいるが、そんなものには関係なくみなさん、無償の労働力として朝から晩まで研究と実験に明け暮れている。しかも画期的で野心的な研究なんて、ほぼ認められない。海のものとも山のものとも知れない研究に資金提供をしてくれるほど世間(政府も企業も)は甘くないのだ。以前、教授がラボのメンバーらにこんなことをいいだしたことがある。
「この中でユーパイプに動画を投稿している人はいないか?」
ユーパイプとは、ネットの投稿動画サイトのことである。この問いに院生のひとりがキレたようにこたえた。
「教授、なにいってるんですか?」
「息子から聞いたんだが、ユーパイパーというのか? 広告費でえらくもうかるそうじゃないか? 小学生のあこがれの職業ナンバーワンらしいぞ。誰かユーパイパーになれ! ラボに研究資金を提供してくれ! そして自由闊達な研究をしよう!」
「現状、このラボにそんなひま人がいるわけないでしょ! 小学生と一緒にしないで……いや、ひとりいないこともないか?」
全員の視線がボクに向けられた。ボクは無理、無理とかぶりを振った。教授が息子さんになにをいわれたのかは知らないけれどユーパイパーで大もうけしている人なんて、確率でいえば天文学的な数、そのうちのたったひとりにすぎないのだ。まったく興味がないからよくは知らないけど。
院生たちににらまれて、教授はペコリと頭をさげた。
「……時間を取らせてすまなかった。はい、作業をつづけて、つづけて」
したがって教授は事務手つづきと金策がおもな仕事となり、助教授や修士、学士過程にある院生はゼミや講義の準備に追われつつ、実験成果のみを求められる。これでは日本の優秀な科学者が海外に流出してしまうのも無理からぬことであろう。なんて、雑用係で、ある意味、傍観者のボクに偉そうなことはいえないんだけどね。みなさんの苦労を思えばレンタルDVDを最後まで見られないくらいどうということではないのだ、たぶん。
今日はクリスマスイブだ。そして、すぐに年の瀬をむかえ、新年あけましておめでとうである。この春からラボに入ったのだけれど、目がまわるほど忙しかった。加速度的に季節の流れが速かった気がする。相対性理論によれば早く移動すればするほど時間の流れがゆっくりになるそうだが、これ、嘘じゃないか? 誰もいなくなった研究室のイスにかけてグダッと足をのばしたボクはアインシュタインに文句をいいたくなる。
「クリスマスイブか……」
卒業も、単位ですら危うかったボクをひろってくれた教授にはもちろん感謝している。しかしなにしろ大した興味も熱意もないのに理系の大学に受かってしまったせいで、入学以来、苦労の連続であった。どうしてかって? それはボクの父親が生きていたころ、ノーベル賞の候補にもあがったことのある国内でも有数の物理学者だったせいだ。おかげでやはり研究者である母親ともども、制限や規制なんかを気にせずに自由に研究ができる土地を求め歩き、ボクが子供のころはアメリカやロシア、ヨーロッパ各地を転々とする暮らしであった。しかし研究に没頭するあまり、父は過労死したんだ。
ボクが科学なんてものに恐れをなすのも無理からぬことだろう? それでも母を含めた周囲の要求というか、親戚中の同調圧力に屈していやいや受けたのが今の大学ってわけ。まさか受かるとは思ってなかったから驚いたよ。入学したらしたで教授連中には過大な期待をかけられて、プレッシャーで押しつぶされそうになったけどね。そんなボクを見かねて手をさしのべてくれたのは同じゼミを取っていた
まあ、これも仕方のないことだよね。実をいうと、ふられてもボクはあまりショックをうけなかったんだよ。つまりボクは彼女に対してそれほど深い愛情をもっていなかったということになる。頭の切れる美晴は以前から、敏感にそのことを感じとっていたに違いない。彼女は大手とはいえないが中堅どころのスーパーマーケットを都内に数店舗かまえている父親をもついわゆる社長令嬢で、学内の友人らからは逆玉だなんていわれていたので、どこかでボクも、その気になっていたのかもしれない。今にして思えば、ボクはなんと失礼な男なのだろう。彼女にいわれた最後のセリフがこれ。
「私の三年間を返してほしい」
この言葉のもつ意味を今さらながら重く感じざるを得ない。去年も一昨年もその前の年もクリスマスイブは一緒に過ごした。相手がボクじゃなければ、美晴は今年のイブも同じ相手と過ごしていたのかもしれない。四年もつきあったんだし、なんてふたりの将来について語りあうこともできたのかもしれない。
「ボッチブは当然のむくいだよね」
ボッチブとはクリぼっちに代わる最近はやりはじめた造語で、イブの夜にひとりボッチでいるさみしい人をさすネットスラングだ。正直、さみしいとは思っていないのだが、SF映画のDVDをもって歩けばよかった。カタログの配送待ちだなんて空虚な時間を過ごしているから美晴のことなんて思いだしてしまうのだろう。
「このままつきあっちゃおうか?」
教室で勉強を教えてくれながら彼女が冗談めかしていったことや、いつも笑いがたえなかったことなんかを思いだしてしまうのだろう。
「あれれ?」
なんだか鼻の奥がツーンとこげ臭くなってきた。もちろん突然、
パラパラ……研究室の片隅からなにやらカサつくような乾いた音が聞こえた気がする。ボクは目もとをぬぐいながら、音の聞こえたあたりに事務イスを回転させた。ネズミ? いや、カタログの配送業者がきたのだろう。サインをするためにボクはデスク上のボールペンを手に──。
「え?」
ボクは思わず声をあげてしまう。天井から、いやそうではない。天井からではない。なにもない空間といえばいいのか、とにかく空中からカラカラと音をたてて土くれと小粒の砂利のようなものがあふれだし、安っぽいPタイルの床にこぼれ落ちているのだ。な、な、なんだこれは! 次元の裂け目ってヤツ? 嘘だろ!? しかもガス状の光をはらみ、うずを巻いたような裂け目がみるみる大きくなってきた。
巻きこまれる! 恐怖を感じたボクはとっさに研究室の外へ逃げようとしたが、どうしたことか身動きがとれない。それどころか、全身が異様に重くなり、目の前がぐにゃりと押しつぶされる感覚、まるで圧縮されたかのように歪んでいる。そして天地がひっくり返った。どうしたんだボクは? 三半規管がイカれたかのようにめまいがして、突きあげるように吐き気が襲ってくる。
「うぎゃああー!」
ボクは悲鳴をあげていた! ふわりと、まるで重力を無視するかのように、とてもソフトにソレが落下してきたからだ。ソレを吐きだした荒ぶるガス状発光体、光のうず巻きは、満足したかのようにジワリジワリと宙へと収束し、やがて消えた。
白昼夢でも見ているのかとも考えたが、確かな物的証拠が土くれとともに、ボクの目の前に転がっている。気がつくと体が動くようになっていた。どうやらあの光のうず巻きの消滅とともに金縛り状態から解放されたようだ。とにかく逃げよう。カタログの配送待ちどころの騒ぎではない。逃げて警備員へ報告だ! 学内へ不審人物が入りこんだことには違いないのだ! ボクは宇宙人でも人物と呼べるものなのかと思いつつ、出入口のスライドドアへと向かおうとしたのだが、恐ろしく強い力で足首をはさまれた。
「ひゃあ!」
倒れていたソレが片手でボクの足をつかんでいたのだ。殺される! ボクは悲鳴をあげながらつかまれた足を振ってジタバタと暴れたが、ソレは苦もなくボクを引きずり倒し、つづいてポーンと勢いあまったボールのごとく跳ねあげられ、壮烈な激突音とともに天井へとたたきつけられて、そのままだらしなく床へはいつくばってしまった。そしてボクとともにジャンプしたソレは空中で一回転して、ボクの頭上へと優美ともとれる身のこなしで舞いおりてきたんだ。どうなるのボク!?
(つづく)
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