第四話 VSクロノ
クロノという男は、俺に向かって拳を構えている。その距離、わずか2m程度。一歩でも踏み込めば、その拳が俺の顔面を殴れる距離だ。
しかし、何故か即座に仕掛けてくることはない。
フラフラで拳も握ることが出来ない俺だ。今すぐ飛び掛かられて一撃でも喰らえば、その時点でKOは必至である。彼はいったい、何を警戒しているというのか。
……仕掛けてこないというのなら、こちらから向かおう。
まったく訳の分からない状態だが、このまま連中の良いように潰されるのはごめんだ。少しでも抵抗し、何らかの方法でここから脱出しなければならない。
ふらつく身体を無理やり動かし、俺は全裸のクロノへ向かって一歩踏み出した。
彼はこの前進を警戒して、後方へ半歩下がる。
そんなことに気付いたとして、格闘技の技術など何もない俺は、これをまったく無視して拳を放つ。握ってもいない、ほぼ平手のような拳だ。ただ手の甲を押し当てているだけである。
当然、戦闘慣れしているクロノはこれを反対の手で弾き、引いた足から力を込めて踏み込む。今度は半歩ではなく、一歩。深々と踏み込んだ彼の推進力は、そのまま力となった。
彼の拳が俺の鳩尾に食い込み、そのまま70kgある俺の体重を持ち上げたのだ!
あまりの衝撃に、俺は声を出すことすらできなかった。それどころか、息が詰まって苦しい。慌てて咳をしなければ、そのまま窒息していたかもしれない。
空っぽの胃から液体が逆流し、その場にぶちまける。喉を焼く酸味と激臭が、今の俺には溶岩のごとく感じられた。
しかし、ここで負けを認めるわけにはいかない。こんなところで敗北しては、連中に何をされるのかわかったものではないのだ。
せめて、このクロノに何か喰らわせて一矢報いなければ。今日俺が生きているかも危ういだろう。
立ち上がると、とてつもないめまいが俺を襲った。立ち眩みのようだが、それだけではない。身体の疲労とダメージが、脳へと一挙に襲ってきたのだ。
「クソッたれ。こんな状態で戦えだと? アンフェアにも程があるだろ。そもそも今日の朝顔面を殴りつけられていたんだぞ。空腹も酷いし漂流の疲れもまったく癒えていない。これさえなければ、もう少し戦えるのに。ホントにクソだな」
何とか二本の足で立ち上がりクロノを睨みつけるが、どうにも締まらない。
「……――……――? ……――。ハハハッ!」
具体的に何と言っているのかは分からないが、恐らく俺を嘲っているんだろう。
『負け惜しみか? 情けないな。ハハハッ!』と、多分こんなところだろう。実際そうだから悔しくて仕方がない。
たとえ俺に疲労やダメージが一切なかったとしても、クロノには勝てないだろう。
コイツは強い。喧嘩慣れし過ぎている。きっと、この劣悪な環境の中戦い続けることで生きてきたんだ。そんな奴に、平和な日本でのほほんとしていた俺が敵うはずもなかった。
ならば勝てる方法ではなく、一撃喰らわせる方法、負けない方法を考えよう。
もとより今の俺では、コイツに一撃でも当てることが難しいのだから。
鳩尾のダメージが凄まじい。腹だけでなく、今朝喰らった顎のダメージまでも刺激してくる。しかしこれに屈していては、いつまで経とうとこの男に攻撃を当てられない。
俺は身体に掛かるあらゆるダメージを蔑ろにして、奴に向き合った。
当然、痛みを感じなくなったわけではない。これ以上無理に動いたら、俺の身体はおかしくなってしまうのだろうという予感すらある。だが、それを敢えて無視するのだ。痛みによる身体の警告を、俺は理性でもって押さえつけた。
恐らく、このまま戦闘を続行すれば、当たり所によって俺は死ぬ。そんなことは、生物として当然の痛覚からも理解している。
だが、周囲の熱が、俺を連れてきた男の意志が、そして俺の感情が、これに屈することを良しとしないのだ。どうしても、無茶がしたい。
覚悟が決まった分、今度は拳に力が入っている。体重70kg、身長175cmの俺から繰り出される攻撃は、普段ロクに飯を食っていないだろうクロノには耐えられないはずだ。いくら喧嘩慣れしていても、一発喰らわせられれば勝機がある。
この勝負、アンフェアなのは向こうも同じなのだ。
どう見ても筋肉量は俺の方が多いし、身長も頭半分程度高い。体格差というものがまったく考慮されていないのだ。その分、俺の方が圧倒的に有利である。
格闘技の構えなど、俺が知っているはずもない。だが、なんとなくそっちの方が良いのだろうと感じる。だから、俺は見よう見真似でクロノと同じ構えをとった。
右手を前に、左手は硬く握って頭周辺をガードする。多分、ボクシングの構えに近いのだろうか。右手をガードではなく攻撃専用にするのは、思考の軽減を狙ってか。劣悪な環境に置かれている分、彼も集中力が万全ではないのだ。
構えを取ると、どういうわけかその構造が理解できる。ちゃんとした理論で成り立っていたのだ。
後ろにおいた左脚は踏み込むため、右脚は蹴りを放つため。
拳の位置に意味があるのならば、もちろん足の位置にも意味があった。少し腰を落とすと、それだけで踏み込みやすさが段違いになるのを感じる。
そういえばさっき、クロノは俺の拳を右手で弾いていたな。右手は攻撃用だが、左手に繋げたい場合は防御に使ってもいい。だが、それは少々技術が必要だ。なら、小心者の俺は、最初から防御に使ってしまおうかな。
早速俺は、模倣した構えを自ら崩した。何、簡単なことである。クロノの拳がめっちゃ怖いから、右拳を握るのではなく開く。受けるのが目的なら、面積が広い方が良いだろう。
そして今度は左手で反撃……いや、択はそれだけじゃないか。
今度は向こうから仕掛けてくる。構えを取り出した俺に、ある種の警戒心を抱いたのだろう。先手必勝と言わんばかりの気迫を見せていた。
左脚で踏み込み前進のエネルギーを右拳に伝えている。
なるほど、身体から直線的にエネルギーが移動するから、途中でブレずに勢いが拳へ集まるのか。今の俺は、不自然なほどに洞察力が冴え渡っていた。
直線的にエネルギーが移動するゆえ重たいのならば、その直線を崩せばいい。
その方法も、先程知ったばかりである。
俺は平手にした右手でクロノの右拳を横からはたき落す。
途端、整っていたクロノの重心がブレ、拳の勢いは著しく低下した。もちろん、その指向性を奪われた拳は俺に当たることなく空を切る。
お互いに右手を振り抜いた姿勢。しかしそこは、戦闘慣れが顕著に現れてしまった。
クロノは俺に弾かれた勢いを殺さず、むしろ利用して左手を振り回したのだ。遠心力の乗ったその拳は速く、そして鋭い。
「だが、下がお留守だぜクソ野郎ッ!」
「……!!」
俺は最初から、これだけを狙っていたのだ。これに繋げるためだけに、コイツの攻撃をわざわざ弾いた。ホントは手がめっちゃ痛くなるし、反射神経にも自信がないからやりたくはなかったのだ。だが、終わりよければ総てよし!
左手をぶん回して攻撃してくるクロノに対し、俺は腰を深く落とし、右脚で蹴りを放った。背筋を活かしきった、後ろ直線蹴りだ。
腕を伸ばして振り回すのは、遠心力も体重も乗って強い。しかしその欠点は、打点のわかりやすさと到着時間にある。
クロノの攻撃は確かに速い。だが、素人であってもこの距離間ならば、直線蹴りの方が断然速いのだ。
かかとを尖らせクロノの腹に叩き込む。彼の左拳は折れ曲がり空を裂いた。
今こそ好機と見切った俺は、すぐさま距離を詰め連撃に掛かる。
まずはそのままの姿勢から裏拳。右手を元の位置に戻すだけだから、クロノの反応よりもずっと速い。
続いてその流れのまま、先程のクロノ同様左手を大きく回して顔面に叩き込む。既に二発喰らっているクロノは、俺のように反応することは出来なかった。というよりも、最初から蹴りという選択肢をあまり持っていないようだ。
クロノが後ろに引いて体勢を崩したのなら、上にまたがって顔面を殴りつける。
技術はないが、俺の体重があればマウントを取ることなど容易であった。
右拳を天高く振り上げ、円を描かずまっすぐ振り下ろす。俺の体重が全て乗り切った一撃は、クロノの鼻を圧し折り決着を付けた。
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