第十四話 俺は異世界にいる、彼女は地球にいる
「そうだ二ノ瀬君、君に武器を渡しておこう。私の騎士ではないが、守護者が丸腰では格好がつかない」
微妙な空気が二人に流れ始めると、突然クラトノスがそう切り出した。
彼は本当に優しい男だ。俺のことを気遣ってくれるのもそうだが、こちらの感情の変化にすぐ気付いてくれた。これこそ、彼のカリスマなのだろう。
クラトノスから渡されたのは、一振りの剣だった。
木材に漆のような塗料が塗られた鞘。抜いてみると、細く長く、厚みの薄い剣であった。金属の煌めきが、非情に輝いて見える。
素朴で平凡な剣ではあるが、その重みは確かな力を感じさせた。
「良いのか、こんなものを俺に渡して。もしかしたら、俺が暴挙に出てクラトノスを殺すかもしれないぞ? ともすれば、他の騎士や衛兵を殺して回るかもしれない」
「わざとそんなことを言うんだな。知っているさ、君がそんなことをする人間ではないと。君は強いが、人を殺すことを躊躇う。クロノやシアンとは、思考が決定的に違うんだ」
そう、か。確かに、俺は今すぐ人を殺すことなどできないだろう。たとえそれが自分のためであろうと、日本にいたころの常識がそれを許さない。
だが、剣を握ってしまうとどうしても考えるのだ。俺は今、簡単に人間を殺せる力を手にしているのだと。自分の拳よりも遥かに素早く、そして単純に、俺は人を殺せるのだと。
恐ろしい。何せ、剣は人を殺すためだけの道具である。他に用途はなく、ただ人を殺せという意志で作られたものだ。それが今、俺の手の中にある。
そしてまた、この重さと鋭さ、そして金属の煌めきが俺を襲うのだ。俺に教えるのだ。
ここは異世界であって、日本ではない。殺人も日常的に起きているし、いつ如何なるとき自分がそうなるかは分からないのだと。自分を守るためには、外敵を殺すしかないのだと。
そんな思考が、俺と珊瑚を引き離させる。彼女がいるのは平和な日本で、剣など持ったことのある人間はごく少数だ。
しかし今、俺はそれを持っている。これを振るって人を殺す力がある。
その事実が、俺の精神をさらに追い込んでいった。
手が震える。それどころか、足もガクガクと振動していた。俺はこの武器の存在を、理性ではなくもっと根本的な部分で、否定し続けていた。
それは、俺が日本人だからだろう。まだ俺にも、この世界で一年間戦い続けた俺にも、殺人の武器に対する恐怖と嫌悪が残っていたのだ。
「それに、君は剣を握ったことがないだろう? 貴族をやっていると、使い手を見る目は肥えるものさ。剣を握ったことがない人間には、逆に剣をくれてやると良い。剣に頼ろうとして、その者はむしろ弱くなる。君が剣を持っている方が、私としては安心だ」
剣を握ったことのない人間には、剣を与えるか。
なるほど、確かに理解できる。何も、俺はこの剣を使う必要などないのだ。人を殺すのも、人を切り付けるのも、やらなくたっていいんだ。
「そう、だな。俺は剣を使う方が弱いかもしれない。だが、それでいいんだ。人を殺さなくて済むのなら、その方がずっと良い」
クロノやシアンは怒るだろうが、俺はクラトノスの考えに賛同していた。
結局のところ、俺もまだ、自分たちが助かるために人を殺すという考えを許容できていない。ならば、誰も殺さず平和的に解決しようとするクラトノスの考えに靡くのは、当然のことであった。
確かに、最初は反発した。そんなことが、この異世界で実現するのかと疑問に思った。何より、アカネが可哀そうだ。
だが、クラトノスと共に生活するようになって、彼の言葉に現実味を感じ始めている。彼の一言には、人々を従える力があるのだ。
「しかし、君はあまり喜ばないな。感情の起伏が薄いというか、試合の時以外で君が感情的になっている姿を、私は見たことがない。普通、主人から贈り物をもらったら、相応に喜ぶものではないのか?」
そしてまた、彼のこんな一面も、俺を信頼させるのだ。真面目でまっすぐだが、時たまふざけた表情を見せる。非情に好感の持てる青年だ。
「そりゃ、無理やり奴隷にされているからな。特別主人を尊敬しているわけじゃない。でも、喜んではいるさ。こんな物騒なものだが、今の俺には必要なものだった。ありがとう」
この剣のおかげで、俺はこの世界と地球を分離することができた。
今まで、心のどこかで考えてしまっていたのだ。この世界も地球も同じだと。だから、珊瑚を頭に思い浮かべては、自分の現状に混乱していたのだ。
しかし、そんな訳はない。常識も違えば価値観も違う。魔法などというものが存在するし、未だに奴隷がなんだとのたまう。この世界が、地球と同じはずがなかった。
この剣は、腰に下げているだけでそれを思い出させてくれる。
ここは地球ではない。俺は今ここにいて、珊瑚は地球にいる。それを、ようやく心で理解することができた。
「まさか、こんなものでそれを実感するとは思っていなかったけどな。殺人の武器は、日本人には不要だ。それを思い出せただけでも良かった。本当に、感謝している」
「そ、そんなに喜んでくれるとは思っていなかったな。今にも泣きそうじゃないか。でもわかったよ。君の感情は、私よりもずっと静かに現れるんだな」
言われて初めて気づいた。確かに、こちらの世界に来てからというもの、戦闘中以外に大声を出して感情をぶつけたことがないかもしれない。
……いや、一度だけあったか。こっちの世界に来た初日、男に捕らえられ牢に入り、珊瑚を思い出して大泣きした。あれ以来、感情を表に出すことが少なくなった気がする。
「ホラ、君は私の守護者なんだ。あまり情けない姿を見せないでくれよ。騎士や衛兵などよりもずっと頼りがいがあって、それでいて心の内はとても優しい青年だ。君は、これ以上ないほど素敵な男だよ」
嫌なことを思い出してうつむいた俺に、クラトノスは手を差し伸べてくれる。
まっすぐ俺の目を見て掛けてくれた言葉は、何の抵抗もなく俺の心に染み入った。
いつも力強いその金の瞳も、今はとても優しいものに感じる。
「はあ、クラトノスは本当に良い男だ。俺が女だったら、その一言だけで惚れていたぞ。あいにく、俺には意中の女性がいるが」
「ハハハ、これは残念だ。君ほどの御仁を虜にできないとは。しかし、君の奥方も嫉妬しているだろうね。何せ、今の君は私の従順な奴隷だ」
差し伸べられた彼の手は、非情に小さなものだった。きっと、よほど良い環境で育ってきたのだろう。まったく、細くて柔らかい手だ。彼が女性であったのなら、また違ったのかもしれない。
「さて、バカな話はここまでだ、気を引き締めろ。これからクライストに会いに行く。当然、その場にはアカネ君も連れてきてもらうことになっているんだ。これからが、君の本当の仕事だよ」
そう言われ、俺は自らの頬を叩いて気を引き締めなおした。
腰に下げた剣を整え、衣装も着崩れていないか確認する。この先の仕事が、俺たち闘技場奴隷の行く末を決めるといっても過言ではないのだ。
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