第十一話 領主の息子
その日から、俺たちの食事は随分豪華なものになった。
パンは皆均等に配られるし、根菜に温かいスープまで付いてくる。長い奴隷生活で胃が小さい連中には、これだけでも充分であった。
しかし、忘れてはいけない。この食事は、一人の少女の犠牲によって成り立っているのだ。決して、このような生活を続けるわけにはいかない。俺たちは、このような理不尽を認めてはならないのだ。
「クロノ、この状況をどう思う」
正直、今彼に話しかけるべきではないと分かっていた。返ってくる答えも、なんとなく察しが付いている。しかし、俺はその言葉を、彼自身の口から引き出さなければならなかった。
「最悪だな。ここの連中は、ホントに意志が弱い。手のひら返しってやつだ」
クロノは、帰って来たアカネの周囲に集まる奴隷たちを見てそう呟く。その目線は、今にも殴り殺さんという気迫を感じさせた。だが、彼の憤りも理解できるのだ。
皆、口々にアカネへ礼を言っている。皆が皆アカネのことを持ち上げ、称賛し、期待しているのだ。
そう、彼らの中にあるのは感謝などではなく、次への期待。感謝の言葉を口にしようとも、その表情や雰囲気が物語っていた。
『今日の夜もまた衛兵に抱かれて、明日の朝にはうまい食事をもってこい』
彼らの頭の中には、本当にこれしかないんだ。これまで共に戦ってきた仲間でさえも、その犠牲をいとわない。それだけ、彼らは一人一人が限界なのだ。
この極限の状況で、確かに他人の犠牲で自分が助かるのならばそれでも良いだろう。明日には、自分が死んでいるかもしれない生活をしているのだ。
そりゃ、助け合いの精神など生まれようはずもなかった。しかし……。
「どうする。連中を作戦から除外するか? 意志の弱い奴は、武器を持たせても戦えはしない。それも、自分のためでないのならな。なら、武器を調達する危険度を下げる方がずっと効率的さ」
「そう、だな。それも考えてはみたんだ。だが、やはり俺は、ここにいる連中全員で脱出したい。アカネを救うことは大前提だが、そのさらに先のことまで考えるのなら、全員で団結するのがベストなんだ」
クロノは優しい男だ。彼は、ずっと昔から奴隷解放を胸に戦ってきた。
どうすればここから脱出できるのか、どうすれば奴隷としての扱いを受けず、普通に生活できるのか。そのために、彼は戦い続けてきたんだ。
しかし、周囲はそれを理解していない。クロノやシアンには戦う力があるが、闘技場において常に負け続けてきた彼らは、解放のために戦うという選択肢を捨てたのだ。
だから、クロノは未だに作戦を決行できずにいる。闘技場内の衛兵については、もうほとんど調べが付いているのに。全員がその気になれば、武器などなくても蜂起できるというのに。
「おいお前たち! お客さんだ。ここ都市国家トーノの領主様が一人息子、クラトノス様だぞ! 全員控えろッ!」
俺たちが話し合っていると、また唐突に大男が扉を開いた。大声を張り上げ、皆を黙らせている。
入ってきたのは、一人の青年。歳は恐らく、クロノと同じくらいだろう。俺よりも少し若い。
領主の息子クラトノス。何度か闘技場で見たことがあったが、間近で見ると意外にも身長が低い。シアンよりは高いが、クロノよりも断然低いのだ。
輝く金の髪に、同色の瞳。ふと目線が合うと、その力強さを確かに感じさせる。心の中に一本、何か芯を持った男の目だ。
顔立ちはとても整っており、遠目からは美しい女性にも見える。その腰に一振りの剣を下げていなければ、女子と見紛ってもおかしくはない。
「喜べお前たち! クラトノス様は、お前たちの中から優秀な奴隷を何人か買ってやろうというのだ。さらに、その者の働きが良ければここにいる全員に慈悲を恵んでくださるそうだぞ。粗相のないようにしろ!」
大男が彼の目的を告げると、それまで黙っていた奴隷たちがざわめきだす。
何かと思ってそちらを向くと、一人の少女に視線が集中しているのがよくわかった。
想像できていたことだ。
クラトノスというのは、この闘技場と深い関わりのある貴族である。ここの管理者から話を聞き、本格的にアカネを性奴隷として買い取りに来たのだろう。ついでに、少し戦えるような奴も見繕いに来た。
「ゴランドル君、少し外してくれるかな。私はあまり、買い物の際人に見られるのが好きではない。私の趣味がバレてしまうからな。終わったら呼びに行く。それまでは管理室にいてほしい」
「もちろんですとも、クラトノス様。どれだけ時間を掛けていただいても構いませんので、ごゆっくり」
クラトノスが声をかけ、大男を退室させる。
というか、あの男ゴランドルという名前だったのか。如何にも、蛮族にふさわしい響きの名前だ。
「さて、君がアカネ君だね? 話は聞いている」
クラトノスはまっすぐ、アカネに近づいていく。その透き通った金の瞳は、彼女のこと以外何も見えてはいないのだろう。
「待て、アカネちゃんをどうするつもりだ!」
すぐさま、シアンが間に入った。今朝の出来事で、彼もまた腹を立てていたのだ。それが今、またも悲劇的状況になり、爆発してしまったのだろう。後先考えず飛び出した。
……しかし、護衛のいない貴族など何が脅威なのか。俺も闘技場で一年戦い続けてきた身だ。強い奴というのはなんとなくわかる。コイツはそうではない。
弱い、明らかに。恐らく、最も勝率の低いシアンでも勝てるだろう。何なら、ここで殺してしまうのもアリではないのか。
腰に剣を下げているが、手を見ればすぐにわかった。彼は剣を振るったことなどない。
剣士と素手でも戦える俺ならば、あの程度の人間は捻りつぶせる。
領主の子息殺害という事件を起こし俺一人にヘイトを集めれば、他の連中が脱出する隙が生まれるはずだ。俺の足ならば、衛兵に追いかけ回されようとも逃げ切れる自信がある。俺一人であれば、今すぐにでもここから抜け出せるのだ。
シアンに注目しているクラトノスの後ろから、俺は音を消して近づいていく。
暗殺などお手の物だ。実際人を殺したことはないが、今の俺ならば簡単にできるはずである。
「……待て」
背後から接近する俺に、クロノが小声で待ったを掛けた。
クラトノスは、これにもまだ気付いていない。よほどシアンに注目しているのだろう。気付かれぬうちに、俺とクロノは広間の端まで移動した。
「先のことを、未来のことを考えろ。俺たちの作戦が成功するとは限らない。その時、ここの奴隷たちはどうなる。全員処分されるのは当然のことだ」
何を臆しているのか。責任など、全て俺が背負えばいいのだ。
俺は連中になど殺されはしない。元の世界に帰るまでは、絶対に死なないのだ。ならば、今この世界で、一生を生きなければならない者にこそ、目を向けるべきだろう。
「考えても見ろ、クラトノスは領主の息子だ。その奴隷が、悪い扱いを受けると思うか? それも、身綺麗にしていなければならない性奴隷だぞ。薄汚い下卑た爺ではなく、清潔感のある青年だ。評判も、決して悪くはない」
「……何が言いたい」
「クラトノスに買われることで、アカネは不幸になどならない。少なくとも、ここで奴隷としてやっていくよりは、ずっと良い暮らしができるはずだ。クラトノスは顔もいいしな」
とても現実的で、それでいて希望のある話をしている。
しかし、それを口にするクロノの表情は、自身の力不足と立場の低さに潰され、ぐちゃぐちゃになっていた。
「……クロノ、感情で嫌悪することを言うな。理屈では納得できても、心がそれを否定するのなら、その考えは間違いだ。そしてきっと、アカネもそれを望んではいない」
俺は再び、クラトノスへと向かって歩き出す。まずはコイツをどうにかしなければ、全ては始まらない。
「……そう怒らないでくれ、
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