第二十六話 悪魔エドクノー
~SIDE クロノ~
闘技場のギャラリーから、二ノ瀬が戦っている姿を見る。長く闘技場で戦っているが、ここには初めて来た。クラトノスがいなければ、立ち入ることもできなかっただろう。
……しかし、二ノ瀬は本当に強いな。一年前まで戦闘経験がなかったとはとても思えない。
考えて見れば、アイツは最初から強かった。当時ここの注目選手だった俺を、奴は顔面までボロボロ、長時間の漂流による極限の疲労を背負った状態で打倒して見せたのだ。
衝撃を受けた。世の中にはこんなに強い奴もいるのだと。そして気づいた。自分がどれほど矮小な存在だったのかと。
確かに、当時も騎士団や衛兵に勝てる試合は少なかった。だが、それでもプライドがあったのだ。奴隷の中じゃ一番だと。
そんな自尊心は、鼻づらとともに圧し折られた。彼が見せた、愛と信念の輝きによって。
そしてまた、奴は心根まで美しい男だった。自分も満身創痍の中、ゴランドルに焼かれたシアンを助けようとしたのだ。
あの時、俺は動けなかった。もちろん二ノ瀬から受けたダメージもそうだが、何よりゴランドルによる制裁を恐れていたのだ。下手に動けば、殺されると思った。
しかし、奴は違った。まだ魔法も知らない。言葉も話せない。そんな状態で、部外者であるシアンを助けようとした。二ノ瀬の心は、俺よりもずっと美しい。
奴と出会ってから、俺は変わった。いや、俺たちは変わった。皆、こんな最悪の生活に希望を持つようになったのだ。
以前から奴隷解放作戦については考えていたが、俺とシアン、アカネの三人だけでは絶対に不可能だった。それが、奴が来たことによって可能になったのだ。
二ノ瀬は俺たちの希望だ。最初はぽっと出のあいつに頼るまいと思っていたが、今は違う。あいつがいなければ、俺たちの生活は成り立たなくなっていた。
「クラトノス殿、貴方のことは信頼している。何せ、あの二ノ瀬が信じ切っているほどだ。だからあえて聞こう。なぜこんなことをさせる。俺には、クラトノス殿が二ノ瀬を壊そうとしているようにしか見えない」
「……何が言いたい」
俺が問いかけると、クラトノスは二ノ瀬の前では絶対に見せないようなドスの利いた声で返してきた。金の瞳は、まっすぐ二ノ瀬だけを見つめている。
「なぜ、俺に戦えと言わなかった。いくら二ノ瀬でも、数十試合あんな連中と戦えば、さすがに疲弊する。その点、俺やシアンと分割すれば、少なくとも今日は乗り切れるはずだ」
「……二ノ瀬君は負けないさ。彼は、今は私のものだ。私が勝てと命じれば、彼は必ずそれに応えてくれる。どんな強者からでも、勝利を掴み取って見せる」
ああ、わかってしまった。二ノ瀬が彼を信頼しているのではない。彼が、二ノ瀬を信頼しているのだ。二ノ瀬は、ただそれに応えているだけ。
アレは、誰よりも真面目で誠実な男だ。クラトノスこそ真なる男児であると二ノ瀬は言うが、クラトノスのそれは二ノ瀬を模倣しているだけに過ぎない。ある種の憧れであろう。
対して、二ノ瀬のそれはどこまでもまっすぐだ。クラトノスのように、他者の前で姿を変えることがない。
しかし、俺が引き出したいのはそんな答えじゃない。もっと、これからの計画に深く関わることだ。俺は、闘技場奴隷の指導者としてこの男を知っておく必要がある。
「クラトノス殿が非暴力を訴えているのは知っている。ならば、ここで俺とシアンを戦わせ、貴族連中に実力を知らしめておくべきだ。それだけで、俺たちは行動しづらくなる」
俺の言葉に、やっとクラトノスは二ノ瀬から視線をはずし、こちらを向いた。どうやら、彼にとっての地雷はここにあったらしい。
「……鋭いね、クロノ君は。少なくとも、二ノ瀬君はその可能性について考慮していなかったよ。彼は真面目だが、少々鈍感なところがある。想像力が足りない」
「二ノ瀬からの頼みもあるし、何より俺たちも、誰も傷つかないのならばその方が良い。だからこそ、クラトノス殿に従っている。しかし、それが失敗するというのならば、俺たちは実力行使も辞さない。それは、貴方にとっては都合が悪いはずだ」
「そうだね。本当なら、私は君たちが動きづらくなるよう、積極的に行動を起こすべきだ。当然、それも考えたさ。けどね、すべてを考慮しても、私は二ノ瀬君に嫌われるようなことはしたくない。彼は鈍感だが、気付いてほしくないことはすぐに気付いてしまうんだ」
……なんだ、この男は。行動原理が、ほとんどすべて二ノ瀬に完結している。
もっと、自分が領主になった時のこととか、今後の非暴力運動のこととか、他に行動原理はないのか。
彼の目は、俺とこうして話している間にも二ノ瀬を捉えている。相手選手のことなど一ミリも入っていないのに、二ノ瀬だけは必ず視界に移っているのだ。
おかしい。俺が今まで見てきたどの貴族とも違う。彼の頭の内には、本当に野心などないと言うのだろうか。ただ、二ノ瀬を手に入れることだけを考えて……。
「そうだ、君に話しておきたいことがあったんだ。すっかり忘れていたよ」
……話しておきたいこと? 今更俺たちに、いったい何を言うつもりだ。作戦についてはもう話し合うことなどない。アカネのことについても、二ノ瀬からすべて聞いている。
「君は、君たちは、疑ったことはないか? トーノでは一時期その噂で持ち切りだった。二ノ瀬和澄改めジャックは、言葉を介さない悪魔エドクノーであると。ゆえに、あれほどまで強いのだと」
「……ある。というか、今でも疑っている。初めて会ったとき、二ノ瀬はあまりにも言葉を知らなかった。トーノの人間ではない。タナタリでも、その隣のアグランツでもない。奴は俺の仇なのだと、今でも思うことがある」
エドクノーというのは、悪魔に支配された国クノイツに住む、支配階級の悪魔たちのことだ。
彼らは人語よりもはるかに高次元の言葉を持ち、人間を超越した魔力と知能を有している。
しかし残虐性が高く、生殖能力も低いために数は少ない。
そもそも彼の通り名である『ジャック』とは、クノイツから渡ってきた者を指す言葉である。
「……やはり、君たちはクノイツに滅ぼされた国、ヴァダナンの人間だったんだな。クロノ君にアカネ君、名前が特徴的だからもしやと思っていた」
「ああ、俺たちはヴァダナンの魔術師一家、キヨハラ家の者だ。今はもう名乗っていないが。それが何だというんだ」
二ノ瀬と初めて会ったとき、闘技場の司会者は彼をジャックと称した。そして次には、人語を話さないことを説明した。
だから俺は、まず真っ先に奴がエドクノーであることを疑った。そして、国の仇であり、俺たちがこんな生活をしている原因である悪魔を殺そうとした。
だが、奴はどうだ。戦ったことなどないといったようにオロオロするだけ。当時の俺からすれば、格下でしかなかった。悪魔とはこの程度なのだと、失望したほどだ。
そして負けた。急にキレの増した動き。確信した。こいつはやはり悪魔なのだと。
「私も、まだ彼がエドクノーではないかと疑っている。そして、だからこそ飼いならさなければならないと思っているのだ。……もちろん、彼に対する想いは嘘ではないが」
彼は本気だ。本気で、あの悪魔を従えようとしている。武力ではなく、知力で悪魔を負かそうとしている。俺は、まだ判断しかねているというのに。
「都市国家トーノに悪魔の協力者が現れば、クノイツに対する切り札になりえる。君にとっても、無関係ではないはずだ。どうか、私に協力してほしい」
「……暴力は嫌いじゃなかったのか?」
「もちろん、私は暴力が嫌いだ。だが、それは人間と人間の間に限る。悪魔は、人間ではない。私が特別視する悪魔は、二ノ瀬君一人だけだ」
奴隷解放? 非暴力運動? このクラトノスという指導者には、そんなちっぽけなものじゃ断じてない野望がある。野心がある。
確信した。この男は、どの貴族よりも恐ろしい男である。それにセーブを掛けられるのは、たった一人……。
新婚旅行にファンタジーはいらない Agim @Negimono
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