第五話 勝者

 歓声だ。天を揺るがすほどの大歓声だ。割れんばかりの音が、鳴り響いていた。


 それを享受するのは、鼻が圧し折れ気絶しているクロノと、それを殴りつけて拳が割れ血が滴っている俺、二ノ瀬和澄だ。


 どちらの顔面も酷い状態で、とても勝者の雄々しさというものが感じられないが、周囲にとってそんなことは関係ないらしい。


 彼らの叫びを聞いて、ようやく実感が湧いてきた。俺は、このクロノに勝利したのだ。


 強かった。きっと万全の状態でも勝てないだろうと思っていた。それが、一度流れを掴んだだけでそのまま勝ててしまったのだ。


「オオオオオオオォォォォォォォォォッッッッッッ!!!!!」


 朦朧とする意識の中、それでも溢れだす感情を抑えきれず、俺は叫んだ。血まみれの拳を振り上げ、下敷きになっているクロノなど眼中にも納めず吠えた。


 そして、それに呼応してギャラリーもまた吠える。


 俺の勝利を祝うもの、新人の誕生を喜ぶもの、クロノの敗北に驚愕するもの、己の拳を振るわせるもの。実に様々な人間が、俺の戦いを観て心揺すぶられている。


「……――……――。――……、ジャック!」


 司会者と思われる男性が、俺の勝利を宣言する。そしてまた、周囲は歓声を上げた。


 ……正直、こんなところに問答無用で連れてこられて、しかも壊滅的なダメージを負ったまま戦わされたことには腹が立っている。しかし、こんなにも熱く胸の高鳴る戦いが出来たことは、怒りを差し引いても嬉しかった。


 クロノの上から降りると、彼のもとへと二人の男性が駆け寄ってくる。恐らくは医師か何かだろう。彼を担いで通路へと走っていった。


 劣悪な環境ではあるが、重傷を負った選手にはちゃんとした治療を施しているらしい。そんな倫理観があるのならば、人攫いなどが何故できるのか疑問ではあるが。


 かく言う俺も、医師と思われる女性に手を引かれクロノとは反対方向の通路へと連れていかれる。


 石造りの通路はやはり、中世のコロシアムを彷彿とさせた。こんな建造物が現代にも残っているのだと思うと、今は何故か感動できる。


 ……多分、まだ戦いの高揚感が抜けきっていないのだろう。先程まで怒りを感じていた風景が、今は全て美しいものに見えている。


 気付くと女医さんが俺の顔に手を当てて、傷の具合を確認してくれていた。こんなに暗いのに、果たしてちゃんと見えているのだろうか。というか、顔ではなく鳩尾のあざを……。


「ッ!!??」


 その事実に気付いた瞬間、俺は大慌てで女医さんから飛び退いた!

 そうだ、戦いの余韻で完全に忘れいたが、俺は服を全てはぎ取られて全裸の状態ではないか!?


 何か身を隠すものはないかと壁際に寄るも、この部屋には椅子くらいしかなかった。

 医務室なら着替えのひとつくらい置いててくれよ! こんなイベント俺は望んでないぞ!


「……――!」


 女医さんが何やら注意してくるが、そんなこと聞いていられるか。


 だいたい見たら察するだろう、この反り立ったソレを! 不覚にも、この女医さんがめちゃめちゃ美人だから、男性として当然の反応を起こしてしまっているのだ!


 慌てふためく俺に、ついに女医さんが手を出した。とんでもない力で押さえつけられる。


 おかしい。戦いの直後かつ昨日までの疲労で体力の限界とは言え、こんな小柄な女性に押さえつけられ抵抗もできないとは!


 くっ。この薄暗く狭い医務室に、ジャイアントキリングを果たしたニューカマーと美人な女医二人きり。果たして何も起こらないはずもなく……。


 落ち着け俺! そうだ、俺には珊瑚がいるだろう! 彼女のかわいらしさと笑顔を思い出せば、美人の女医と言えど霞んで見える。何、難しいことはない。彼女との思い出を振り返っていれば、この疼きは早々に収まるはずだ!


 ……なんと! 珊瑚のことを思い出していたら、余計にソレがソウなってしまった!


 彼女は純粋そうに見えて、実はそういうことが好きなのだ。当然ながら、俺も好きである。思い出を深堀すると、どこかでその記憶に当たってしまった!


 これは非常にマズい。こんな衛生管理もバグってる国でおせっせなどしてしまったら、何かよくわからん性病にでも掛かってしまうんではないだろうか。


 ……俺が取り乱して壁に縋りついていると、背中に謎の刺激が走った。


 なんだかムズムズする感じだ。背中の筋肉に力が入ったり抜けたりして、痛む全身が心地よい刺激に流されていく。


 振り向くと、彼女が右手で俺の背をなぞっていた。この国独自の治療方法か何かだろうか。まったく謎だが、痛んでいた背筋がもう楽になっている。針治療とかそういうものか?


 何故か落ち着き始めた俺は、今度は彼女に腹を見せる。先程まで嫌がっていたのに、不思議なものだ。


 彼女の手が殴られあざになった鳩尾をなぞると、これまた途端に楽になる。


 筋肉が自在に動かせるようになり、触れるだけでも刺激の走った患部はあざが抜け元の肌色に変化していった。


 何とも不可思議な治療方法だ。俺の目線では、ただ彼女が患部をなぞったようにしか見えない。しかし、事実怪我は癒えているのだ。世界にはこのような技術もあるのだと、改めて感心した。


 続いて、彼女の両手が俺の頬に触れる。粉砕した顎に痛みが走った。


 いやいや、まさかな。そんなことはありえない。だって、ただ触れるだけだぞ? 一時的に痛みを和らげているだけのはずだ。


 ……そう、思っていた。驚いたことに、彼女が俺の頬をなぞった瞬間、砕けていた顎が再生したのだ。それどころか、舌でなぞると折れたはずの前歯の感触がある。


 これは、いったいどういうことだ。訳が分からず、自分でも顎を触ってみた。


 ……まったくと言っていいほど、痛みは感じなかった。骨の砕けた部位など触ろうものなら、悶絶級の痛みが走っていたのに。


 さらに顔を触ってみると、どうやら腫れあがっていたあざもなくなっているようだ。


 意識してみると、俺を苦しめていた空腹感もいつの間にか消えているのがわかる。それどころか、漂流の疲労すらも軽減されていた。これは明らかに、アドレナリンがどうとかのレベルではない。


 たまらず、俺は彼女に詰め寄った。少々強引だが肩に掴みかかり、この技術の詳細な説明を要求する。人間として当然の探求心が、これを問いたださずにはいられなかったのだ。


「――ッ!」


 それに対し、彼女は小さく悲鳴を上げて俺を押しのけた。しかし、先程俺を押さえつけたときのような力が入っていない。いったいどういうことか。まったく訳が分からない。


 目線を合わせてくれなくなった彼女に、それでも俺は諦めず問いかけ続けた。


 言葉は伝わらないが、なんとか俺の考えだけでも伝わらないだろうか。こんな見たことも聞いたこともないような技術、知らないわけにはいかないだろう。


「――……」


 ようやく俺に目を合わせてくれた女医さんは、小声で何か言い始めた。


 ? 顔が仄かに赤みを帯びている気がする。ああ、なるほど。こんな大男が詰め寄ったら怖いだろう。それで彼女も委縮してしまったのか。これは失礼した。


 何、話してくれる気になったのならば問題ない。俺も言葉が分からないなりに、一言一句聞き逃さないよう努めるとする。

 集中力を高めるため、俺はその場に座り込み目を閉じた。顔だけ彼女の方に向け、さあ聞き取る準備は万全だ。


 頬に、彼女の柔らかい手が触れる。おっと、そんなに近くで話さなくても大丈夫ですよ? 聴覚には自信があるので、聞き逃したりはしません。


「……――……!!」


 ん? 男の叫び声?


 目を開けるとそこには、向こうも何故か目を閉じ口をこちらに近づけてくる女医さんがいた。


 そしてそのさらに向こうには、男物らしい着替えを持った男性が通路を走ってくるのが見える。おや、あの着替えはいったい誰に……!?


 ……その後、勘違いをさせてしまった女医さんに土下座をするのは必至であった。

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